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第四話 鳥籠
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暖かくて穏やかな世界。
その中で蒼龍はとても優しくて、彼を大切に想っているのだと端から見てもわかった。
だからこそ、やりきれない。
こんなやり方で、彼を手に入れたと言えるのか。
満足なのか。あなたは。
「ぁあっ、あ、ん、やっ」
寝台の上で涙を零し、嬌声をあげる月の細い腰を掴み、蒼龍は何度も突き上げる。
あれから毎日のように、時間があれば蒼龍は部屋を訪れ、月を抱いた。
月も逃げられないと理解して、諦めるように身を委ねる。
蒼龍を信じていた。だからこそ苦しくて。
だけどそんな心とは裏腹に、身体はどんどん慣れていく。
蒼龍に犯され、奥まで貫かれることがあまりに気持ち良く、感じすぎてしまう。
触れられるだけで容易く身体は陥落し、乱れてしまう。
怖かった。男に抱かれることに慣れていく身体が。
以前の優しさが嘘のように、ただ人形のように自分を抱く蒼龍が。
「月。
俺を見ろ」
「っや、ああっ、ひあっ」
奥まで何度も突かれ、顎を掴まれる。ぐい、と上向かされ、蒼龍の顔が視界に映った。
蒼龍も感じているのか、苦しげに眉が寄っている。息も荒い。
「…蒼、龍…」
「そう。
そうやって、俺を呼んで見ていればいい」
は、は、と短く息をしながら名を呼んだ月に、蒼龍は満足そうに口元を緩ませた。
「月。
お前は俺のものだ。
いいな。
どこにも行っては駄目なんだ」
蒼龍は毎日、抱くたびに同じ言葉を繰り返す。
まるで手足に枷を嵌めるように、逃げられないように。
月の汗ばんだ手を取り、指先にそっと口づけた。
その仕草があまりに優しくて、以前の彼を思い出す。
瞳が潤んでまた涙が溢れた。
「…月?
泣いてるのか?」
「……っ…ぅ…」
震える手で口元を覆い、しゃくり上げる月を見下ろし、蒼龍は切なげに瞳を細めた。
「すまないな。
月は不幸かもしれない」
蒼龍は優しい声で謝って月の手をシーツに縫い止める。
「それでもいい。
このまま俺に囚われていて」
「…っ」
泣きじゃくる月の唇にそっと口づける。
涙の味がして、胸がかすかに痛んだ。
ぐ、と腰を押しつけると月の身体がびくんと跳ねる。
濡れた瞳が蒼龍を見た。
「…ごめん。
…お前を壊したいのかもしれない」
「…っ…」
見開かれた銀のような灰色の瞳。出来るだけ優しく微笑みかけ、ぐい、と強く奥まで貫いた。
「やあっ、あああっ」
堪らず、月の唇から嬌声があふれ出す。
白い太股を跡がつくほど掴み、開かせる。
「あっ、やあっ、ぁあんっ、んっ」
じゅぶじゅぶと音がするほど突き動かし、中を擦り上げる。
何度も達して敏感になった箇所は蒼龍のものを美味しそうに呑み込み、いやらしく蠢いた。
「あ、あ、っゃあっ、ひゃっ、ああっ」
初めて抱いたときよりも格段に、月は感じやすくなっている。
今ではもう後ろだけで達することが出来るほどに。
抱くたび淫らに蕩けていく身体。なのに心はいつまで経っても無垢で清らかで。
その差にどうしようもなく興奮した。
「月。月…。
俺の…月…っ」
「んあっ、あ、蒼龍…っ、やああっ」
突かれるたびに月の白い身体は跳ね、高い声があふれ出す。
もっともっと聞きたい。名を呼んで欲しい。
俺だけを見つめて、鳴いて。
どうかこの腕の中に囚われていて。
おかしいな。なんでこんなに、狂おしいほどに想うのだろう。
なんでこんなにもどうしようもないほど、彼だけが欲しい?
今まで望めばなんでも手に入った。
なのに、彼だけが手に入らない。だからだろうか?
