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第二章 クレイジー・パーティー・イン・ホスピタル
第20話 あふれ出る魔気の嵐
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「何をしている……?」
氷上恭一は怪訝な表情を浮かべた。
甘太郎が手にした何かを口元に持っていったかと思うと、突如として背中を丸めて小刻みに震えながら悶え苦しみ始めたのだ。
「奴を……あの小僧をすぐに取り押さえろ!」
氷上は敵の妙な動きを警戒してすぐさま脳内から指令を発した。
すると彼の命令を受けた1級感染者である守衛の2人は、他の感染者らを掻き分けて移動を始め、すぐにキャットウォークの上へと足を踏み出した。
大勢の2級感染者らと異なり、思考能力を持つ彼らは氷上の細かい指令通り、器用に狭い足場を渡って恋華と甘太郎の元へ向かう。
その手にはギラリと光る刃物が握られていた。
それは先ほど看護士が持っていたようなメスではなく、刃渡り20センチほどのナイフだった。
甘太郎の体に変化がありありと表れ始めたのは、守衛の男らがキャットウォークを半分ほど渡り終えた頃だった。
「な、何だあれは……?」
甘太郎の奇怪な様子に氷上は目を見張った。
その視線の先では甘太郎の体中から重厚な黒い霧が吹き上がっていく。
それはあっと言う間に階段フロアに充満していき、氷上のような能力者の目には視界がうっすらと暗くなったように感じられた。
「こ、これは……魔気か」
氷上はその黒い霧の正体が魔気であることをすぐに感じ取り、その奇妙奇天烈な様子に彼は初めてたじろいだ。
氷上が驚きを禁じ得なかったのは何もその光景の異様さのせいばかりではない。
むせ返るほど濃厚なその魔気に、その場の空気全体が手足にまとわりつくように重苦しく感じられたためだ。
「あの小僧……何が起こっている?」
そうつぶやく氷上が一瞬の隙を見せたその時だった。
素早く空を切り裂いて飛来した何かが氷上の視界に端に映る。
「うぉっ!」
咄嗟に避けきれずに、それを己の額に浴びた氷上は思わず驚愕の声を上げた。
ひんやりとした感触が額と眉間に広がり、氷上は目をぎゅっとつぶる。
青色の液体が彼の額を染めた。
だが、それは一瞬で蒸発して消える。
そしてほとばしる電気信号のようなわずかな刺激と違和感が頭の中に入って来ようとしているのを感じながら、氷上はわずかに意識のスイッチを変換させた。
そして氷上は静かに目を開けた。
その目は確信に満ちた悪しき光を宿して輝いていた。
彼の視線の先では恋華が一本の折りたたみ傘を手に、その先端を氷上の方へ向けていた。
先ほど自分の額を打った奇妙な液体がそこから射出されたことを知り、氷上はニヤリとする。
「これがあの女の力か。だが……無駄なことだ!」
恋華の修正プログラムは彼の中に浸透することなく、ある防御プログラムによって逆流することとなった。
その結果が、激しい頭の痛みに苛まれて苦しむ恋華の姿だった。
氷上は己の策が功を奏したことに満足げな笑みを浮かべる。
彼は彼のボスからあらかじめ聞いていた恋華の能力に対する対抗策を己の身に講じていた。
恋華がブレイン・クラッキングを修正するために打ちこんでくるプログラムに、ノイズを含ませて跳ね返すアンチプログラムをあらかじめ自分の脳に施していたのだ。
これによって跳ね返されたノイズ入りのプログラムが、恋華の脳に強いダメージを与えている。
彼女を苛む激しい頭痛はそのせいだった。
「愚かな。何の用意も無くこの場に来るような無策を私が冒すと思うか? いかにカントルムのエージェントとは言え、しょせんはまだ経験の浅い小娘だな」
そうした氷上の嘲りも、恋華の耳には届かない。
彼女は頭を抱えたまま、痛みに耐えることしか出来ずにいた。
そして恋華を守るはずの甘太郎は、彼女の隣で体から黒い霧を噴出し続けながら、まるで立ったまま死んでいるかのようにピクリとも動かない。
虚空を見つめるその目からは何も映っていないかのように光が失われていた。
