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第三章
2話
しおりを挟む凰鳴神社での修業の帰り、光留は唯の家に見舞いに来ていた。
『唯ちゃ~ん、遊びに来たよ~』
「いらっしゃい、朱華ちゃん! ……あ、あなたも」
「なんで俺だけそんな微妙な顔すんだよ」
「あら、いつも通りだけど?」
相変わらず光留に対して素っ気ない態度を取る唯。もはや癖になっていた。
それからふと、訝しげに光留の顔をまじまじ見つめる。好きな女の子に見つめられてときめかない男はいない。
なんて思っていると背筋に冷たい感触が走った。
これは、月夜からの警告だ。下手なことをしたら殺すという。
「っ、勘弁してくれ……」
兄妹揃って光留の心を弄ぶ。意味は兄と妹で正反対なだけに余計にしんどい。
「……何を謝ればいいのかわからないけれど、とりあえず上がって? 槻夜君に聞きたいこともあるし」
そう言って唯は二人を居間へと案内する。
八畳ほどの居間はまだ藺草の爽やかな香りがする。
中央にローテーブルがあり、その周りに四つの座布団が敷かれている。
「どうぞ」
唯が台所からグラスに麦茶を注いで二人の前に置く。
唯が座ってから光留は口を開く。
「あれから体調は大丈夫か?」
「ええ、お陰さまで。……あなたが、少し持っていってくれたのよね。ごめんなさい、そんなことさせたかったわけではないのに……」
「いや、俺こそ何もできなかった。……月夜にめちゃくちゃ叱られたよ」
「兄様に……?」
光留は苦笑する。
「どうせ鳳凰にはすぐバレるだろうから、先に言っておく。……月夜が目覚めた」
唯の顔色がサッと青くなる。
「まあでも、枷が全部なくなった訳じゃないし、すぐに俺が消えることはないってさ」
「そう……」
唯は俯き、膝の上に置いた手を握りしめる。
「それでさ、一つ聞きたいんだけど、月夜に会いたいか?」
答えなんてわかりきっている。でも、それで光留が無事だという保証はない。
「俺のことは今んとこ大丈夫だと思う。月夜曰く、まだ俺を殺せないってさ。俺の魂の枷が全部壊れたわけじゃないから、表に出られるのは短い時間だと思う。それでも良ければ、だけど」
「あなたは、それでいいの?」
「いいっていうか、お前と会えばあいつめちゃくちゃ喜ぶだろうし、てか、さっきからガンガン頭殴るのやめてほしいんだけどな……」
心なしか光留の顔色が青い。
唯も当然気付いているが、以前会った時よりも月夜の気配がずっと近くて濃い。
(会いたい……兄様に――月夜様に会いたい……)
もう二度と叶うことはないと、生まれ変わった魂を遠くから見ているだけで十分だと思っていたのに、目の前にいて手の届く場所にいる。
光留は会わせてくれると言う。甘えてもいいのだろうか。
「本当に、あなたは、槻夜君は消えたりしないのよね?」
光留は肩を竦める。
「多分な。……って、わかった! わかったら暴力反対!!」
光留が頭を抱えている姿は傍から見ればなんとも滑稽だが、本人はいたって真面目だ。
唯も月夜の気配を感じているのか、おずおずと声をかける。
「あ、あの、兄様……流石にその辺で……」
唯の言葉が効いたのか、光留の頭痛がピタリと止まる。
「あいつ、枷が外れたらマジで俺を殺す気だ……」
散々宣言されているし、冗談だと思っていないがこんなところで無様に死ぬのはゴメンである。
「その……なんて言っていいか……」
唯が申し訳なさそうに俯く。
「あー、いいっていいって。謝られると余計に酷くなるから」
「そ、そう……?」
夢で月夜と邂逅して以降、ずっと音沙汰無かったが、唯と会う今日をとても楽しみにしていた。
無理もない。あの悲劇的な別れから千年以上経ち、ようやく再会出来るのだ。
光留としては複雑だ。最初から勝ち目のない恋ではあるが、吹っ切れているわけでもなく、自分は愛し合う二人の姿を指を咥えて見ているしかないのだから。
それでも、彼女を助けたいという思いだけは変わらない。
「で、どうする?」
出来るだけ感情を表に出さないように尋ねる。
唯は震える声で囁く。
「っ、……たぃ……。ぁ、にさ、まに……月夜様に、会いたい……」
「うん。わかった」
光留が目を閉じて一呼吸の後。
「――俺の可愛い巫女姫」
光留の口から甘やかで、優しい声が紡がれる。