どうしてこんなにもずっと彼のことばかり考えて、夢中になって、胸が苦しいんだ。
行為が終わったあと、月は乱れたシーツの上に寝転がったまま、身体を震わせている。
時折啜り泣く小さな声が聞こえる。
月はいつもそうだ。抱かれたあとはいつもそうやって身を縮こまらせて泣いている。
蒼龍はシャツに腕を通し、ボタンを嵌めると立ち上がる。
そして泣いている月に視線を向けた。
白い身体にはところどころに赤い跡が散っている。けれどそう多くはない。
月の白く美しい肌が好きで、自分の跡で染めて汚してしまいたいと思う。
けれどそのままの無垢で清らかな姿を見ていたいとも思う。
蒼龍は手を伸ばし、震える月の肩に触れようとする。
けれど泣きじゃくる彼に触れることが躊躇われて、結局触れないまま、堪えるように手を握りしめた。
月の笑顔を、最近見ていない。自分のせいだとわかってるからなにも言えない。
蒼龍は「ゆっくり休め」とだけ言って部屋を出た。
廊下に立っていた雨龍と目が合う。やはり、彼は咎めるように蒼龍を睨む。
だが最初の頃のようになにか言ったりはしなかった。
蒼龍も無言で前を通り過ぎる。
月の身体を清めてやりたいが、自分では月が怯えるだろう。
雨龍に任せるのがいい。
雨龍は歩いていく蒼龍を見送ると、戸を開けて部屋の中に入った。
シーツの上に沈んでいる月に近づき、優しく声を掛ける。
「月さん」
「………っ」
涙に濡れた瞳が雨龍を見上げ、また潤んだ。
「お風呂、行きましょう。
綺麗にしてあげますから」
雨龍はそう言って手を伸ばし、月の身体を抱き起こした。
月は泣きながら雨龍の身体にすがりついてくる。
雨龍は震える身体を抱きしめ、髪を撫でてやった。
今の彼は蒼龍にすがれない。蒼龍が己を性欲処理の人形のように思っている、と考えているはずだ。蒼龍を信じられないだろう。
蒼龍を愚かだと思った。
以前、雨龍の目には月は蒼龍に心を許していたように見えた。
あのままなら、いずれ月は手に入っただろう。
なのに、蒼龍は自分の手で全て壊してしまった。
見るに堪えない愚行だ。なのに、それをどこかで喜んでいる自分がいる。
蒼龍を信じられなくなった月が一番にすがるのが、自分だから。
涙を零す月の髪を撫で、タオルで軽く身体を拭う。
大きなタオルで身体を包み、抱き上げて部屋を出た。
離れ屋敷に立ち入れるのは蒼龍と雨龍、小雷だけだ。
だからほかのヤツに見られることはない。
大人しく収まったままの月を浴場に運び、裸にして身体を洗う。
月は抵抗する力もないのか、もう諦めてしまったのかされるがままだ。
華奢な身体を膝の上に乗せたまま身体を洗い、奥に指を伸ばす。
月が瞳を見開き、身体を震わせた。
さすがにこれだけは慣れないらしい。とはいえ力の入らない身体で自分で掻き出すのは出来ないだろうし、仕方ない。
「っんん…」
くちゅ、と奥に入り込んできた指に月がかすれた声を漏らす。
とろ、と中に散々吐き出されたものが溢れてきた。
「んあ、あ、ぁっ…」
散々蒼龍のものを受け入れていた箇所は些細な刺激でもひどく感じてしまうらしく、月は小さな声を上げて身悶える。
震える手を雨龍の身体に回し、すがりついた。
触れる滑らかな白い肌の感触に、雨龍はかすかに息を呑む。
耳元で響く甘ったるい声に身体が熱くなった。
「や、あん…っ、ぁア…っ」
「…っ」
努めて事務的に指を動かしていたが、堪えきれなくなってきた。
触れる月の熱い吐息が、匂いが、声が、全てが自分を強く高ぶらせる。
「ゃあっ、ひゃっん…!」
無意識のうちに二本指をつっこんで、中をかき回していた。
月がびくん、と身体を震わせ、高い声を上げる。
「あぁっ、や、ァ…っん」
雨龍の身体に必死ですがりつき、月は涙を零して身悶える。
「ぁ、あく…っ…んあっ」
どのみち、月の性器は勃ちあがっている。
イカせてやったほうがいい。そう言い訳して、中をぐちゃぐちゃと激しくかき回した。
「あっ、ひゃあっ、あ、きゃう…っ」
月はびくびく身体を跳ねさせ、ぎゅうっと雨龍の身体に抱きついた。
三本奥まで入り込んだ指が中を擦った瞬間、一際大きく身体が痙攣した。
「やぁあああっ」
甘くかすれた声が耳元で響いた。月が吐きだしたものが彼の腹にかかる。
雨龍は涙を零し、震える月の身体を抱きしめ、優しく髪を撫でてやった。
「……っ」
「もう終わったから。
大丈夫だから」
「……っ…ふ…」
月は雨龍の首に腕を回し、ひくひくとしゃくり上げて泣く。
感じすぎて怖いのかもしれない。
蒼龍が抱くようになって、月は変わった。
ひどく綺麗になった。ふとした仕草や表情に、匂い立つような甘い色香を感じるようになった。
なにもかも息を呑むほど美しくて、艶やかだ。目を逸らせなくなる。
小雷もその変化に気付いているようだ。
時々、欲のこもった目で月を見ている。それはきっと、自分も同じなのだろう。
月が落ち着いたのを確認して、身体を洗い、タオルで拭いて抱き上げる。
脱衣所で服を着せ、また抱いて部屋まで連れて行った。
雨龍は月を寝台に寝かせると、飲み物を持ってきてグラスに注ぎ、枕元に置いてやる。
まだ瞳は涙に潤んでいた。ぞくりと背筋が震えるほど扇情的で、また身体が熱くなる。
さっきだってあまりにいやらしい月の痴態と声に欲情し、身体がはっきり反応してしまっていた。
月を着替えさせ、脱衣所の椅子に座らせてから着替えると言って風呂場に行き、どうにか処理したけど。
「月さん。
僕は戻った方がいいですか?」
月の髪を撫でて問いかけると、月が雨龍を見上げた。
服を掴んで、小さく引っぱる。