「妙な小僧だが、能力に欠陥があるようだな」
そう言うと氷上は視線を巡らせる。
守衛の男らはいよいよキャットウォークを渡り終え、甘太郎らが立つ狭い足場に到達していた。
もう数歩進めば恋華と甘太郎に手が届く距離だった。
「よし。女を捕まえてここまで連れて来い。小僧は心臓をひと刺しにしてやれ!」
氷上は嗜虐に満ちた表情を浮かべて、傀儡となった守衛の2人に命じる。
主の求めに応じて、守衛の1人が手にしたナイフを甘太郎の胸目がけて突き上げた。
その様子を見つめる氷上の目に、邪魔者を排除する爽快感を伴った嗜虐的な光が浮かぶ。
だが、それはたちまちのうちにかき消えた。
「な……何だと?」
甘太郎を刺殺する寸前で守衛の男の姿が一瞬のうちに消えてしまったのだ。
まるで蒸発でもしてしまったかのように。
唐突なその消失の様子に、息を飲んで言葉を失う氷上の目の前で、さらなる驚愕の事態が展開された。
消えた守衛のすぐ後ろを進んでいたもう1人の守衛がやはり同じように姿を消したのだ。
「ど、どういうことだ……」
信じ難い光景に氷上は幾度も目をしばたかせた。
1級感染者を制御するのは氷上にとっても骨の折れる作業で、たった2体とは言え、その一挙手一投足を操るのに彼は最大限の労力を要していた。
だが、その2体がまるで煙のように消えてしまった。
氷上は内心の動揺を押し殺し、唇を噛んで視線先の甘太郎の姿を見つめた。
「まさか……奴の仕業か」
甘太郎は先ほどのまま、彫像のように身じろぎひとつしない。
そしてその体からは相変わらず濛々と黒煙が噴出し続けている。
「これも奴の能力だというのか」
氷上が吐き捨てるようにそう言うと、その悪態に呼応するかのように状況はさらなる変化を遂げる。
階段フロアの床の一部が真っ黒な湖面のようにその姿を変貌させ、その場にいた感染者ら数名がまるで沼に飲み込まれるかのように床の中へ沈み込んでいく。
それだけに留まらず、床の上の黒い水面は徐々にその範囲を広げていき、次々と感染者を吸い込んでは消していく。
その様子を目の当たりにして、氷上は戦慄を覚えた。
「あの小僧……何ということだ」
氷上は懐に忍ばせたナイフを握りしめると、キャットウォークへと駆け出した。
避難のためではない。
自らナイフで甘太郎の息の根を止め、事態の収拾を図るためだった。
だが、先ほど甘太郎に近づいた守衛の二人が即座に消された光景が脳裏をよぎり、氷上の足が止まる。
(……近づけば私もあのようになるのか?)
逡巡しながら眉根を寄せて氷上が立ち尽くしている間にも、黒い湖面は勢力を拡大し、感染者らは成す術も無く、闇の底へと沈み落ちていく。
「……どうやら私の誤算だったようだな」
氷上は苦虫を噛み潰したような顔で、呻くようにそう呟いた。
万全を期して自分が用意した策が予想外の現象によって覆されてしまった。
氷上はそのことに苛立ちを隠ずに怒りの形相を見せる。
密閉された空間で極限まで魔気濃度を下げれば甘太郎は能力を失うはずであり、実際にそうなった。
だが今、この場の魔気濃度は通常では考えられないほど上昇している。
それが甘太郎の体から排出される黒煙によるものであろうことは氷上にも察しがついた。
「まさか自分の体からあれほどの量の魔気を生み出すとは……」
不足した魔気によって能力を封じられたはずの甘太郎は、自らの力で魔気を補充してみせたのだ。
だが氷上の誤算はそれだけではない。
氷上は恋華と甘太郎がこの病院に潜入してからの一連の行動を監視してきた。
彼らは感染者らを要救助者と見なし、極力傷つけないように配慮を行っていた。
これは氷上にとって有利なことであり、いざとなれば感染者らの命を盾に、恋華の身柄を拘束することも可能だった。
だが、そのための前提はもろくも崩れ去った。
甘太郎が発生させたと思われる黒い水面は、容赦なく感染者らを飲み込んでいく。
そこには感染者らへの気遣いなど微塵もない。
氷上はキャットウォークへ向かう足を反対方向へと向け直して呟いた。
「どうやら計画の練り直しが必要なようだな」