「ぁ……あ、ああっ!」
記憶の通り、優しくて温かな眼差しが唯――凰花を見つめている。
「つ、くよ、さまっ……、月夜様っ!!」
光留が月夜の生き写しと断言できるほど顔と声が似ているせいもあるだろう。
凰花は堪らなくなって光留――月夜に抱き着く。
「ふっ、ぅ……ずっと、ずっと……ひっく、お会い、したかった……」
凰花を抱き留めた月夜は、壊れ物を扱うかのように、優しく抱き締め返す。
「ああ、俺もだ。俺の可愛くて愛しい巫女姫……」
顔を見合わせると、どちらからともなく唇が重なる。
互いの存在を確かめ合うように、深く深く。
「ふっ……はっ……つ、くよさま……」
「ああ、ここにいる。ずっと寂しい思いをさせてすまない」
「いいえ、いいえ! 私こそ、あなたを独りで逝かせてしまいました……。ずっと一緒だと、約束したのに……」
「姫が気にすることじゃない。あの時は、あれが最善だった……。姫とやや子を守れたなら本望だ」
「……でも、私はあの子を守れませんでした」
俯く凰花の頬に手を添えて顔を上げさせる。
「知っている。辛かったな……。すまない、そばにいてやれなくて……」
凰花はふるふると首を横に振る。
「私は、ずっと月夜様に守られてばかりでした。なのに、私は、あなたとの大切な宝を守れなかった……。ごめんなさい、ごめんなさい……恨んでいますよね……」
「何故?」
「え……」
「俺の可愛い巫女姫。俺は姫を恨んだことなど一度もない。お前の守り人であることを誇りだと思っていると、何度も言ったはずだけどな?」
「で、でも……」
「姫こそ、俺を憎んだだろう? 俺を愛さなければこんな呪いなど受ける必要は無かった」
「そんなことありません! 例え、誰に祝福されずとも私は、月夜様に愛されて、愛して、幸せでした」
「……まだ、そう思ってくれているか?」
「はい。私は、月夜様のものですから」
はにかむように微笑む凰花に、もう一度触れるだけのキスをする。
「愛してる。――」
耳元で甘く囁かれた名前に、凰花はビクリと震える。
昔、閨で何度か呼ばれた名前だ。
「月夜様……?」
「俺の可愛い巫女姫。お前が死ぬ時は必ずそばにいる。だから、この名を覚えておいて。お前は、俺だけの花だよ。誰にも渡さない」
優しい顔と声なのに、何処か不穏さを感じさせる月夜に、凰花は微かな不安を覚える。
「そんな顔しないでくれ。大丈夫、お前が気にするような事は何一つ起きない。だから、安心していつも通りの日々を過ごせばいい。その時が来るまで」
「ですが、私の呪いは……」
「ああ、知っている。辛いのも苦しいのもその一瞬だ。後は俺に任せればいい」
月夜は、おそらく凰花の殆どの事情を知っている。どうやって知ったのか、凰花にはわからなかったけれど、月夜がここまで言うのだから何か算段があるのだろう。
「必ずお前を、あの神から攫ってみせる」
力強い月夜の言葉に、凰花は頷く。
神様を敵に回すなんて、考えもつかなかったけれど、今はただ、月夜を感じたくて何も考えたくなかった。
「はい、月夜様……」
ひとときの逢瀬を楽しむ恋人達を、朱華は暗い瞳で見つめていた。
(これ、ただの洗脳よね……)
唯は気付いていないのだろうか。
恋は盲目とはよく言ったものだと思う。
月夜が凰花に囁くたびに、彼女の魂は不可視の拘束がかけられていく。無意識に依存させるように誘導して、彼女の心を雁字搦めに縛り付けて、月夜との結びつきを強固にしている。
あれだけの強い拘束は、おそらく月夜が生前からかけていただろう。死して魂だけになり、肉体の制御がなくなってからも続く拘束は、祭神から奪うためのものだ。
それほどまでに望まれる彼女が羨ましくて、妬ましい。
不意に、月夜と目があった。
うっそりとまるで朱華を挑発するように嗤う目に、カッと頭が怒りで埋め尽くされる。
『お前さえ、出てこなければ……っ!』
月夜が眠ったままであれば、唯はひとりぼっちの寂しい女の子のままだった。光留が月夜の生まれ変わりでも、同じように愛することはないと安心しきっていた。
なのに、まさか光留が身体を明け渡してまで二人を再会させる甘ちゃんだなんて。それほどまでに、彼女を想っていたなんて。
知りたくなかった。出会わなければよかった。そうすればこんな醜い感情を抱くことなんてなかった!
