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第30恐怖「鏡縛り」
しおりを挟む片田舎に住む森川さんという方が体験した話だ。
彼はその日、映画を観るために電車で市街地へと出向いた。著名な映画監督の伝説的デビュー作が、リマスター版となって上映されるのだ。
意気揚々と目的地の駅で降り、駅舎のすぐ横のビルに入る。最上階が映画館だ。
古い劇場の埃くさい座席に座り、そこから二時間、存分に映画を楽しんだ。
エンドロールが流れてすぐ、森川さんは尿意をもよおし、終わる頃にはあっという間に我慢の限界が近づいていた。
上映終了となってすぐ座席を立ったが、同じ列の出口側に座っていた老父が通り道を塞いだまま、のろのろと帰り支度をしていた。すみませんと声をかけて通ろうとするも、老父は道を空けるのではなくそのまま列から出ようとした。
反対側から行くという手もあったが、遠回りだったのでどちらにせよという感じだった。
森川さんは老父の後ろをついていく形となった。歩みは遅く、のそりのそりと進む。高齢の方に文句を言うわけにもいかず、膀胱のあげる悲鳴に成す術もなく歯軋りした。
列を出てやっとトイレに駆け込んだときには、膀胱がひどく痛み、脂汗が滲んだ。観る前にトイレに行かなかった自分を恨む。
ずいぶん長い時間をかけて用を足し終え、手洗い場へと歩む。
が、ひとつしかない洗面器の前には、さきほどの老父がいた。ぼんやりと鏡を見たままじっと動かない。
「すみません、ちょっといいですか」
声をかけるも、老父は虚ろな瞳で鏡にうつる自分自身を眺めるばかり。眉ひとつ、眼球ひとつ動かさない。
「あの、ちょっと」
森川さんは老父の肩を叩いた。
とたん、老父は目をカッと開き、大きく息を吸い込んだ。それからフウと息を吐き、何度か深呼吸をして、息を整えた。鏡越しに森川さんと目が合い、まるで失っていた意識を取り戻したかのような感じだった。
「大丈夫ですか?」
森川さんが恐る恐る聞くと、老父はコクコクと頷き、黙ったままトイレを出た。
変な人だ……
森川さんは老父を見送ってから水道に手をやり、そして鏡を見た。
と、そこには見知らぬ人物が映っていた。
あっと驚くと同時に、森川さんはその場を動けなくなった。耳鳴りがして、思考はぼやける。
まさかそんな──
森川さんの脳裏に「金縛り」という言葉がよぎった。寝ているときに体験したことはあるが、覚醒時に起きたことはない。
それに、自分のかわりに鏡に映る、この人物。
誰だ、こいつは。
だいたい五、六十代だろうか。白髪混じりの頭に、垂れ下がった頬の皮膚。目元の隈が濃く、唇は乾き切っている。およそ健康的とはいえない。
もしかしてさきほどの老父も、この人物を鏡に見たのだろうか。そして同じように、金縛りに遭っていた──
見知らぬ男を眺めているうち、森川さんは意識が薄れてきた。視界の端から白いもやが広がっていき、やがて暗転した。
気づけば、館内の待合ソファに横になっていた。
ハッとして体を起こす。
「大丈夫ですか?」
すぐそこの受付の女性が声をかけてきた。
「ええ、なんとか」
混乱しながらそう応える。
トイレで倒れて、ソファに運んでくれたのだろうか。
思い返そうとすると、おかしな記憶がふっと浮かび上がった。
自分は倒れてなんかいない。あれからすぐトイレを出て、もう一度チケットを買い、それから……
ポケットに手を突っ込むと、映画のチケットの半券が二枚あった。
そんな馬鹿な……
もう一度観たのか……
電車で帰宅する際、森川さんはこの一件について考察を試みた。そして一つの結論に辿り着いた。
どう考えても、鏡に映る見知らぬ男の仕業だ。
うらめしそうなあの顔……
よっぽど、あの映画のファンだったに違いない……
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