灰色の犬は愚痴だらけ

皐月 翠珠

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ああ、お肉が食べたい

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 おいらは犬だ。名前はとむ。どこで生まれたかは覚えていないけど、何となくいっぱい兄弟がいて、みんなでママのおっぱいを取り合っていたような…そうでもないような。
「とむうううう!ただいまぁぁぁ!」
 帰ってくるなり思いっきり抱き締めて頬ずりをしてきたこの人間。矢尾やお美奈海みなみ、おいらのご主人様だ。二十八歳、ごく普通のOL。最近周りが結婚ラッシュで焦っているらしい。
 おいらはとりあえずご主人様の顔を舐めて尻尾を振ってみる。今までの経験から言って、こういう時のご主人様は何か嬉しい事があったに違いない。しょうがない、聞いてあげようじゃないか。
「あのねあのね!今日のプレゼン、課長に褒められたの!取引先の利益もよく考えて作られてるって!いやもう何あの爽やかスマイル!背中に眩しい朝陽が見えたよ今日は雨で会議は午後だったけど!」
 課長っていうのは、ご主人様が密かに憧れてる人間の事だ。ご主人様の話には、大体その人間が出てくる。
 でもね、知ってるんだ。課長はそうやってご主人様を褒めた後に…
「まあ、その後で資料の誤字脱字がひどいって怒られたんだけどね…」
 遠い目で笑うご主人様を見て、やっぱりねとあくびをする。ご主人様はそそっかしいから、よく色んな失敗をするんだ。家でもしょっちゅう物をひっくり返したり、この間はおかずを焦がしてしばらく部屋の臭いが取れなかった。
「いやあ、でも連日の残業の甲斐があったよ。あー、お腹空いた」
 今日は何作ろっかなーってスーツの上着を脱いでハンガーにかけると、ご主人様は冷蔵庫を覗き込む。
「あ、やばい、ちくわの賞味期限切れそう。よし、磯辺揚げにしちゃえ。あとはー、お味噌汁と…ゲッ、ご飯のタイマーセットするの忘れてた!」
 一生の不覚!なんて言いながら頭を抱えるご主人様。ちなみに、この姿を見るのは今週三回目だ。ご主人様の一生ほど短いものはない。
「うわー、マジか、どうしよう。ううーん…よし!先にお風呂入っちゃおう!ご飯はもう面倒だし、ちくわにきゅうり突っ込んでお味噌つけて、スルメがあったからそれとチーズと…うん、今日は自分ご褒美でおビールでも頂いちゃおうかな!風呂上がりのサッパリした体にキューッと沁み渡るシュワシュワ感!へへへへへ、たまりませんなぁ」
 ご主人様はよく笑う。それを見るのはおいらも好きだ。でも今みたいな親父くさいニヤけ顔を見ていると、まだまだ結婚は遠い気がする。
 鼻歌交じりにバスルームに向かったご主人様を見送ったおいらは、お気に入りの場所まで歩いていく。テレビの正面に置かれたローテーブル、その反対側にあるご主人様ご愛用の座椅子。その隣にあるここは、おいら専用の特等席だ。置かれている大きなクッションは、動く度に形が変わって面白い。絶妙にフィットする感覚に満足しながら、おいらは体を丸めて目を閉じた。