氷上はポケットに入れた防火扉の鍵を握りしめると、踵を返して上階へと足を向ける。
その時だった。
『 逃 が さ ん 』
地獄の底から聞こえてくるかのようなその声に氷上は思わず立ち止まった。
「……何だ?」
彼は自分の足元を即座に見下ろすが、そこには従来通りの床があるだけである。
階段フロアに広がり続ける闇の水面はまだ自分の足元までは到達していない。
安堵の息をつこうとしたその時、何者かが自分の左手を掴むのを感じ、氷上は全身の毛がゾワッと逆立つのを覚えた。
そして恐る恐る視線を左手に落とし、仰天して声にならない悲鳴を必死に飲み込んだ。
「こ、これはっ……」
氷上は信じられないといった顔をした。
それもそのはずで、彼のすぐ真横の壁に真っ黒な穴が開いていて、そこから漆黒の人影が姿を現したのだ。
その姿形は甘太郎そのものだったが、それはまるで影のように肌も衣服も漆黒の色に包まれている。
そしてその人影は上半身を壁から突き出し、腰から下は壁の中といった格好で氷上の左手首をしっかりと掴んでいる。
氷上はあまりの驚きに声すら出せず、慌てて背後を振り返り、甘太郎がいるはずの場所を目で確認した。
だが、甘太郎が立っていた足場には頭痛に悶え苦しむ恋華の姿があるだけだった。
先ほどまでいたはずの甘太郎はどこにもいない。
(ま、まさかこの黒いバケモノがあの小僧だというのか!)
そうした内心の叫びが胸の内に渦巻き、氷上は言い知れぬ恐怖に精神を支配されて思わず声を荒げた。
「は、放せっ!」
必死に振りほどこうとするも、自分の手を掴むその人影の力は抗いようが無いほど強い。
逆に人影は氷上の手を引っ張り、壁に開いた闇穴の中に引きずり込もうとする。
氷上は必死に抵抗を試みるも、手首から肘、肘から肩と、次第に彼の体は闇の中へ引っ張り込まれていく。
「や、やめろ! バケモノめ! 放せ! う、うわああああ!」
あっと言う間に氷上の全身が壁の中に埋もれていき、彼の視界は何も見えない漆黒の闇に包まれていった。
氷上恭一は怪訝な表情を浮かべた。
甘太郎が手にした何かを口元に持っていったかと思うと、突如として背中を丸めて小刻みに震えながら悶え苦しみ始めたのだ。
「奴を……あの小僧をすぐに取り押さえろ!」
氷上は敵の妙な動きを警戒してすぐさま脳内から指令を発した。
すると彼の命令を受けた1級感染者である守衛の2人は、他の感染者らを掻き分けて移動を始め、すぐにキャットウォークの上へと足を踏み出した。
大勢の2級感染者らと異なり、思考能力を持つ彼らは氷上の細かい指令通り、器用に狭い足場を渡って恋華と甘太郎の元へ向かう。
その手にはギラリと光る刃物が握られていた。
それは先ほど看護士が持っていたようなメスではなく、刃渡り20センチほどのナイフだった。
甘太郎の体に変化がありありと表れ始めたのは、守衛の男らがキャットウォークを半分ほど渡り終えた頃だった。
「な、何だあれは……?」
甘太郎の奇怪な様子に氷上は目を見張った。
その視線の先では甘太郎の体中から重厚な黒い霧が吹き上がっていく。
それはあっと言う間に階段フロアに充満していき、氷上のような能力者の目には視界がうっすらと暗くなったように感じられた。
「こ、これは……魔気か」
氷上はその黒い霧の正体が魔気であることをすぐに感じ取り、その奇妙奇天烈な様子に彼は初めてたじろいだ。
氷上が驚きを禁じ得なかったのは何もその光景の異様さのせいばかりではない。
むせ返るほど濃厚なその魔気に、その場の空気全体が手足にまとわりつくように重苦しく感じられたためだ。
「あの小僧……何が起こっている?」
そうつぶやく氷上が一瞬の隙を見せたその時だった。
素早く空を切り裂いて飛来した何かが氷上の視界に端に映る。
「うぉっ!」
咄嗟に避けきれずに、それを己の額に浴びた氷上は思わず驚愕の声を上げた。
ひんやりとした感触が額と眉間に広がり、氷上は目をぎゅっとつぶる。
青色の液体が彼の額を染めた。
だが、それは一瞬で蒸発して消える。
そしてほとばしる電気信号のようなわずかな刺激と違和感が頭の中に入って来ようとしているのを感じながら、氷上はわずかに意識のスイッチを変換させた。
