灰色の犬は愚痴だらけ

皐月 翠珠

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よどおし語る

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「ど、どうぞ上がってください」
「ああ、お邪魔します」
 緊張の顔でご主人様が課長を招き入れる。
「キャンキャン!キャン!」
「こら、とむ。課長だから大丈夫だよ。もう何回も会ってるでしょ?」
 そういう問題じゃないんだよ。課長がいい人だっていうのは知ってるけど、だからっておいらのテリトリーにズカズカ踏み込んでいいわけじゃないんだよ。ここはおいらとご主人様の部屋だぞ。
「すみません、課長。とむは基本的に人間も犬もオスは敵視する傾向があって…」
「今さらだろ。動物は自分の縄張りを荒らされるのを嫌うものだしな。だから、ほら」
 しゃがみ込んだ課長が、手に持っていた紙袋から何かを取り出す。
「ちゃんと賄賂わいろは持ってきた。お芋のおやつだ」
「キャンキャン!クゥーン」
「あんたの縄張り意識はそれでいいの、とむ」
 手のひらを返したように甘えた声を出すおいらに、ご主人様のツッコミが炸裂する。いいんだよ。おやつをくれる人は男とか女とか関係ない。みんな一緒、いい人カテゴリーに入るんだ。
 おいらの顔をくしゃくしゃ撫でながら、課長はご主人様の方を振り返った。
「お前にも手土産だ。取引先に紹介してもらった新潟県産の大吟醸とクリームチーズの味噌漬け」
「何という事でしょう」
 目をキラキラさせて紙袋の中を覗き込むご主人様に、課長が笑いを堪えて肩を震わせる。
「似た者同士、仲がいいようで何よりだ」
 嬉しいけど嬉しくないなぁ。多分おんなじ事を考えているご主人様と顔を見合わせた。
「───お、お味はいかがでしょうか?」
 お説教を受ける時みたいに正座で尋ねるご主人様。何だかおいらまで緊張して、ご飯を食べるのを中断して課長の顔をジッと見る。
「そんな固くならなくても、十分美味いよ」
「ほ、ホントですか⁉」
「メニューがことごとく酒のさかなにもってこいなのがお前らしいけどな」
 課長のからかうような声にご主人様はいやあって照れてるけど、それって褒め言葉としてはどうなんだろう。ご主人様が嬉しそうだからまあいっか。
 そう思いながら、おいらはご飯の続きを楽しむ。後で課長の手土産を貰うから、今日のご飯はちょっと少なめだ。早くおやつが食べたいな。
「ごちそうさま。皿洗うよ」
「あ、いいですよ!私がやりますから」
 ヒョイとご主人様の分のお皿まで重ねてキッチンに持っていく課長の後をご主人様が慌てながら追いかける。
「作ってもらったんだから、後片付けくらいやるよ。お前は先に風呂に入ってくればいい」
「でも…」
「大吟醸が待ってるぞ」
「お先に失礼します」
 さすが課長、ご主人様の事をよくわかっている。敬礼してお風呂場に直行するご主人様をおいらと課長で揃って見送った。



