灰色の犬は愚痴だらけ

皐月 翠珠

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せーので飛び出す

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「えーっと、こっちがTシャツで、こっちがキャミソール系…って事は、これがパンツとスカートか」
 ゴソゴソと衣装ケースを覗いては、中身を確認するご主人様。今日は夏に向けて衣替えをしている。面倒くさがりのご主人様は、いつもギリギリ耐えられなくなるまで衣替えをしない。普段がスーツだっていうのも手伝って、大体一年を通して着られるようなシャツとパーカー、それからダボッとしたズボンが数着ずつ、部屋着とちょっとそこまでのお出かけ用に常備されている。
 でも、最近急に暑くなってきたからさすがに限界を迎えたらしい。夏用のスーツを出すついでに、夏服を出す事にしたようだ。あと、着なくなったものもこの機会に捨てるつもりだ。
 ちなみにおいらはあんまり毛が生え変わらない犬種だから、衣替えとは縁が遠い。ガッツリ生え変わる犬は大変だなと思いながらも、その分おいらは冬に弱いからちょっと羨ましくもある。
「お、これは去年買ったオシャレスカート」
 ご主人様が、ケースから一着のスカートを取り出す。ヒラヒラしたやつじゃなくて、体のラインがわかるキュッとしたスカート。マーメイドスカートっていうらしい。バーゲンで安くなっていたものを買って、結構気に入っていた一品だ。
「衣替えって面倒くさいけど、新しい季節の服を見るとワクワクするよね~」
 鼻歌を歌いながらいそいそとそのスカートをはくご主人様。ところが、チャックを上げようと手をかけたところで沈黙が生まれた。
「あ、あれ?おっかしいなぁ…」
 ダラダラ汗を掻いて首を傾げているけど、その原因は絶対に暑さからくるものだけじゃない気がする。
「いやいや、そんな事ないって。だって去年だよ?まさかそんな事あるわけが…」
 半分自分に言い聞かせながら、ご主人様は一生懸命お腹を引っ込めたり背伸びをしてみたり、どうにか閉めようと無駄な足搔きを続ける。その後も他のスカートやパンツをはいてトライしていたけど、最終的に夏用スーツのチャックが上がらなかった事で現実を受け入れる覚悟ができたのか、グッと拳を握りしめると高らかにこう宣言した。
「ダイエットしよう!」



 ピピピ、と携帯のアラームが鳴る。もぞもぞ伸びた手が携帯に届いて音が止められる。手はそのままパタッと力尽きるみたいにベッドの端に落ちた。
「キャン!」
「ん-、待って…あと、五分…」
 返ってきた言葉に呆れる。早速サボるつもりか。おいらはうつ伏せになっているご主人様の背中に飛び乗り、前足で首を引っ掻いた。
「キャン!キャン!」
「のおお、わかった、起きる、起きるよ」
 ゆっくりと起き上がったご主人様は、ほとんど目の開いてない顔で大きなあくびをする。
「うう…自分で決めた事とはいえ、早起きって何でこんなに辛いんだろ」
「キャン!」
「わかったわかった。行こっか」
 リードをくわえて準備万端なおいらの頭を撫でて、ご主人様はとりあえず顔を洗いにいった。
「───ああ、朝日が眩しい…」
 しみじみ呟くご主人様を急かすように小走りで進んでいく。ダイエットを決意したご主人様が選んだのは、”まずはとにかく運動しよう”作戦だ。そのために、いつもより一時間早くアラームをセットしておいらをお散歩に連れていってくれる事になった。おいらとしては、大好きなお散歩がいっぱいできるってので棚からぼた餅、超ラッキーだ。
─お決まりのコースより長い距離を、できるだけ走ってカロリーを消費するよ!
 そう言っていたご主人様のご要望にお応えして、おいらは先導するように前を走る。そんなおいらに引っ張られる形で、ご主人様の足取りもどんどん早くなっていった。
 まがりなりにも体育会系だったお陰か、結構な距離を走ってもご主人様はテンポが落ちない。途中でこまめに水分補給をして、初日の運動は何事もなく終わった。汗だくになったご主人様は、帰ってからシャワーを浴びてサッパリしてから出勤していった。
「───いただきます!」
「わふっ」
 夜になってご飯の時間。おいらは相変わらずのドッグフード。そしてご主人様は、お野菜たっぷりのスープとあぶらの少ない鶏のササミを茹でて塩コショウをしただけのシンプルなメニュー。作戦その二、”ご飯は低カロリー高たんぱく”だ。お昼はお豆腐のサラダを食べたらしい。
 ゆっくりと時間をかけて食べると満腹中枢っていうのが働いてちょっとの量でも満足感を得られるっていうので、ご主人様はきっちり一時間かけてご飯を食べた。それでも物足りなさそうにしていたけど、おいらに言わせればササミが食べられるダイエットなんて天国以外の何物でもない。
「ああ、ビールが飲みたいよ…晩酌ができないのがこんなに辛いなんて思わなかった」
 テーブルに顔をくっつけて弱々しい声を出す。毎日飲んでいたビールは、三日に一度に減らす事にしたそうだ。失って初めてわかるものってあるよね。
 こうして、ご主人様の”ドキッ☆あの日の青春を思い出せ!やおみなみ改造計画(ご主人様命名)”は幕を開けた。