「わかりました…」
雨龍は優しく微笑んで頷くと寝台に腰掛け、月の身体を抱きしめた。
月は雨龍の胸に頬を寄せ、ホッと息を吐いて目を閉じる。
月は蒼龍に抱かれたあと、そうやって自分にすがる。
不安で怖くて、まだ混乱しているのだろう。
親を失ったばかりの、現実を受け止められない存在。
心細くて辛くて仕方ないだろう。
雨龍はただ彼を抱きしめ、髪を撫でてそばにいてやる。
甘やかすほどに月が甘えてくれるのが嬉しかった。
蒼龍は馬鹿だ。自分で壊してしまった。
だけど僕だって兄のことを言えない。
月に傷ついて欲しくないと思うくせ、蒼龍に傷つけられたこの人が自分にすがってくるのを喜んでいるんだから。
「雨龍。
月さんは?」
「やっと寝ました」
部屋から出てきた雨龍を待っていたのは小雷だった。
雨龍は戸を閉めると小雷に向き直る。
「さっきまでずっと泣いていました。
…あんなに泣いてばかりだと、壊れてしまう気がします…」
「…ま、しょうがないよね」
いろいろなことが積み重なりすぎた。
まだ二十歳の月には、重すぎる。
「兄上は馬鹿です」
「…ま、そうだね。
私もそう思う」
小雷の目にも、以前の月が蒼龍に心を許していたように映っていたのだろう。
小雷の瞳も冷たい。
蒼龍は絶対的な主だ。思えばそのやり方にはっきり異論を唱えたのは、これが初めてかもしれない。
蒼龍はいつだって正しく、間違えなかったから。
「…でも初めてなんだよね。
蒼龍があんな風に、必死に誰かを欲しがったの。
自分が間違ってること、多分自覚してるんじゃないかな」
「……でしょうね」
わからないはずはない。蒼龍ならば。
その上で、正すことが出来ない。それほどに月を欲している。
「でも、雨龍はいーな」
「え?」
「今の月さんって、雨龍に特別懐いてるからね。
羨ましい。
私が代われたらいいのに」
薄く笑った小雷の言葉に、雨龍は息を呑む。
心臓が大きな音を立てた。
「なーんて。
まあでも、割と本気なんだけどね」
小雷はおどけて言い、背を向ける。
「月さんって不思議な人だよね。
私たちに全然怯えなかったし、綺麗で無垢で、賢くて。
それで優しい。
…だから、ついつい夢中になっちゃう」
小雷は肩越しに雨龍を見て笑い、そのまま歩いていく。
雨龍はその場に立ちつくしたまま、詰めていた息を吐いた。
わかってる。自分だって、魅せられた一人だ。
守りたい。笑わせたい。なのに全て奪いたくなる。
こんな狂おしい気持ちは、初めて知った。
月は寝台の上で眠っている。
目元に泣きはらした跡があった。
寝台の縁に腰掛けた雨龍がそっと金色の髪を撫でる。
蒼龍に容赦なく抱かれたあと、月は壊れるように泣いて、そのあと死んだように眠ってしまう。
雨龍は時間がある限りそんな彼のそばにいて、見守っていた。
「雨龍。
月さんまだ寝てる?」
「はい」
小雷が戸を開けて入ってきた。
「そう…。
落ち着くようにハーブティーを持ってきたんだけど…」
小雷がトレイに乗ったポッドとカップを見下ろし、表情を曇らせる。
トレイには小雷が作ったらしいクッキーもあった。
「起きたら飲むでしょう。
月さん、あなたのクッキー好きですし」
「…そうだね」
雨龍の言葉に小雷は口元を緩め、トレイをテーブルの上に置いた。
「…兄上は月さんの家を買うと言いましたが、家は見付かったんですか?」
「いいや、全く。
どころか未だに月さんらしき人物の足跡も出て来ない。
本当に、犯人はどこから月さんを連れてきたのか…」
「……」
小雷の言葉に雨龍は表情を曇らせる。
調べれば調べるほどわからなくなる月という人物の軌跡。
月は一体どこから来たのか。
「…日本」
「え?」
ふと思い出したのは、この屋敷に来たばかりの頃、月が口にした国の名前。
全く聞いた覚えのない名前だったが。
「小雷。日本という国を知りませんか?」
「知らないなあ。聞いたこともない」
「…そうですか。やはり」
やはり小雷も知らない。そもそもそんな国が実在するのか?
だが月が嘘を吐いていないなら、月は異国の人間だ。
その割に言葉はすんなり通じるし、月の話す言葉におかしな訛りもないが。
「ただ、犯人はまだわからないな。
家を競売にかけたのも多分下っ端。
捕まえてもトカゲの尻尾切りだね」
「…ええ」
せめて月の父母が何故殺されたのか、明確な理由がわかればいいのだが。
雨龍はそう考えながら、指で優しく月の髪を撫でる。
さら、と金色の髪が揺れた。
小雷は月を見つめる雨龍の瞳を見て、瞳を細める。
複雑な情の混ざった瞳だ。そう見えた。
私たちも複雑だな、と内心呟く。
不意にぴく、と月の指が跳ねた。
「月さん?」
「……」
雨龍が気付いて名を呼ぶと、瞼が震えてゆっくり開いた。
まどろむような瞳が雨龍を見上げ、揺れる。
「大丈夫ですか?」
雨龍は優しく声をかけ、髪を撫でた。
「……はい」
「ならよかったです。
小雷がハーブティーとクッキーを持ってきてくれました。
好きでしょう?」
雨龍が微笑んで言うと、月はかすかに口元を綻ばせて頷いた。
雨龍が手を伸ばし、月の身体を抱き起こす。
細い身体は簡単に雨龍の腕の中に収まった。
「起きてられますか?」
「…ええ」
月が小さく頷くと雨龍がホッと息を吐いて手を離した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます…」
小雷がカップにハーブティーを注ぎ、月に手渡す。
月はそっと受け取って、静かに口を付ける。
一口飲んで、小さく息を吐いた。
「月さん。
よかったら一緒に庭を散歩しませんか?