そして氷上は静かに目を開けた。
その目は確信に満ちた悪しき光を宿して輝いていた。
彼の視線の先では恋華が一本の折りたたみ傘を手に、その先端を氷上の方へ向けていた。
先ほど自分の額を打った奇妙な液体がそこから射出されたことを知り、氷上はニヤリとする。
「これがあの女の力か。だが……無駄なことだ!」
恋華の修正プログラムは彼の中に浸透することなく、ある防御プログラムによって逆流することとなった。
その結果が、激しい頭の痛みに苛まれて苦しむ恋華の姿だった。
氷上は己の策が功を奏したことに満足げな笑みを浮かべる。
彼は彼のボスからあらかじめ聞いていた恋華の能力に対する対抗策を己の身に講じていた。
恋華がブレイン・クラッキングを修正するために打ちこんでくるプログラムに、ノイズを含ませて跳ね返すアンチプログラムをあらかじめ自分の脳に施していたのだ。
これによって跳ね返されたノイズ入りのプログラムが、恋華の脳に強いダメージを与えている。
彼女を苛む激しい頭痛はそのせいだった。
「愚かな。何の用意も無くこの場に来るような無策を私が冒すと思うか? いかにカントルムのエージェントとは言え、しょせんはまだ経験の浅い小娘だな」
そうした氷上の嘲りも、恋華の耳には届かない。
彼女は頭を抱えたまま、痛みに耐えることしか出来ずにいた。
そして恋華を守るはずの甘太郎は、彼女の隣で体から黒い霧を噴出し続けながら、まるで立ったまま死んでいるかのようにピクリとも動かない。
虚空を見つめるその目からは何も映っていないかのように光が失われていた。
「妙な小僧だが、能力に欠陥があるようだな」
そう言うと氷上は視線を巡らせる。
守衛の男らはいよいよキャットウォークを渡り終え、甘太郎らが立つ狭い足場に到達していた。
もう数歩進めば恋華と甘太郎に手が届く距離だった。
「よし。女を捕まえてここまで連れて来い。小僧は心臓をひと刺しにしてやれ!」
氷上は嗜虐に満ちた表情を浮かべて、傀儡となった守衛の2人に命じる。
主の求めに応じて、守衛の1人が手にしたナイフを甘太郎の胸目がけて突き上げた。
その様子を見つめる氷上の目に、邪魔者を排除する爽快感を伴った嗜虐的な光が浮かぶ。
だが、それはたちまちのうちにかき消えた。
「な……何だと?」
甘太郎を刺殺する寸前で守衛の男の姿が一瞬のうちに消えてしまったのだ。
まるで蒸発でもしてしまったかのように。
唐突なその消失の様子に、息を飲んで言葉を失う氷上の目の前で、さらなる驚愕の事態が展開された。
消えた守衛のすぐ後ろを進んでいたもう1人の守衛がやはり同じように姿を消したのだ。
「ど、どういうことだ……」
信じ難い光景に氷上は幾度も目をしばたかせた。
1級感染者を制御するのは氷上にとっても骨の折れる作業で、たった2体とは言え、その一挙手一投足を操るのに彼は最大限の労力を要していた。
だが、その2体がまるで煙のように消えてしまった。
氷上は内心の動揺を押し殺し、唇を噛んで視線先の甘太郎の姿を見つめた。
「まさか……奴の仕業か」
甘太郎は先ほどのまま、彫像のように身じろぎひとつしない。
そしてその体からは相変わらず濛々と黒煙が噴出し続けている。
「これも奴の能力だというのか」
氷上が吐き捨てるようにそう言うと、その悪態に呼応するかのように状況はさらなる変化を遂げる。
階段フロアの床の一部が真っ黒な湖面のようにその姿を変貌させ、その場にいた感染者ら数名がまるで沼に飲み込まれるかのように床の中へ沈み込んでいく。
それだけに留まらず、床の上の黒い水面は徐々にその範囲を広げていき、次々と感染者を吸い込んでは消していく。
その様子を目の当たりにして、氷上は戦慄を覚えた。
「あの小僧……何ということだ」
氷上は懐に忍ばせたナイフを握りしめると、キャットウォークへと駆け出した。
避難のためではない。
自らナイフで甘太郎の息の根を止め、事態の収拾を図るためだった。
だが、先ほど甘太郎に近づいた守衛の二人が即座に消された光景が脳裏をよぎり、氷上の足が止まる。
(……近づけば私もあのようになるのか?)