 それからの日々は、ご主人様の自分との闘いだった。
「キャンキャン!」
「う~、起きるよ…起き、る…」
「キャン!」
「痛ぁ!わかった!わかったから!」
 朝の運動から始まり…
「うぅ…同じ鶏なら唐揚げが食べたい。それをビールで流し込みたい。あ、やばい、想像したらヨダレ出てきた」
「わふっ」
「そんな目で見ないでよ。食べないよ、食べませんとも」
 食欲とお酒の誘惑と戦い…
「痩せろ~、痩せろ~」
「ううううう」
 鏡を見ながらストレッチをしては、お腹のお肉に話しかけた。
 おいらはそんなご主人様を応援して、寝坊しないように起こしたり、間食をしないように見張ったり、ご主人様のお肉に威嚇したりした。あれ、これご主人様っていうかおいらが頑張ってない?
 目標は、夏用スーツが必要になる前にチャックがちゃんと閉まる事。やるからには徹底的に。いつもおいらの健康のためだと言って食事管理をしてくれてるご主人様に、普段のおいらがどれだけ我慢をしているか思い知らせ…違う違う、ご主人様がきれいな体になるために全力でサポートするんだ。ご主人様はご主人様で努力している一方で、おいらはおいらでご主人様の知らないところで静かに使命感に燃えていた。
 そうやって欲望と理性の狭間はざまで苦しみ続ける事、およそ一ヶ月。
「…」
「…」
 問題のマーメイドスカートを前に、ご主人様は正座で向き合う。おいらも隣でおすわりをする。妙な緊張感が部屋に漂っている。
 ゴクリとご主人様がつばを飲み込む音が聞こえる。
「い、いくよとむ?」
「わふっ」
 ご主人様は恐る恐るスカートを手に取ると、ゆっくり足を通していく。それを見ているおいらも何だかドキドキしながら見守る。
 スカートは無事に上まで上がった。でも問題はここからだ。チャックを上げる指の動きが、まるでスローモーションみたいに見える。そろそろと上がるチャックは、順調に閉まっていく。そして、ついに…
「…し、閉まった?」
 確認するように呟くご主人様。鏡に映る姿はきれいにスカートをはきこなしていて、体のラインもシュッと細い。
「…や、やったあああああ‼」
「キャンキャン!キャン!」
 バンザイをして喜ぶご主人様に、おいらも思わずはしゃぐ。
「やった!やったよとむ!」
 嬉しさのあまり、おいらに頬ずりをしてくる。おいらも嬉しい。これでご主人様は心置きなくオシャレができるね。
 窓からはお日様の光が暑そうに差し込んでいる。今年の夏は、いつもより明るい気持ちで迎えられそうだ。

せーので飛び出す夏の空。
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