ずっと部屋にいたら気詰まりでしょう?」
「……でも」
「離れの周りくらいなら大丈夫だよ。私たちも一緒だし」
小雷はそう言って微笑むが、月の表情は沈んだままだ。
「……いいです」
月はしばらく迷ったように黙っていたが、結局断った。
「いいの?」
「…いいんです。
ここから出られないのはわかったから…。
中途半端に外を見ると…恋しくなります」
「……そう」
確かにそうかもしれない。
この屋敷から出ることは、おそらく蒼龍が許さない。
中途半端に外を見ても、辛いだけかもしれない。
月の表情は儚げで精彩がなく、まるで人形のようだ。
最近ずっとそんな顔ばかり見ている。
笑った顔は、最近見ていない。
「あ、じゃ、じゃあ、なにか話、する?
仕事でもらったお土産持って来ようか?」
「…ごめんなさい。
今、まだちょっと怠くて」
「…あ、そ、そうだよね。
ごめん」
「すみません」
小雷は月の言葉に気落ちしながら、月に気を遣わせないよう笑ってみせた。
「じゃあ元気になったらしようね」
「はい」
こくりと頷いた月の髪を小雷が撫でる。
月はされるがままで、おとなしい。
「…疲れてるなら、休みますか?」
「…はい」
雨龍の問いかけに月は小さく頷いた。
「じゃあ私たちまた来るね。クッキーとハーブティー、置いておくから」
「ありがとう」
小雷の言葉に月は控えめな笑みを浮かべて礼を言った。
雨龍も立ち上がって廊下に足を向けたが、不意に服の袖を掴まれた。
「…あ」
月は無意識だったらしく、そっと手を離す。
雨龍は振り返ると優しく微笑んで髪を撫でてやった。
「そばにいたほうがいいですか?」
「……迷惑じゃないなら」
「なら、います」
雨龍の言葉に月は安心したように口元を綻ばせる。
雨龍は寝台の縁に座り直すと、月の身体を抱きしめた。
月は雨龍の胸に頬を寄せ、目を閉じる。
「なんならまた寝てもいいですよ。
そばにいてあげますから」
「…はい」
雨龍の言葉に月はホッと息を吐く。
細い身体を抱きしめ、腕の中に閉じこめて、柔らかな髪を撫でる。
その瞳は相変わらず、愛情と欲と、罪悪感と執着の混ざった、複雑な色をしていた。
小雷はそれを見てから、そっと戸を閉める。
「随分、雨龍には心を許してるんだね…」
「ま、無理ないよ。
元々懐いてたし…、蒼龍のせいで頼れる相手をなくしちゃったから」
不意に扉の外にいた青年が小雷の呟きを拾って答える。
肩までの長さの明るい髪色の、緑色の装束の若者だ。
「飛蘭」
「唯一、すがれる相手なのかも。雨龍が。
家族みたいな感じなのかもね」
飛蘭と呼ばれた青年は話し声が聞こえないよう部屋から離れながら言う。
小雷も後をついてきた。
「ま、雨龍のほうはそうじゃないだろうけど」
「そうね。
そんな顔してた」
「やっぱ飛蘭も気付いてたか」
「当たり前」
飛蘭は足を止めて薄く笑み、小雷の額を指先で軽く突く。
「あんたが男の顔して月さんを見てたのも気付いてるんだから」
「……私も気付いてるよ。
お互い様だね」
「そうね。
私たち、付き合い長いもの」
顔を見れば大体のことはわかる。それくらい長い間一緒にいるのだ。
雨龍も小雷も飛蘭も、蒼龍も。
その四人が同じ相手に魅了されたというのも、変な話だ。
「でも、今の状況を作ったのは蒼龍様だからね。
私も雨龍も、蒼龍様は間違ってると思う。
なんであんな、蒼龍様は怖がってんの?」
「…憶測だけど、あそこまで本気でなにかを欲しがったの、初めてだと思う。
あの子。
だからじゃないかしらね?