「風呂、ありがとな」
「いえ!お湯加減大丈夫でしたか?」
「ああ、ちょうど良かったよ」
 ご主人様の後にお風呂に入った課長が、バスタオルで髪を拭きながら出てくる。何かこのやりとり、新婚の夫婦みたいだな。今はおいらがしゃべれなくて良かったと思う。だって、そんな事言ったら絶対真っ赤な顔で何かしらひっくり返すか壊すかするに決まってる。
 ご主人様はキッチンからお猪口ちょこを二つとおつまみの乗ったお皿をお盆に乗っけて持ってくる。テーブルには置かずに、窓を開けてベランダに出る。ベランダにはおいらがお風呂の時に使うすのこが敷いてあって、そこに折りたたみ式の小さな椅子が二つとテーブルが並んでいる。ご主人様が先輩と外で飲む時に使うやつだ。
 テーブルにはすでに日本酒が置かれている。ご主人様がお盆を置けば準備完了、晩酌の時間だ。
 おいらも呼ばれて、三人揃ったところで乾杯をする。おいらは課長がくれたおやつに飛びつく。めっちゃ美味しい。
「あああ~、やっぱりいいお酒って違いますね」
「美奈海は本当に酒が好きだな。そういう家系なのか?」
「そうですね。父は毎日晩酌してますし、母も飲むとなったら結構空けますから。弟も潰れた事はありません」
「すごいな」
「課長のご家族はどうなんですか?」
「俺の両親は付き合い程度だな。兄貴は職業柄、そこそこ飲める方だ」
「お兄さんいらっしゃったんですか?」
 どうやら初耳だったらしい。目をパチクリさせるご主人様に、課長はちょっと口ごもる。
「ああ。ワインの輸入をしている会社で営業をしてる。ヨーロッパに数年いた事もあるよ」
「すごい。さすが課長のお兄さんですね」
「そう、だな」
「課長?」
 どことなく歯切れが悪い課長にご主人様が首を傾げる。それに気づいた課長が何度か口を開いては閉じて、最後はため息をついて言った。
「前に、俺がポンコツだったって話をしただろ?」
「あ、はい」
「ウチは両親ともに有名大学を出てて、いわゆる一流企業でそれなりのエリートコースを走ってきたんだ。兄貴はそんな親の遺伝子を丸々引き継いでてな。子供の頃からずっと人間だった。片や俺は平凡もいいとこ、周りはいつも俺達を比べては笑ってた。俺だけ血が繋がってないんじゃないかってな」
「そんな…」
 眉毛の下がったご主人様を見て、課長は苦笑いを返す。
「兄貴が東大を出て世界を飛び回るような会社に入った事で、俺の肩身はさらに狭くなったよ。その頃にはもう、俺自身が俺に期待する事をやめてたしな。自暴自棄で、結構バカな事もやった。何とか大学には入れたけど、そんな調子だから就活もうまくいかずに行き場を失った。もう家族とは縁も切るつもりで家を出ようかなんて考えてたところに、見かねた伯父さんが声をかけてくれたんだ」
─怜音には怜音の魅力があるんだよ。今までは、それを発揮する場所がなかっただけだ。どうせ諦めるなら、最後にもう一回だけ頑張ってみないかい?
「怒るでもなく、笑うでもなく、そう言ってくれた伯父さんの気持ちに応えたいと思った。お前以上に覚えが悪くて、何度も周りの手を焼かせたと思う。けど、コネだって知ってた直属の上司が一から全部社会人のいろはを叩き込んでくれたんだ。兄貴の弟としてじゃない、和生怜音として向き合ってくれた事が嬉しくて、厳しくされても逃げようとは思わなかった。だんだん仕事が楽しくなってきて、その分目に見える成果も上げられるようになった。あとはお前の知ってる通りだ。俺は俺だっていう自信も持てたから、家族に感じてた引け目も消えた。伯父さんはもちろん、もう退職してしまったその上司には感謝してもしきれないよ」
 意外過ぎる過去だった。課長もご主人様と同じく、できなくて辛い思いをした時期があったんだ。
「わ、私もその人にお礼を言いたいです」
「美奈海が?」
 ご主人様の言葉に課長がキョトンとする。
「自分ができなかったからこそ、課長はできない人の気持ちをむ事ができて、その人が課長を育ててくれたから、課長が周りから慕われる人になれたって事ですよね?」
 だから私もその人に感謝しなくちゃです!って言い切るご主人様。
 こういうところがご主人様だよなぁって思ってたら、お猪口ちょこをテーブルに置いた課長がご主人様の頭に手を回して抱き寄せた。ご主人様が何かを言う間もなく、課長はご主人様にキスをした。
「ちょ、課長⁉いきなり何ですか⁉」
「何となく」
「何となくでこん、こんな…!」
「今さらキスくらいで動揺するなよ」
「ちょっ、とむの前ですよ⁉」
 顔を真っ赤にしてるけど大丈夫だよ、ご主人様。何度かクリスティーナのおうちに預けられた時点で、おいらは全部悟ってるから。おいらを引き取りに来たご主人様の顔を見れば、誰だって何があったかはわかるよ。さりげなく課長がご主人様を名前で呼んでる事にも気づいてるよ。
「ほら、今日は月を見ながら飲むんだろ。せっかくきれいなんだから、ちゃんと見ろよ」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
 夜なのにご主人様の顔が真っ赤になってるのがわかるほど、今夜の月は明るかった。

よどおし語る、今日は十五夜。
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