「……朱華ちゃん?」
名前を呼ばれてハッとする。
「大丈夫?」
このまま悪霊に堕ちてしまえばすぐに祓われてしまう。今目の前にいる二人は、歴代でも最も強いと言われた巫女姫と守り人だ。
現に月夜は、手に小さな炎を灯している。唯に攻撃すれば瞬時に燃やされる。
『っ、なんでもない! ちょっと外の様子見てくるね!』
朱華は逃げるように部屋を飛び出した。
「俺の可愛い巫女姫。あの娘が気になるのか?」
「はい。彼女は、私のお友達ですから……」
「だが、あのように魂が曇りだしたなら、時間の問題だな。アレは巫女の素質がなかったのだろう」
朱華の魂は、唯として出会った頃から微かな翳りがあった。だからこそ、悪霊になる前に早く送りたかったけれど、朱華の明るさに確かに救われていたのだ。
巫女の素質は、彼女にも十分にあった。ただ、環境と時代が向いてなかったのだろう。
「悪霊になる前に、送れればよいのですが……」
「まあ、そう遠くへは行かないだろう。取り憑いている人間からはそう容易く離れられるものではないしな」
朱華が学校から出られたのは、光留に取り憑いているからだ。光留の身体がここにある以上、精々家の裏にある山までの移動が限界のはずだ。
「そう、ですね……」
「そんなことより、せっかく邪魔がいなくなったんだ。俺は、久しぶりに俺の可愛い巫女姫を感じたいんだが?」
首筋にちくりと痛みが走る。
「んっ……だめ……です……」
凰花はぐいっと月夜の胸を押し返す。
不満げにする月夜に、凰花はもじもじと俯く。
「だ、だって……その、身体は月夜様のものではありませんし、いつもと違って、その……変な感じがします。彼も見ている、でしょうし……」
恥ずかしがる凰花は大変可愛くて、月夜としては今すぐ押し倒したい。しかし、凰花の言う通り、光留がギャーギャー喚いていて煩いのも本当で、今すぐ殺してやろうと物騒な思考にシフトする。
「まあ、この貧弱な身体では俺の可愛い巫女姫を満足させられないのは確かだな」
お前と比べるな! という光留の抗議を無視し、月夜は凰花を横抱きにして膝に乗せる。
「痛みはない、と言っていたが、嘘だな」
「そ、れは……」
月夜は凰花の目元を親指で撫でる。
「目の下に隈ができている。あまり、眠れていないのだろう? 時間が来るまでこうして抱いてるから、少し眠れ」
そう言って月夜が凰花の額に口付けると、じくじくとしていた痛みがスーッと引いていく。
代わりに、月夜の身体はじくじくと痛みだす。巫女姫の癒しが必要な程の痛みではない。その程度なら、生前何度も感じていたし、辛くはない。
守り人は、巫女の依り代だ。彼女らの痛みや呪詛、傷を引き受ける。それが月夜とであれば正しく機能していることに凰花は涙を溢れさせる。
「姫は昔と変わらず泣き虫だな」
「だ、だって……まだ、兄様と繋がってるなんて、思ってなくて……」
「嫌か?」
「嬉しい、です……。でも、兄様が痛いのは、嫌です……」
凰花は自分から月夜に口付けると、痛みが引いていく。巫女姫の癒しの力は、傷を癒し、魔を祓う。自分に対してだけ効かないのが難点だが、その為に守り人がいる。守り人に対してであれば、癒しの力が使える。
そうやって、あの神託の日から、二人で支え合って生きてきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
額を合わせて互いに見つめ合い、くすくすと笑う。
そうして、月夜の優しくて温かな腕の中で、他愛のない話をしていると凰花はいつの間にか眠ってしまった。
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