制御の仕方がわかんないのよ」
「…だからって、あんな子どもを傷つけていいってことにはなんないでしょ」
小雷は眉根を寄せ、ため息を吐く。
蒼龍のしたことに怒っているからこそ、口調もきつくなる。
「…私は少し、蒼龍様の気持ちもわかるけどね」
「蒼龍様が正しいって?」
「そうは言ってないわ。
間違ってるとは思うわよ。
ただ、理解も出来るってだけ」
飛蘭はかすかに口元を緩め、視線を庭に向ける。
夜の闇に包まれた庭には、蛍の光が見えた。
この屋敷は大きく立派だ。庭も広大で、塀も高い。
小雷たちもこの屋敷で暮らすようになって、何年も経つ。
「あんたたちはあのままなら、月さんは蒼龍様を好きになったって思うのかもしれないけど。
それと、気持ちを受け入れられるか、一緒にいられるかは別だと思うわ」
「…放っておいたら、月さんは逃げちゃったって?」
「その可能性も充分あったってことよ。
生きる世界が違いすぎたの。
その上男同士で、簡単に受け入れられるような人はそうそういないわ」
だからこそ、失う可能性も等しくあった。
だから蒼龍は踏み外した、と飛蘭は言う。
「……私にはやっぱりわかんない」
小雷は眉根を寄せ、飛蘭に背を向ける。
「大事な相手を傷つけてまで自分の気持ちを優先させるのは、汚いよ。
私はそういうのはいやだ」
小雷はきつい眼差しで飛蘭を見つめ、そのまま歩いて行った。
小雷は廊下に立ったまま、その姿を見送り、小さく息を吐く。
確かに小雷の言っていることは正しい。けれど綺麗事でもある。
「…あんたも、いつまでそんなこと言ってられるかしらね…」
小さな声で呟くと、小雷が歩いて行ったのとは別の方向に向かって、足を踏み出した。
その中で蒼龍はとても優しくて、彼を大切に想っているのだと端から見てもわかった。
だからこそ、やりきれない。
こんなやり方で、彼を手に入れたと言えるのか。
満足なのか。あなたは。
「ぁあっ、あ、ん、やっ」
寝台の上で涙を零し、嬌声をあげる月の細い腰を掴み、蒼龍は何度も突き上げる。
あれから毎日のように、時間があれば蒼龍は部屋を訪れ、月を抱いた。
月も逃げられないと理解して、諦めるように身を委ねる。
蒼龍を信じていた。だからこそ苦しくて。
だけどそんな心とは裏腹に、身体はどんどん慣れていく。
蒼龍に犯され、奥まで貫かれることがあまりに気持ち良く、感じすぎてしまう。
触れられるだけで容易く身体は陥落し、乱れてしまう。
怖かった。男に抱かれることに慣れていく身体が。
以前の優しさが嘘のように、ただ人形のように自分を抱く蒼龍が。
「月。
俺を見ろ」
「っや、ああっ、ひあっ」
奥まで何度も突かれ、顎を掴まれる。ぐい、と上向かされ、蒼龍の顔が視界に映った。
蒼龍も感じているのか、苦しげに眉が寄っている。息も荒い。
「…蒼、龍…」
「そう。
そうやって、俺を呼んで見ていればいい」
は、は、と短く息をしながら名を呼んだ月に、蒼龍は満足そうに口元を緩ませた。
「月。
お前は俺のものだ。
いいな。
どこにも行っては駄目なんだ」
蒼龍は毎日、抱くたびに同じ言葉を繰り返す。
まるで手足に枷を嵌めるように、逃げられないように。
月の汗ばんだ手を取り、指先にそっと口づけた。
その仕草があまりに優しくて、以前の彼を思い出す。
瞳が潤んでまた涙が溢れた。
「…月?
泣いてるのか?」
「……っ…ぅ…」
震える手で口元を覆い、しゃくり上げる月を見下ろし、蒼龍は切なげに瞳を細めた。
「すまないな。
月は不幸かもしれない」
蒼龍は優しい声で謝って月の手をシーツに縫い止める。
「それでもいい。
このまま俺に囚われていて」
「…っ」
泣きじゃくる月の唇にそっと口づける。
涙の味がして、胸がかすかに痛んだ。
ぐ、と腰を押しつけると月の身体がびくんと跳ねる。
濡れた瞳が蒼龍を見た。
「…ごめん。
…お前を壊したいのかもしれない」
「…っ…」
見開かれた銀のような灰色の瞳。出来るだけ優しく微笑みかけ、ぐい、と強く奥まで貫いた。
「やあっ、あああっ」
堪らず、月の唇から嬌声があふれ出す。
白い太股を跡がつくほど掴み、開かせる。
「あっ、やあっ、ぁあんっ、んっ」
じゅぶじゅぶと音がするほど突き動かし、中を擦り上げる。
何度も達して敏感になった箇所は蒼龍のものを美味しそうに呑み込み、いやらしく蠢いた。
「あ、あ、っゃあっ、ひゃっ、ああっ」
初めて抱いたときよりも格段に、月は感じやすくなっている。
今ではもう後ろだけで達することが出来るほどに。
抱くたび淫らに蕩けていく身体。なのに心はいつまで経っても無垢で清らかで。
その差にどうしようもなく興奮した。
「月。月…。
俺の…月…っ」
「んあっ、あ、蒼龍…っ、やああっ」
突かれるたびに月の白い身体は跳ね、高い声があふれ出す。
もっともっと聞きたい。名を呼んで欲しい。
俺だけを見つめて、鳴いて。
どうかこの腕の中に囚われていて。
おかしいな。なんでこんなに、狂おしいほどに想うのだろう。
なんでこんなにもどうしようもないほど、彼だけが欲しい?
