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序章 失われる日常

第2話 崩れるゆく幸福1

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「今日の会食でついに日程がお決まりになるのですか?」

「えぇ、そうね。決まるといいわね…」



日程とは、クレベルトとの結婚のことだ。
婚約したのが、8年前の八歳の時に交わされた。それから現在に至るまで縁談が進むことはなかった。
その理由はクレベルトの叔父様が深く関わっている。
彼は深くそのことについて話すことはないが、たった一度叔父様が私に放った言葉がある。

『この血ぬられた娘が…』

当時九歳だった頃に軽蔑された眼で言われた言葉を私は昨日のように今でも覚えている。
あの意味から感じ取るのは深い憎しみ、軽蔑。

長い歴史の中で中央大陸と北の大陸は多くの戦をしたことは少なくとも理解したつもりだ。
けれど、それは過去のことだ。
私たちの婚姻はそのような悲しみしか生まない戦を二度としないようにとの
平和協定を結ぶためでもある。
幸福の為に結ばれるはずの結婚がどうして許す事が出来ないのだろうか?

「…様。ミシェル様」

「…何かしら?」

「このような髪型でよろしいでしょうか?」

気がつけば、とても奇麗に髪が結われていた。

「えぇ、これでいいわ。ありがとう」

メイドは一礼してから部屋を後にした。
その姿を見送ってから私はため息をついた。
鏡に映る姿は、酷く憂鬱な顔をしていた。とてもではないけれど会食に出られる状態ではない。
ドレッサーの引き出しから二つのブローチを取り出した。

一つは、このヴェル家の一族の証のブローチ。
中央にはペガサスの紋章が描かれており周りは鮮明の緋色をしている。
ペガサスは、初代当主だったダン・ヴェルが瀕死の時に命を助けたのがペガサスだったことが
由来していて、このペガサスのように誇り高く堂々と生きるのが我が家の家訓になっている。

もう一つは婚姻の印にクレベルトから渡されたブローチ。
両国の繁栄と幸福の為になされた婚約だったのだが、私たちの間では
自分たちの純愛の印の為だとまだ幼かった頃に誓った約束のブローチ。
私たちは、お互いに会う時にはいつも身につけている。

あの約束が永久に続くようにと願って…。

コンコンという音が聞こえた。
一体誰かしら?

「どうぞ」

「失礼するぞ」

声の主が誰だか直ぐに判断して慌てて身なりを整えた。
国王…つまり私の父がだった。

けれど不思議に思った。どうして父様が私の部屋なんかに訪ねてくるのだろうか?
滅多にいや…、片手で数えるほどしか自ら私の部屋に赴くことが今までになかった。
裏を返せば多くのものに聞かれてはならない重大な事があったのかもしれない。
もしかして、クレベルトの身に…?

「身支度をしている時にすまないね…」

ご立派な髭を触りながら父様は部屋に入ってくる。
その足並みは軽やかなものではなかった。
嫌な予感がした。

「えぇ、ちょうどブローチを付ける前でしたの」

「その事なのだが…」

その予感は私の心の中で大きな音を鳴りだしていた。
まさか…。

何度か視線を泳いだ後父様は私の目をまっすぐに見つめた。
その瞳の中には、揺るぎない意思が示されていた。

「今回だけ王家の紋章のみをつけなさい」

その言葉を聞いて思わず眉間にしわを寄せた。
一体どうして…?その意味は国王でもある父様が知らないわけではない。
王家の紋章のみ…。それは威嚇の意味を表している。

時と場合によってその紋章の意味は変わってくる。
今回の場合は、威嚇の意味を表す。それはどうしてか?

例えば、何処かの領土との協定を結んだ場合、相当な理由がない限り紋章を掲げる事を禁じている。
それはお互いを認識しているからこそ自国の証を示す必要がない。
という意味だった。
その約束は全ての領土で定められている。
この協定を破れば最悪の場合戦争が待ち構えている。

その上、私は中央大陸の一族で周囲からしたら強大な力があると認識されている。
何かに栄えていたとしても中央大陸に比べると天と地の差がある。

その構図さえ頭の入っていればどのような意味をもたらすか直ぐに理解できる。
そして、そのような事になれば必然的に…

「この縁談を破断にしたいのですか?一体どのような理由でこの紋章をつけろと
仰るのか理解できるように説明を願います」

嫌な予感どころか最悪な状態になってしまうではないか。
初めて父様に声を荒げてしまった。
けれど、父様は何も言わず見つめた。そして先ほどより低い声で理由を告げた。

「戦を私は望んでいるわけではない。ただ、相手の領土に舐められていると思わんか?」

どうしてそのような考えが浮かび上がるのは私も分かっていた。
そして何度か頷いて父様に示した。

「だったら私たちもそれ相応の態度を示さなければならない。この大陸は他の大陸とは違うということは
お前も理解できるな?」

本気で言っているのだろう。普段私たちに見せる朗らかな面影は一切この空間にはなかった。
この表情を私は知っている。
自国や領土が脅かされそうになった時にどのような手を使っても排除する命を出す時の表情だ。
政治面では、父様は『冷酷な領主』と言われている。
だからこそこの領土は確固たるものなのだと幼い頃から言い聞かされてきた。

けれど、どのような背景であっても私はクレベルトとの関係を壊したくはなった。
例え、父様に刃向かうことになっても。

「けれど、父様…いや国王。
貴方は私にこの婚約に決して政治的利用の為に破断などにはしないと約束しました。
ですので私に時間を下さい」

「時間だと…?そのようなものはこの八年間山のようにあったではないか?」

「それでも時間が必要です。ほんの僅かで構いません。今日の夜会には必ず決断を下します。
ですから、クレベルトと二人きりで話をさせてください。他の者には介入されたくはありません」

数分間親子の間に沈黙が流れた。
父様の返答次第ではこの関係に亀裂が入ってしまうと予感していた。

その時に再び扉から音がした。


「お嬢様。クレベルト様が到着されました」

タイミングが良いのか衛兵の一人がその知らせを伝えに来た。
これですぐにでも判断を下さないといけなくなった。
さて、一体どのような判断を下されるのだろうか…。


「良かろう。今夜まで待つ」


その言葉を聞いた瞬間少しだけ安堵した。
良かった…。
もし、この申し出を聞いてもらえなかったらのことは考えていなかったからだ。

「分かりました。直ぐに伺います」

その安堵はすぐに別のものに変わっていく。焦燥感という感情に。

時間が限られている。
早くこの事を彼に伝えないといけない。何があってもこの関係を守らないといけない。

ドレッサーに置いていた幸福を願ったブローチを手に取り父様の目の前を通った。






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