世界をとめて

makikasuga

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神様がくれた保留連

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「おかえりください。ここはあなたが来る場所ではありません」
 はっとするほど冷たい声がした。麻百合の前にコウが立ちはだかっていた。左手で松岡の首元を抑えながら、右手で松岡の手首を掴む。強い力なのか、松岡は顔を歪め、隠し持っていたらしいナイフを落とした。あからさまな殺意を見せつけられ、麻百合の恐怖は増した。
「まゆ、そいつはダメだ、おまえを不幸にする。刑事の亡霊なんてやめておけ!」
 松岡がなぜコウを経歴を知っているのか。麻百合の疑問に答えるように、こんな声が上がった。
「ここに来るべき人間じゃないのはあなたもよ、元刑事さん」
 浅田和子だった。自信たっぷりの表情でこちらへやってくる。
「浅田の繁栄を支えてきた花村さんともあろうお方が、元刑事を雇うなんて、思いもしませんでしたわ」
 元刑事という言葉を聞いた途端、周囲がざわめいた。側にいた花村の表情が険しくなる。
「おっしゃっている意味が、よくわかりませんが」
「とぼけても無駄ですわ。私はその男とここで会っています。名前は柳広哲。亡き父親も交番勤務の警察官よ」
 警察という言葉で、場内のざわめきがよりいっそう増した。
 昨日レイが言ったことが現実になった。和子はコウが柳であり、元刑事だと経歴を大勢の前で曝したのだ。
「それは、こちらのミスとしか言いようがありませんね」
 花村は冷たい表情のまま、こんな言葉を放った。
「シラサカ、来ているな」
 黒いスーツをきた男が壇上へやってきた。三十代後半くらいの青い目をした男は、麻百合に一礼した。
「おまえは知っていたか、こいつが元刑事だということを」
「いいえ」
「この場で処分しろ。雑魚は後回しでいい」
 花村の言葉を受け、シラサカと呼ばれた男は、コウから松岡を引き剥がした。尚も暴れる松岡の腹を足で蹴り上げ、黙らせる。コウの後ろから覗き込むようにして見ていた麻百合は、たまらず目を背けた。
「ごめんな、麻百合。おまえのこと、護れなくなっちまった」
 耳元で囁かれ、麻百合は我に返る。盾になっていてくれたコウが、切なそうに笑っていた。
「後のことは、レイがなんとかしてくれる。心配すんな」
 花村が放った「処分」という言葉が何を意味するのか、彼らの仕事を考えれば、想像出来る。
「最後におまえに会えて、一緒にいられて、幸せだったよ」
 そう言い残して、コウは麻百合の側を離れ、シラサカの前に立った。
「あんたにバラされるなんて光栄だよ、シラサカさん」
「俺は気に入ってたんだけどな、柳君のこと。残念だよ」
 シラサカがスーツの内ポケットから拳銃を取り出し、コウの胸に銃口を突きつけた。
 ここにいる人間は、彼らの仕事を知っているのだろう。目の前で人が殺されるかもしれないというのに、騒ぎ出す者はひとりもいなかった。
「レイとマキに、ありがとうって言っといてください」

 嘘、嘘でしょ? 気持ちが通じ合えたばかりなのに。

「わかった。柳君の遺言として、伝えるよ」

 このままだと柳が、柳が死んじゃう!?

(……あなたの中にいる柳を今すぐ抹殺してください)
 追いつめられた麻百合の脳裏に、レイの言葉が蘇る。はっとした。あの言葉の意味がここへきて、ようやくわかった。
 柳は死んだとレイが何度もいったこと。麻百合に柳ではなくコウと呼べといったこと。目の前でコウに銃口を突きつけているシラサカという男が、わざわざ柳と呼ぶことも。

『気づかれましたか、麻百合さん』
 そのとき、どこからともなく、レイの声が聞こえてきた。
『万一のために、イヤリングに通信機を仕込んでおきました。あなたがやらなくてはならないこと、わかっていただけますね』

(好きな男を大勢の前で殺すことは、とても辛いですよ)

 レイはこうなることをわかっていた。麻百合の気持ちを考慮し、コウを柳と呼ぶなと何度も言ったのだ。
『あなたにだけ、お話しします。俺は昔、そこにいるバカのように、全てを諦めて死のうとしたことがあります。それを止めたのが柳でした。そのことをあいつは覚えていません。あいつにとっては、大したことではなかったからです。精一杯生きること、最後の最後まで諦めないこと。それを俺に教えた奴が今、いつかの俺と同じ道を歩もうとしている』
 至近距離で銃口を向けられても、コウは脅えていない。それどころか、安堵の笑みを浮かべているように見える。まるで死ぬことに恐れなどないかのように。
『今のあいつを救えるのは、麻百合さん、あなたしかいない。酷なことだとわかっていて、敢えてお願いします。今すぐ柳を殺してください。そしてあいつをコウとして、生かしてやってくれませんか』
 レイの言葉に麻百合の胸が震えた。彼だけじゃない。ここにいるシラサカも、そして昨日出会ったマキも、コウを生かそうとして、奔走してくれていることがわかった。勿論、今はここにいない麻百合の片割れもそうだった。

(コウちゃんのこと、よろしくね……)

 みんなの願いを叶えるから、私に力を貸して、花梨。
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