今まで望めばなんでも手に入った。
なのに、彼だけが手に入らない。だからだろうか?
どうしてこんなにもずっと彼のことばかり考えて、夢中になって、胸が苦しいんだ。
行為が終わったあと、月は乱れたシーツの上に寝転がったまま、身体を震わせている。
時折啜り泣く小さな声が聞こえる。
月はいつもそうだ。抱かれたあとはいつもそうやって身を縮こまらせて泣いている。
蒼龍はシャツに腕を通し、ボタンを嵌めると立ち上がる。
そして泣いている月に視線を向けた。
白い身体にはところどころに赤い跡が散っている。けれどそう多くはない。
月の白く美しい肌が好きで、自分の跡で染めて汚してしまいたいと思う。
けれどそのままの無垢で清らかな姿を見ていたいとも思う。
蒼龍は手を伸ばし、震える月の肩に触れようとする。
けれど泣きじゃくる彼に触れることが躊躇われて、結局触れないまま、堪えるように手を握りしめた。
月の笑顔を、最近見ていない。自分のせいだとわかってるからなにも言えない。
蒼龍は「ゆっくり休め」とだけ言って部屋を出た。
廊下に立っていた雨龍と目が合う。やはり、彼は咎めるように蒼龍を睨む。
だが最初の頃のようになにか言ったりはしなかった。
蒼龍も無言で前を通り過ぎる。
月の身体を清めてやりたいが、自分では月が怯えるだろう。
雨龍に任せるのがいい。
雨龍は歩いていく蒼龍を見送ると、戸を開けて部屋の中に入った。
シーツの上に沈んでいる月に近づき、優しく声を掛ける。
「月さん」
「………っ」
涙に濡れた瞳が雨龍を見上げ、また潤んだ。
「お風呂、行きましょう。
綺麗にしてあげますから」
雨龍はそう言って手を伸ばし、月の身体を抱き起こした。
月は泣きながら雨龍の身体にすがりついてくる。
雨龍は震える身体を抱きしめ、髪を撫でてやった。
今の彼は蒼龍にすがれない。蒼龍が己を性欲処理の人形のように思っている、と考えているはずだ。蒼龍を信じられないだろう。
蒼龍を愚かだと思った。
以前、雨龍の目には月は蒼龍に心を許していたように見えた。
あのままなら、いずれ月は手に入っただろう。
なのに、蒼龍は自分の手で全て壊してしまった。
見るに堪えない愚行だ。なのに、それをどこかで喜んでいる自分がいる。
蒼龍を信じられなくなった月が一番にすがるのが、自分だから。
涙を零す月の髪を撫で、タオルで軽く身体を拭う。
大きなタオルで身体を包み、抱き上げて部屋を出た。
離れ屋敷に立ち入れるのは蒼龍と雨龍、小雷だけだ。
だからほかのヤツに見られることはない。
大人しく収まったままの月を浴場に運び、裸にして身体を洗う。
月は抵抗する力もないのか、もう諦めてしまったのかされるがままだ。
華奢な身体を膝の上に乗せたまま身体を洗い、奥に指を伸ばす。
月が瞳を見開き、身体を震わせた。
さすがにこれだけは慣れないらしい。とはいえ力の入らない身体で自分で掻き出すのは出来ないだろうし、仕方ない。
「っんん…」
くちゅ、と奥に入り込んできた指に月がかすれた声を漏らす。
とろ、と中に散々吐き出されたものが溢れてきた。
「んあ、あ、ぁっ…」
散々蒼龍のものを受け入れていた箇所は些細な刺激でもひどく感じてしまうらしく、月は小さな声を上げて身悶える。
震える手を雨龍の身体に回し、すがりついた。
触れる滑らかな白い肌の感触に、雨龍はかすかに息を呑む。
耳元で響く甘ったるい声に身体が熱くなった。
「や、あん…っ、ぁア…っ」
「…っ」
努めて事務的に指を動かしていたが、堪えきれなくなってきた。
触れる月の熱い吐息が、匂いが、声が、全てが自分を強く高ぶらせる。
「ゃあっ、ひゃっん…!」
無意識のうちに二本指をつっこんで、中をかき回していた。
月がびくん、と身体を震わせ、高い声を上げる。
「あぁっ、や、ァ…っん」
雨龍の身体に必死ですがりつき、月は涙を零して身悶える。
「ぁ、あく…っ…んあっ」
どのみち、月の性器は勃ちあがっている。
イカせてやったほうがいい。そう言い訳して、中をぐちゃぐちゃと激しくかき回した。
「あっ、ひゃあっ、あ、きゃう…っ」
月はびくびく身体を跳ねさせ、ぎゅうっと雨龍の身体に抱きついた。
三本奥まで入り込んだ指が中を擦った瞬間、一際大きく身体が痙攣した。
「やぁあああっ」
甘くかすれた声が耳元で響いた。月が吐きだしたものが彼の腹にかかる。
雨龍は涙を零し、震える月の身体を抱きしめ、優しく髪を撫でてやった。
「……っ」
「もう終わったから。
大丈夫だから」
「……っ…ふ…」
月は雨龍の首に腕を回し、ひくひくとしゃくり上げて泣く。
感じすぎて怖いのかもしれない。
蒼龍が抱くようになって、月は変わった。
ひどく綺麗になった。ふとした仕草や表情に、匂い立つような甘い色香を感じるようになった。
なにもかも息を呑むほど美しくて、艶やかだ。目を逸らせなくなる。
小雷もその変化に気付いているようだ。
時々、欲のこもった目で月を見ている。それはきっと、自分も同じなのだろう。
月が落ち着いたのを確認して、身体を洗い、タオルで拭いて抱き上げる。
脱衣所で服を着せ、また抱いて部屋まで連れて行った。
雨龍は月を寝台に寝かせると、飲み物を持ってきてグラスに注ぎ、枕元に置いてやる。
まだ瞳は涙に潤んでいた。ぞくりと背筋が震えるほど扇情的で、また身体が熱くなる。
さっきだってあまりにいやらしい月の痴態と声に欲情し、身体がはっきり反応してしまっていた。
月を着替えさせ、脱衣所の椅子に座らせてから着替えると言って風呂場に行き、どうにか処理したけど。
「月さん。
僕は戻った方がいいですか?」