 どれくらい時間が経ったんだろう。バスルームの扉が開く音で、おいらはピンと耳を立てた。
「はー、気持ち良かった!」
 抱っこしてもらいたくて駆け寄ろうとしたけど、タオルで頭を拭きながらこっちに来るご主人様の顔を見て、急ブレーキをかける。
「ん、とむどうしたの?」
 キョトンとした顔がこっちを見る。今のご主人様は“お化けモード”だ。
「とむー?…あ、これか」
 不思議そうにしていたご主人様だけど、気づいたように自分の白いほっぺを触る。あったまってほんのりピンクが入った肌色の手とは大違いの、お化けみたいに真っ白な顔。パックっていうやつだ。
 人間の大人の女は、お風呂から出ると時々みんなこんな風になるらしい。人間は毛が少ないから、こうやって肌を守ってるのよって四丁目のマロンが訳知り顔で言っていた。
「ごめんごめん、もうちょっとしたら取るからねー」
 できれば今すぐ取ってほしいんだけどなぁ。おいらの気も知らないで、ご主人様はウキウキとキッチンに立つ。
 壁沿いに距離を取りながらそっと覗くと、さっき言ってた通り、きゅうりを細長く切ってちくわの中に入れている。それから半分に切ったちくわをお皿に乗せていくと、端っこにスプーンですくった味噌を盛りつけた。
 次に、冷蔵庫から丸い容器に入ったチーズを取り出して蓋だけを開ける。ご主人様は面倒くさがりだから、もう容器に入ってる物をわざわざお皿に移すなんて事はしない。
 両方をテーブルに持っていって、またキッチンに戻ってくる。冷蔵庫から取り出したのは、今日の主役ビールだ。いつも飲んでるのとは違う、ちょっとだけ高いやつらしい。これも冷蔵庫の横の棚にあったスルメの袋と一緒にテーブルに運び、今度はテレビの横に置いてある箱をゴソゴソし始めたところで、ようやくおいらもテンションが上がった。
「キャン!」
「ふっふっふー、お待たせしました」
 自分の周りをグルグルするおいらを見てご主人様はニヤッと笑う。
「今日はとむも特別メニューだよ」
 そう言われて俄然がぜん期待感が高まる。ちぎれるくらい尻尾を振って喜びを伝えると、ご主人様はえっへんと胸を張った。おいでと言ってテーブルの側に座ったご主人様の目の前に移動して、背筋をピンと伸ばしておすわりをする。
「はい、いい子だね。じゃあ…お手!」
 すぐに右の前足をご主人様の手に乗せる。ふふーん、これくらい朝飯前だもんね。
「よしよし、じゃあ次は…回れ!」
 頭の上で円を描くご主人様の指を追いかけるように体を回転する。これもおいらの得意な技だ。
「よーし、じゃあいくよ?…伏せ!」
 沈黙が生まれる。
「とむー?伏せ!伏せだよー」
 こうするの!とおでこを床に擦りつけるご主人様。謎の時間が始まった。ご主人様はご飯の前、お手と回れをさせた後になぜかおいらに頭を下げる。そんな事しなくていいから、早くご飯が欲しいのになぁ。
「もぉ、とむぅ。何とか覚えてくれないかなぁ」
 うなだれるご主人様の膝に前足を置いて、ご飯をねだる。ねぇねぇ、ご主人様。おいらお腹減ったよ。
「はぁ、仕方ないか。よし!」
 そう言って置かれた銀色のお皿に飛びつく。今日は特別メニュー、何が入ってるのかな。
「…」
「っあああー!やっぱり喉ごしが違うよね!」
 隣では、ご主人様がビールを飲んで満足そうにしている。
「ん?とむ、食べないの?」
 特別メニューだよーと頭を撫でられるけど違う、違うよご主人様。
 お皿に入っているのは、いつもと同じのドッグフード。ちょっとだけ混ざってるおいらの好物、お芋のおやつがご主人様の言う特別なんだろう。確かになかなか食べられない代物だけど、こんなちょびっとじゃあっという間になくなっちゃう。
 おいらの言わんとする事がわかったのかわかってないのか、ご主人様はおいらを抱っこして言う。
「ほらほら、食べな?お腹空いてるでしょ?」
 手のひらにご飯を乗せておいらの口まで持ってきてくれるご主人様。でもさー、いつもとおんなじご飯なんだよなー。これも別に美味しくないわけじゃないんだけどさー。
「とむももう歳だからねー。そろそろシニア用の餌にするべきかなぁ」
 ご主人様が何気なく言った一言にショックを受ける。シニア用だなんて冗談じゃない。三丁目の五右衛門じいさんから聞いた事がある。シニア用のドッグフードは、柔らかくて野菜がいっぱいで食べた気がしないって。おいらはまだまだ現役だ。
「キャンキャン!」
「おおう、どうした?」
 いきなり暴れて腕の中から抜け出たおいらにご主人様がビックリした声を出す。
 そのままがっつくようにご飯を食べるおいらを見て、ご主人様は安心した顔で笑う。
「なーんだ、ちゃんと食べられるね。いっぱいお食べー」
 のんびりと体を撫でられながら、おいらはペロリとご飯を平らげた。

ああ、お肉が食べたい。
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