逡巡しながら眉根を寄せて氷上が立ち尽くしている間にも、黒い湖面は勢力を拡大し、感染者らは成す術も無く、闇の底へと沈み落ちていく。
「……どうやら私の誤算だったようだな」
氷上は苦虫を噛み潰したような顔で、呻くようにそう呟いた。
万全を期して自分が用意した策が予想外の現象によって覆されてしまった。
氷上はそのことに苛立ちを隠ずに怒りの形相を見せる。
密閉された空間で極限まで魔気濃度を下げれば甘太郎は能力を失うはずであり、実際にそうなった。
だが今、この場の魔気濃度は通常では考えられないほど上昇している。
それが甘太郎の体から排出される黒煙によるものであろうことは氷上にも察しがついた。
「まさか自分の体からあれほどの量の魔気を生み出すとは……」
不足した魔気によって能力を封じられたはずの甘太郎は、自らの力で魔気を補充してみせたのだ。
だが氷上の誤算はそれだけではない。
氷上は恋華と甘太郎がこの病院に潜入してからの一連の行動を監視してきた。
彼らは感染者らを要救助者と見なし、極力傷つけないように配慮を行っていた。
これは氷上にとって有利なことであり、いざとなれば感染者らの命を盾に、恋華の身柄を拘束することも可能だった。
だが、そのための前提はもろくも崩れ去った。
甘太郎が発生させたと思われる黒い水面は、容赦なく感染者らを飲み込んでいく。
そこには感染者らへの気遣いなど微塵もない。
氷上はキャットウォークへ向かう足を反対方向へと向け直して呟いた。
「どうやら計画の練り直しが必要なようだな」
氷上はポケットに入れた防火扉の鍵を握りしめると、踵を返して上階へと足を向ける。
その時だった。
『 逃 が さ ん 』
地獄の底から聞こえてくるかのようなその声に氷上は思わず立ち止まった。
「……何だ?」
彼は自分の足元を即座に見下ろすが、そこには従来通りの床があるだけである。
階段フロアに広がり続ける闇の水面はまだ自分の足元までは到達していない。
安堵の息をつこうとしたその時、何者かが自分の左手を掴むのを感じ、氷上は全身の毛がゾワッと逆立つのを覚えた。
そして恐る恐る視線を左手に落とし、仰天して声にならない悲鳴を必死に飲み込んだ。
「こ、これはっ……」
氷上は信じられないといった顔をした。
それもそのはずで、彼のすぐ真横の壁に真っ黒な穴が開いていて、そこから漆黒の人影が姿を現したのだ。
その姿形は甘太郎そのものだったが、それはまるで影のように肌も衣服も漆黒の色に包まれている。
そしてその人影は上半身を壁から突き出し、腰から下は壁の中といった格好で氷上の左手首をしっかりと掴んでいる。
氷上はあまりの驚きに声すら出せず、慌てて背後を振り返り、甘太郎がいるはずの場所を目で確認した。
だが、甘太郎が立っていた足場には頭痛に悶え苦しむ恋華の姿があるだけだった。
先ほどまでいたはずの甘太郎はどこにもいない。
(ま、まさかこの黒いバケモノがあの小僧だというのか!)
そうした内心の叫びが胸の内に渦巻き、氷上は言い知れぬ恐怖に精神を支配されて思わず声を荒げた。
「は、放せっ!」
必死に振りほどこうとするも、自分の手を掴むその人影の力は抗いようが無いほど強い。
逆に人影は氷上の手を引っ張り、壁に開いた闇穴の中に引きずり込もうとする。
氷上は必死に抵抗を試みるも、手首から肘、肘から肩と、次第に彼の体は闇の中へ引っ張り込まれていく。
「や、やめろ! バケモノめ! 放せ! う、うわああああ!」
あっと言う間に氷上の全身が壁の中に埋もれていき、彼の視界は何も見えない漆黒の闇に包まれていった。
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