月の髪を撫でて問いかけると、月が雨龍を見上げた。
服を掴んで、小さく引っぱる。
「わかりました…」
雨龍は優しく微笑んで頷くと寝台に腰掛け、月の身体を抱きしめた。
月は雨龍の胸に頬を寄せ、ホッと息を吐いて目を閉じる。
月は蒼龍に抱かれたあと、そうやって自分にすがる。
不安で怖くて、まだ混乱しているのだろう。
親を失ったばかりの、現実を受け止められない存在。
心細くて辛くて仕方ないだろう。
雨龍はただ彼を抱きしめ、髪を撫でてそばにいてやる。
甘やかすほどに月が甘えてくれるのが嬉しかった。
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「雨龍。
月さんは?」
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いろいろなことが積み重なりすぎた。
まだ二十歳の月には、重すぎる。
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小雷の目にも、以前の月が蒼龍に心を許していたように映っていたのだろう。
小雷の瞳も冷たい。
蒼龍は絶対的な主だ。思えばそのやり方にはっきり異論を唱えたのは、これが初めてかもしれない。
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「…でも初めてなんだよね。
蒼龍があんな風に、必死に誰かを欲しがったの。
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「……でしょうね」
わからないはずはない。蒼龍ならば。
その上で、正すことが出来ない。それほどに月を欲している。
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「え?」
「今の月さんって、雨龍に特別懐いてるからね。
羨ましい。
私が代われたらいいのに」
薄く笑った小雷の言葉に、雨龍は息を呑む。
心臓が大きな音を立てた。
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小雷はおどけて言い、背を向ける。
「月さんって不思議な人だよね。
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…だから、ついつい夢中になっちゃう」
小雷は肩越しに雨龍を見て笑い、そのまま歩いていく。
雨龍はその場に立ちつくしたまま、詰めていた息を吐いた。
わかってる。自分だって、魅せられた一人だ。
守りたい。笑わせたい。なのに全て奪いたくなる。
こんな狂おしい気持ちは、初めて知った。
月は寝台の上で眠っている。
目元に泣きはらした跡があった。
寝台の縁に腰掛けた雨龍がそっと金色の髪を撫でる。
蒼龍に容赦なく抱かれたあと、月は壊れるように泣いて、そのあと死んだように眠ってしまう。
雨龍は時間がある限りそんな彼のそばにいて、見守っていた。
「雨龍。
月さんまだ寝てる?」
「はい」
小雷が戸を開けて入ってきた。
「そう…。
落ち着くようにハーブティーを持ってきたんだけど…」
小雷がトレイに乗ったポッドとカップを見下ろし、表情を曇らせる。
トレイには小雷が作ったらしいクッキーもあった。
「起きたら飲むでしょう。
月さん、あなたのクッキー好きですし」
「…そうだね」
雨龍の言葉に小雷は口元を緩め、トレイをテーブルの上に置いた。
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小雷の言葉に雨龍は表情を曇らせる。
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「……」
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「大丈夫ですか?」
雨龍は優しく声をかけ、髪を撫でた。
「……はい」
「ならよかったです。
小雷がハーブティーとクッキーを持ってきてくれました。
好きでしょう?」
雨龍が微笑んで言うと、月はかすかに口元を綻ばせて頷いた。
雨龍が手を伸ばし、月の身体を抱き起こす。
細い身体は簡単に雨龍の腕の中に収まった。
「起きてられますか?」
「…ええ」
月が小さく頷くと雨龍がホッと息を吐いて手を離した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます…」
小雷がカップにハーブティーを注ぎ、月に手渡す。
月はそっと受け取って、静かに口を付ける。
一口飲んで、小さく息を吐いた。
「月さん。
よかったら一緒に庭を散歩しませんか?
ずっと部屋にいたら気詰まりでしょう?」
「……でも」
「離れの周りくらいなら大丈夫だよ。私たちも一緒だし」
小雷はそう言って微笑むが、月の表情は沈んだままだ。
「……いいです」
月はしばらく迷ったように黙っていたが、結局断った。
「いいの?」
「…いいんです。
ここから出られないのはわかったから…。
中途半端に外を見ると…恋しくなります」
「……そう」
確かにそうかもしれない。
この屋敷から出ることは、おそらく蒼龍が許さない。
中途半端に外を見ても、辛いだけかもしれない。
月の表情は儚げで精彩がなく、まるで人形のようだ。
最近ずっとそんな顔ばかり見ている。
笑った顔は、最近見ていない。
「あ、じゃ、じゃあ、なにか話、する?
