世界をとめて

makikasuga

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奇跡の確率変動

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 花梨の判断が功を奏した。男の右腕には刺し傷があり、患部が化膿して細菌が増殖し、敗血症になっていたのだ。あのとき花梨が声をかけなかったら、男は死んでいただろう。
 病室で目を覚ましてからは一言も話さず、意思疎通は頷くか首を振るしかしない。見張っていないと食事も取らず、まるで生きた屍のようだと聞き、心配になった花梨は高橋を伴って病院へと出向いた。
「少しだけですよ。相次郎様に見つかれば、叱られますから」
「見つからなければいいんでしょ」
 男は身元がわかるようなものを何一つ持っていなかった。財布の中には数千円の現金だけで、カード類も入っていない。身元不明のうえに右腕に刺し傷とくれば、警察に連絡するのが普通だが、これまた花梨が高橋に頼み込んで、親戚だと嘘をつき(名前も偽名)うまくごまかしたのだ。
「お待ちください。彼に会う前に、これをご覧になってください」
 病室の扉をノックしようとした花梨に、高橋は透明なファイルを差し出した。
「身元を調べました。彼はいずれ崩壊します。早く手放された方がよろしいかと」
 ファイルに入っていた書類には、男の名前から現在に至るまでの記録が克明に記されていた。
「へー、柳広哲って名前なんだ。だったら、コウちゃんね」
「花梨様、よくご覧になってください。彼は──」
「私にくれたの、自分の命を」
 高橋の言葉を遮り、花梨は言った。脳裏に柳の言葉が蘇る。

(ああ、死にてえよ。こんな命、いらねえよ)
(いいぜ。あんたに、やる……)

 心配と迷惑をかけてばかりで、自分に生きる価値などないと花梨は思っていた。けれどあの日、柳に出会って世界は変わった。この人を助けたいと強く思ったから。
「だから、どんな人であっても、私のものなのよ」
 花梨は扉をノックして、病室へと足を踏み入れた。
 柳は上半身を起こした状態で、ぼんやりと窓の外を見つめていた。花梨が入ってきたことにも気づいていないかのように。 
「こんにちは。私のこと、覚えてる?」
 側に近寄っても、柳は全く反応を示さなかった。自分を見てほしくて、花梨は柳の頬に手を伸ばしたが、突如その手を掴まれた。
「なんで、助けた?」
 久しぶりに声を発したせいなのか、少しかすれていた。
「余計なこと、しやがって……!?」
 病人であっても柳は男だ。花梨をねじ伏せるだけの力はある。両手を拘束して、ベッドに押し倒した。
「助けたわけじゃないわ。忘れたの?」
「なんのことだ」
「あなたの命、私にくれるんでしょ。だからもらったの」
 柳の目はあの日と同じだった。
「意味わかんねえ」 
「あなたは生きるの。私と共に」
 花梨は体を起こし、柳の頬にそっとキスをした。
「私は、あなたを責めたりしない」
 柳は目を見開き、愕然とした。やがて花梨の拘束を解くと、床にへたり込んだ。背中がひどく震えていた。
「ひとりで辛かったね。けど、もう大丈夫。私が側にいる。ずっと側にいるからね」
 花梨は起き上がり、震える柳の背中をそっと抱きしめた。苦しげな嗚咽が聞こえてくる。
「いいよ、泣いて」
「泣いてなんか、ねえ……苦しいだけだ」
「じゃあ、苦しいのが治まるまで、こうしててあげる」
 柳は嗚咽を漏らし続けた。それが彼の背負う苦しみであるかのように。
「約束するよ、ずっと側にいるからね」
 その約束が叶わないことを知ったのは、それから一ヶ月後のことだった。
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