蛮族女王の娘《プリンセス》 第1部【公国編】

枕崎 純之助

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第79話 逃げ場のない戦い

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 早朝の山道を3人の人影が歩き続けている。
 昨日の午後に共和国と公国の国境沿いに広がる丘陵きゅりょう地帯に入ったボルドとベラとソニア。
 3人は山中の粗末な山小屋で一夜を明かし、日が昇ると同時に山道を公国側へと進んだ。
 目的は公国領アリアドだ。

「山を降りた後で馬車を調達できればいいんだがな。徒歩だとアリアドまで時間がかかり過ぎる」

 そう言うとベラは水袋からひと口水をあおり、上り坂の上を見上げた。
 ベラもソニアも34歳になるが、その頑健さはまだまだ健在で、息一つ切らさずに山道を登り続けている。
 一方のボルドは2人に前後をはさまれながら懸命に登り続けているが、その顔には余裕がない。
 まだ病み上がりのため体力が万全ではないのだろう。
 後方から彼を見守るソニアが心配そうに言った。

「ボルド。少し体力が落ちたんじゃないか?」
「ええ。ここのところ訓練に参加できていませんでしたし」

 ボルドはブリジットと家庭を持つようになってからも、基礎体力の訓練は欠かさずに行ってきた。
 武人ではないため戦場に出て戦うわけではないが、先の大戦では彼も黒髪術者ダークネスとして実戦の場に立ち合った。
 有事に備えて体力は落としたくないというボルドの希望で、ずっと続けて来たことだ。

 だが、王国と公国の戦乱による緊張はダニアにも影響を及ぼしている。
 共和国の同盟国としていつでも動けるよう、ダニア政府も緊張感を持って動き続けていたのだ。
 ボルドも女王ブリジットの夫として内政業務でここのところ忙しかったため、訓練への参加がおろそかになってしまっていたのだ。

(戦争が……無くなることはないのかな)

 先の大戦以降は比較的平和な日々が10年以上に渡って続いた。
 だが、王国と公国の間に根付いたたがいへの不信感はそう簡単に消えることはなかったのだ。
 ボルドの兄である共和国大統領のイライアスも、自国にも迫って来るかもしれない戦乱の危機に日々、頭を悩ませ神経をとがらせていることだろう。
 プリシラやエミルには出来れば戦のない時代を生きて欲しかった。
 だが、運命はそう穏やかではいてくれなかったのだ。

「今日、一日踏ん張って歩き通せば、恐らく明日の夕方までには山を降りて公国側に出ることが出来るだろう。その先にセグ村とかいう農村があるから、そこで馬車でも借りようぜ」

 そう言うベラにうなづきかけたその時、ボルドはハッとした表情を見せた。
 彼の頭に突然の警鐘けいしょうが響き渡る。
 それは黒髪術者ダークネスとして感じ取れる感覚だった。
 この山の中に、自分以外の黒髪術者ダークネスがいる。
 そして……その感覚は彼にとってこの世で最も親しみ深いものだった。

「……エミル」

 そう。
 それは息子であるエミルが発する危機感であり、以前に彼が迷子になった時にもボルドはそれを感じ取って息子の居場所を突き止めたのだ。
 同じく黒髪術者ダークネスであるエミルはその能力が強く、多少の距離があってもボルドはその強い力を感じ取ることが出来るのだ。

「どうした?」

 ボルドの異変をいち早く感じ取ったソニアが彼の肩に手を置いた。
 振り返ったボルドは張り詰めた表情で言う。

「感じます。エミルの……力を」
「何だって?」

 おどろくソニアは前方のベラと目を見合わせた。
 そんな2人にボルドは言う。

「エミルが……この山の中にいます」

 予想し得なかった彼のその言葉に、ベラもソニアもさすがに顔色を変えるのだった。

 ☆☆☆☆☆☆

 エミルは恐怖が込み上げてくるのを感じて思わずジュードの手を強く握っていた。
 もう少しで共和国へ抜けられるというところで、不運なことにそれをはばもうとする者たちに追いつかれてしまったのだ。
 銀色の髪のチェルシー。
 自分と同じくダニアの血族の女性だ。