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「…ごめんなさい。
今、まだちょっと怠くて」
「…あ、そ、そうだよね。
ごめん」
「すみません」
小雷は月の言葉に気落ちしながら、月に気を遣わせないよう笑ってみせた。
「じゃあ元気になったらしようね」
「はい」
こくりと頷いた月の髪を小雷が撫でる。
月はされるがままで、おとなしい。
「…疲れてるなら、休みますか?」
「…はい」
雨龍の問いかけに月は小さく頷いた。
「じゃあ私たちまた来るね。クッキーとハーブティー、置いておくから」
「ありがとう」
小雷の言葉に月は控えめな笑みを浮かべて礼を言った。
雨龍も立ち上がって廊下に足を向けたが、不意に服の袖を掴まれた。
「…あ」
月は無意識だったらしく、そっと手を離す。
雨龍は振り返ると優しく微笑んで髪を撫でてやった。
「そばにいたほうがいいですか?」
「……迷惑じゃないなら」
「なら、います」
雨龍の言葉に月は安心したように口元を綻ばせる。
雨龍は寝台の縁に座り直すと、月の身体を抱きしめた。
月は雨龍の胸に頬を寄せ、目を閉じる。
「なんならまた寝てもいいですよ。
そばにいてあげますから」
「…はい」
雨龍の言葉に月はホッと息を吐く。
細い身体を抱きしめ、腕の中に閉じこめて、柔らかな髪を撫でる。
その瞳は相変わらず、愛情と欲と、罪悪感と執着の混ざった、複雑な色をしていた。
小雷はそれを見てから、そっと戸を閉める。
「随分、雨龍には心を許してるんだね…」
「ま、無理ないよ。
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肩までの長さの明るい髪色の、緑色の装束の若者だ。
「飛蘭」
「唯一、すがれる相手なのかも。雨龍が。
家族みたいな感じなのかもね」
飛蘭と呼ばれた青年は話し声が聞こえないよう部屋から離れながら言う。
小雷も後をついてきた。
「ま、雨龍のほうはそうじゃないだろうけど」
「そうね。
そんな顔してた」
「やっぱ飛蘭も気付いてたか」
「当たり前」
飛蘭は足を止めて薄く笑み、小雷の額を指先で軽く突く。
「あんたが男の顔して月さんを見てたのも気付いてるんだから」
「……私も気付いてるよ。
お互い様だね」
「そうね。
私たち、付き合い長いもの」
顔を見れば大体のことはわかる。それくらい長い間一緒にいるのだ。
雨龍も小雷も飛蘭も、蒼龍も。
その四人が同じ相手に魅了されたというのも、変な話だ。
「でも、今の状況を作ったのは蒼龍様だからね。
私も雨龍も、蒼龍様は間違ってると思う。
なんであんな、蒼龍様は怖がってんの?」
「…憶測だけど、あそこまで本気でなにかを欲しがったの、初めてだと思う。
あの子。
だからじゃないかしらね?
制御の仕方がわかんないのよ」
「…だからって、あんな子どもを傷つけていいってことにはなんないでしょ」
小雷は眉根を寄せ、ため息を吐く。
蒼龍のしたことに怒っているからこそ、口調もきつくなる。
「…私は少し、蒼龍様の気持ちもわかるけどね」
「蒼龍様が正しいって?」
「そうは言ってないわ。
間違ってるとは思うわよ。
ただ、理解も出来るってだけ」
飛蘭はかすかに口元を緩め、視線を庭に向ける。
夜の闇に包まれた庭には、蛍の光が見えた。
この屋敷は大きく立派だ。庭も広大で、塀も高い。
小雷たちもこの屋敷で暮らすようになって、何年も経つ。
「あんたたちはあのままなら、月さんは蒼龍様を好きになったって思うのかもしれないけど。
それと、気持ちを受け入れられるか、一緒にいられるかは別だと思うわ」
「…放っておいたら、月さんは逃げちゃったって?」
「その可能性も充分あったってことよ。
生きる世界が違いすぎたの。
その上男同士で、簡単に受け入れられるような人はそうそういないわ」
だからこそ、失う可能性も等しくあった。
だから蒼龍は踏み外した、と飛蘭は言う。
「……私にはやっぱりわかんない」
小雷は眉根を寄せ、飛蘭に背を向ける。
「大事な相手を傷つけてまで自分の気持ちを優先させるのは、汚いよ。
私はそういうのはいやだ」
小雷はきつい眼差しで飛蘭を見つめ、そのまま歩いて行った。
小雷は廊下に立ったまま、その姿を見送り、小さく息を吐く。
確かに小雷の言っていることは正しい。けれど綺麗事でもある。
「…あんたも、いつまでそんなこと言ってられるかしらね…」
小さな声で呟くと、小雷が歩いて行ったのとは別の方向に向かって、足を踏み出した。
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