山下町は福楽日和

真山マロウ

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出会いは吉とでるか

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 ヒヅキヤに帰ると、八雲さんが一人でおやつを食へわるところだった。白磁のデザートプレートに乗っているのは、くるみと全粒粉のスコーン。焼きたてのかぐわしさと、もこもこの焼き色グラデーションが非常に魅力的だけれども。

「日和さんのも作ってますよ。食べますか?」
「お茶してきたんで、あんまりお腹すいてなくて」
 起立を制し、私も定位置に座る。
「今日も、とっても美味しそうですね」
「上手にできたと思います。ひとつだけでも食べませんか」
「じゃあ、あとでいただきます」

 なんてことない会話。なのに言葉をかわすたび、胃のあたりの重苦しさがすうっと解消されていく。

「そういえば、さっき会いましたよ。バラの香りの美咲さんと」

 それでも、しつこい心のしこりが私に底意地の悪い探りをいれさせる。彼女は八雲さんに好意をもっていた。だったら、八雲さんのほうはどうだろう。

「あれ? 二人とも知り愛だったんですか」
「さっき知りあいました。八雲さん、人づきあい苦手っていうわりには、誰とでも物怖じせず会話しますよね」
「そうでもないです。よく緊張します」

 割ったスコーンにブルーベリージャムとホイップをのせたまま、八雲さんの目が私にむく。

「でも、日和さんは平気です。緊張したことないです。体のちからが抜けます」
「脱力するってことですか……」
「リラックスするからだと思います。慣れ親しんだかんじがして」
「もしかして〈タヌキのぬいぐるみ〉ですか」
「そうかもしれません。ほんとに似てます。ぽんちゃんって名前つけて、ずっと抱っこしてました。懐かしいなぁ」

 ほんわか笑顔に、こびりついていたわだかまりが消滅。つくづく不思議だ。この人のほほえみは、その場の空気だけでなく、見る者の心まで柔らかくする。

 気をとりなおし、本来の目的だったバラの香りのことを報告する。山下公園と港の見える丘公園のを嗅ぎくらべたら、たまたまかもしれないが後者のほうが感じとれた。

「美咲さんの香り、とても似てました。僕の記憶のバラ、本物のじゃない気がします。もしかしたら母は香水をつける人だったのかもしれませんね」

 どこか突きはなした他人事みたいな口調が引っかかっていると、思いきり顔にでてしまったらしい、訝しんだのが八雲さんにも伝わる。

「よく知らないんです、母のこと。僕が物心ついたときには、もういませんでしたから。勝手にでていったとか病気で死んだとか、父の言うことも毎回違ってましたし」

 複雑な家庭環境がうかがえる内容。どうしよう、「なるほど」くらいの返事しかできない。

「日和さんのご両親はどんな人ですか? きょうだいは?」
「物静かな父親が、かしましい母親の尻に敷かれてます。兄が一人いて」
「羨ましいです。楽しそうなご家族で」
「ここ何年も会ってませんよ、親とも兄とも」
「それでも。僕の父は、あんまり家族ってかんじしなくて。一緒にいて楽しかったのは、ぽんちゃんだけでした」

 次から次、くりだされるエピソードへの返しが難易度が高すぎる。まずいぞ、これ以上ヘビーなのがきたら無理だ。誰か助けて!

 渾身の祈りが天に通じたのか、うまい具合にドアベルが鳴る。午前中からでかけていた、和颯さんのご帰還だ。

「おかえりなさい。おやつ、和颯さんのも作ってますよ。食べますか」
「ああ、自分でやる」
「やっぱり私も。せっかくだから一緒に」
「なんだ、ひよちゃん、まだ食べてなかったのか」

 テーブルの上を見れば一人分しかないのは歴然。それを和颯さんが見逃すなんて。



 らしくなかったわけは夕食後に判明した。
「父親に会ってきた」
 屋上にいたところを狙って様子をみにいくと、和颯さんはあっさり答えてくれた。

「邪険にもされず、けど感動の再会ってわけでもなく。認知がどうとか言われたが断った。これまで不自由なかったんだから、これからも平気だろう」

 白い息を空にのぼらせ、ぽつりぽつり、はじめて聞かされたというご両親のことが語られる。

 彼らは恋人同士であったものの結婚にはいたらず。別れたあとに和颯さんが産まれ、父親はこれまでその存在を知らずにいたそうだ。離別の原因について、和颯さんは言及しなかったらしい。未婚の母となる道を選んだ理由にいたっては、もはや知るよしもない。

 私は、ただ聞くしかできずにいた。けれども和颯さんは「そのほうが気持ちの整理がつく」と言ってくれた。聞いてくれてありがとう、とも。無力感に落ちこむ私を気づかいながら。

 しばらく頭を冷やすと言う和颯さんを残し、階段をおりる。と、私の部屋の前に人影が。

「どうしたんですか、八雲さん!」

 しゃがみこんでいたので具合でも悪いのかと思いきや「お弁当のこと相談したくて」とのこと。朔くんの復学はあさってに迫っていたが、具体的なことはなにも決めていなかった。

「だからって、こんな場所じゃなくても。風邪ひきますよ」
「大丈夫です。こういうの慣れてますんで」
 またもや家庭の事情が関わっていそうな発言。今日はもう、いろいろキャパオーバーだ。
「明日考えましょう。買い物に行ったとき食材を見てから決めてもいいですし」

 ゆっくり立ちあがった八雲さんの眉が、悲しげな形になる。

「僕、日和さんを困らせてますか」
「まさか、全然ですよ」
「ほんとですか? 我慢してませんか?」
「ほんとです。してません。する理由も……」

 ないです、と続けようとして、先日のように両頬を手のひらで包まれ「おふ」と変な声がでた。

「すみません、つい。ぽんちゃんみたいだったんで」と手が離され「子どものころ、よくしてたんです。顔ぎゅーって。でも、それを日和さんにしたら痛いかもと思って」

 その行為にどんな意味があるのかわからないが、心の支えだったぬいぐるみにするくらいだ、悪意のあるものじゃなさそうだ。

「遠慮しなくていいですよ。ぎゅーっとやってください」
「やめたほうがいいです。顔ぺしゃんこになるかもです」
「えっ! ……ちなみに、どのくらいのパワーですか」
「このくらいです」

 わお、まじすか。びくともしない瓶の蓋あけるときの、全力の体勢じゃん。

「やっぱ、やめときます」
「そうですね。けど」
 ふたたび手がそえられ、もふもふと頬が揉まれる。
「このくらいなら、やってもいいですか」
「……お好きにどうぞ」

 ごく弱めのちからながら八雲さんは喜色満面。おそらくこれはストレス解消目的だな。スクイーズボールがわりの。
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