 幼い頃から知っているクローディアに顔はよく似ているが、チェルシーはクローディアが決してプリシラやエミルに見せることのない、冷たく厳しい表情をしていた。
 それがエミルには恐ろしく感じられる。
 さらには谷間にかかる天然の岩橋を渡ろうとしたところ、前方の行く手である向こう岸に、白い髪の男女が現れたのだ。
 そのうちの1人はアリアドでエミルたちを襲ってきたオニユリという女だった。

 エミルはその女のこともチェルシーとは別の意味で怖かった。
 アリアドで微笑みかけられた時のことを思い返すと、嫌悪感が背すじをい上るのだ。
 山中でへびに出くわした時の恐ろしさとよく似ていた。

(怖い……あの人から逃げたい……)

 エミルは顔を上げてすがるようにジュードを見る。
 彼もこのはさみ撃ちをされた苦境に困窮こんきゅうしているようで、眉根まゆねを寄せて口を引き結んでいた。
 ジュードのそのような表情を見て、エミルの胸に渦巻うずまく危機感はより一層強まる。

(何とか……何とかしないと)

 エミルは黒髪術者ダークネスの力を思わず開放していた。
 途端とたんに後方から迫ってくる3人の黒髪術者ダークネスの力を感じる。
 そのうちの一つはとても強い力だった。

 王国の黒髪術者ダークネスたちで組織された黒帯隊ダーク・ベルトのことはエミルも知っている。
 チェルシーの後方からさらなる敵が来るのだと思うとエミルは絶望的な気持ちになった。
 いくらプリシラとジャスティーナが強くてもこの状況から逃げ切ることが出来るだろうか。
 エミルはあらためて自身の力の無さを悔やむ。
 自分がもう少し大人で戦う力を持っていたら、少しでも姉の助けになれたかもしれないのに、と。

 黒髪術者ダークネスの力は何かを察知することは出来ても、敵を倒したり目の前の危機を直接的に排除できるわけではない。
 この状況では何も出来ないのだ……。
 そう思ったその時だった。
 ふいにエミルは遠くに暖かな風が流れるのを感じたのだ。
 人には上手く説明できないその感覚をエミルはよく覚えている。

(こ、これは……)

 以前にダニアの近くの山中で迷子になってしまった時のことだ。
 帰り道が分からず、いつも助けに駆けつけてくる姉の姿もなく、日が暮れ落ちて途方に暮れていたときのことだ。
 エミルはその暖かな風を心に感じ、それからほどなくして父のボルドが助けに来てくれた。
 その時に感じた感覚と同じなのだ。

(と……父様?)

 エミルは混乱しそうになる頭の中を必死に整理し、気持ちを集中させてその風をハッキリ感じ取ろうとする。
 まだ朧気おぼろげで途切れ途切れではあるが、少しずつその風がこちらに近づいて来ようとしているのが分かった。

(父様かもしれない。まだ遠くてハッキリ分からないけど)

 エミルの顔に待ちがれるような表情が浮かぶ。
 早く父のいるほうへ向かいたくてはやる気持ちをエミルは必死に抑えた。
 そんなエミルの様子に気付いたジュードは、彼の手を握ったまま少しずつ後退あとずさっていく。
 顔は前方に向けたままだ。
 前方からはオニユリともう1人の白髪頭の男がゆっくりと迫ってくる。

「エミル……何か感じるのか?」
「……うん。もしかしたら父様が……ここに向かっているかもしれない。感じるんだ。父様の暖かい風を」

 暖かい風。
 独特な言い回しだったが、ジュードはエミルの力の強さを知っている。
 彼がそう言うのならば間違いない。

「……そうか。お父さんがキミたちを探しに来てくれたんだろう。ということは護衛の戦士もいるだろうから助けに来てくれるかもしれない。エミル。俺が時間をかせぐから、何とかお父さんに助けを求めてくれ」

 そう言うとジュードはエミルの姿を隠す様に彼の前に立つ。
 ジュードに守られながらエミルは必死に心で呼びかけた。

(父様……父様……近くにいるの? 僕はここだよ。助けて。父様)

 早く父に会いたいというあせりと、恐ろしい敵が前方と後方から迫って来るという重圧に耐えながら、エミルは決死のいのりを繰り返すのだった。
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