世界をとめて

makikasuga

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誘拐犯はオスイチ男

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 人生なんてどうでもいい。俺は幸せになる権利なんてないから。
 そう思っていた、彼女と出会うまでは。

 いつも通り午前七時にアラームが鳴る。昨夜は一睡もしていないため、すぐ手が届いた。そのまま起き上がり、柳広哲やなぎこうてつは洗面台へと向かう。
 水で顔を洗って歯を磨き、備え付けの鏡をみて、昨日の服のままだったことに気づき、隣のシャワーブースへと向かう。服を脱ぎ捨て、蛇口を捻り、適温にして頭からシャワーを浴びれば、落ち込んだ気分が少しだけ和らぐ。
 この家はなんでも揃っている。空調が効いた広い部屋。一流シェフが作る料理。ブランド物の服。望めばなんだって手に入れられるけれど、柳が本当に望んでいるものだけは、どうやっても手に入らない。

「早く行かねえとな」
 気持ちを切り替えるように呟いてから、蛇口を閉める。バスタオルで手早く体をふいて、新しいシャツとジーンズに着替える。頭は濡れたままだが、そのうち乾くだろう。水滴が落ちないようにと、何度か吹いた後、柳は部屋を出て、二つ先の部屋の扉をノックした。
「花梨、起きてるか?」
 そこは浅田花梨あさだかりんの部屋だった。何もなければ彼女は言葉を返してくれるはずだ。しかし今日に限って返事がない。
「花梨、寝てんのか?」
 返事がないときは更に二回。それでも反応がないときは入っていいと言われていた。柳は大きな息をひとつ吐いてから、ドアノブを回し、叫んだ。
「花梨!?」
 乱暴に扉を開け放つと同時に、柳はベッドへと駆け寄る。そこには青白い顔をした少女がいた。

「……コウちゃん?」
 柳の声で覚醒したらしく、花梨はゆっくりと両目を見開いた。花梨の目が見開いたことに、思わず胸を撫で下ろす。
「ごめん、寝坊しちゃったね。おはよう」
「おはよう、花梨。起こして悪かったな」
「ううん、起きて準備しなきゃ。やっと麻百合に会えるんだもん」
 花梨が笑うと、可憐な花が咲いたかのように、柳は温かい気持ちになる。
「無理すんなよ。そいつとはいつでも会えるんだから」
「私が早く会いたいだけだよ。どんなお姉ちゃんなのかなぁ」
 花梨には双子の姉がいる。昨晩かっさらってきた金田麻百合がそれに当たる。
「コウちゃんも、麻百合と仲良くしてね」
「それが花梨の命令なら従ってやるよ」
「だったら命令。コウちゃん、麻百合と仲良くして」
 こんな風に言われると、柳は何も言えなくなってしまう。
「はいはい、わかりました」
「なんでそんなに嫌そうなの?」

 柳は金田麻百合の身辺調査を行っていた。両親は麻百合が十歳のときに事故死。他に身内はなく、施設で育ち、高校卒業後にある会社へ就職。十歳上の同僚と恋人関係となるも、既婚者で不倫関係だったことが発覚し破局。会社を辞め、アルバイトを掛け持ちして生計を立てている。若い女性の一人暮らしということもあってか、オートロックつきの1Kのマンションに住んでいる。収入を考えれば少し高めの家賃にも関わらず、麻百合は湯水のように金を使っていた。それも真っ当な使い方じゃない。暇さえあればパチンコ屋に通っており、ギャンブル依存症と言っていいもいいだろう。
 昨晩麻百合にも言ったが、柳はそのことに対してとやかく言うつもりはない。浅田家に来るまでの柳は、真っ当とは言い難い生活をしていた。今は花梨の存在がブレーキになっているが、彼女が居なくなれば、どうなってしまうかわからない。

「ねえ、コウちゃん、聞いてる?」
「聞こえてる。仲良くしろって話だろ」
 昨晩眠れなかったこともあってか、柳の思考はぼんやりしていた。
「なんで麻百合のことが嫌なのかって聞いたの」
「花梨以外のことはどうでもいいから」
 嘘偽りなく、そう思っている。あのとき花梨に出会わなければ、柳は死んでいたかもしれないから。
「コウちゃん、そればっかだよ」
「俺は花梨のものだから」
 柳は真面目に言い放った後、その場に跪いた。
「おまえの願いを叶えるために、俺はここにいるんだから」
 さしずめ姫に仕える従者のように、柳は花梨の手を取り、そっとキスをする。
「コウちゃんってホント気障なんだから」
「好きな女の前ぐらい、カッコつけさせろ」
 柳は花梨が好きだし、彼女から好意を持たれていることもわかっている。
 だが、これ以上は先には進めない。気障だろうがなんだろうが、これは柳の精一杯の愛情表現だった。
「へへ、ありがと、コウちゃん」
「起こしてなんだけど、もう少し寝てろ。あいつが来たら起こしてやるから」
 柳が声をかけるまで応えなかったこと、いつもなら起き上がる花梨がそれをせず、青白い顔色のままでいることからして、相当辛いのだろう。
「側にいてね、コウちゃん」
 花梨の小さな手が、柳を求めるように差し出される。その手を両手でしっかり握り締めて、柳はとびきりの笑顔を浮かべた。
「ずっと居てやる。だからゆっくり休め」
 こくりと頷いて、花梨は目を閉じた。その目が再び見開くように、そのときは辛さが和らいでいるようにと、柳は祈り続けた。
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