ショートショートの詰め合わせ

空条浩

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【1話完結】青空心中

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「僕はね、とにかくもう我慢ならないんだ。明日退職願を突き出してやるのさ。あの忌々しい上司に。どんな顔をするかね」

 二つのショートグラスにスカイダイビングが注がれて前に置かれたころには、田畑はどっぷりと酔いに浸かっていた。空を閉じ込めた三角の欠片に吸い込まれるように手を伸ばし、澄んだ青色に口をつけて置く。その様子を志摩はグラスに口をつけずに見守っていた。カウンター席に二人は座っているが、バーテンダーは拭いているグラスに視線を落とし、彼らをみることもない。気を利かせているのか、あるいは酔っ払いなどに興味がないのだ。

「やっとなんだ。やっと一人で生きられるかもしれないところまで来たんだ」

 田畑はそこで言葉を切り、もったいぶったように咳払いを一つした。

「自分の求めているものが分かったんだよ」
「ああ、聞いている限りそうみたいだな」
「僕が求めているのはだね」

 息まいて熱弁を振るおうにも、呂律が回るか心配な様子。志摩は田畑の次の言葉をじっと待っている。というよりも、志摩は酔えば酔うほど寡黙になるたちであった。田畑はかろうじてはっきりとした口調で言った。

「朝に大方の仕事を終わらせる。そして煎っておいたコーヒー豆なんかを挽いてだな、昼下がりにそれを淹れる。片手には一冊の本が開いてあって、それをゆっくりと読む。ただこれだけなんだよ」

 腕を組みながら志摩は頷く。うたた寝をしそうな頷きは老けて見えて、田畑と同じ三〇歳には見えなかった。相手が一通り話し終わったと分かると、志摩はそのままの姿勢で口を開いた。

「わかるさ。優雅で、一枚の絵葉書のようだ」
「なんだって? 絵空事だっていうのか?」

 田畑はよく聞こえないとばかりに、腰をひねって上半身をぐっと志摩へ近づける。酒が回ると身振りが大げさになるというのは多くのサラリーマンに見られる傾向で、二人もまたその例外ではなかった。

「いや、そんなことは言っていない」

 志摩がうっとうしそうに押しのけると、田畑は上体をもとに戻した。それを確認してから、志摩は呆れたと言わんばかりに口を開く。

「だが、そのために日曜日があるんだぜ」
「君は何もわかっちゃいない」
「まあ待てよ」

 志摩は田畑を制して続ける。

「お前は人一倍頭のいい人間にも関わらず、あらゆることに不器用なのさ」
「頭の良さは、君に劣るがね」
「よせよ、それは謙遜とは言わない」

 友人の皮肉ともとれる物言いに、志摩は苛立ちを覚える。田畑が読書家で博識であることを、よく知っていたからだ。苛立ちを露わにする代わりに志摩はカクテルをグラスの半分ほど飲み、それを丁寧に置いた。

「気づいた方がいい」

 静かに鼻で息を吐きながら、椅子の背にもたれる。田畑はその一連の所作を、慎重に観察していた。

「なんのことだい」
「お前が求めているのは、結果だ。起業するとか言う割に、自分がこれから何をしでかして一山儲けようかということには、目もくれちゃいない」
「そんなことはない」
「いいや、あるね」

 志摩の反論に田畑は感情的になるというよりも、むしろ慎重さを増していた。少し飲んで、その後グラスを見つめながら、半ば自分の思考をなぞるように低く呟く。

「今やっているビジネスについては言えないんだ、とにかく……。ちゃんと成功したらわかるよ。もうすぐなんだ。もうすぐ一人で生きていける金額を稼ぐことができるんだ」
「じゃあ、いつその成功とやらは来るんだ?」
「それは、わからない。でも、絶対に成功するはずなんだ」

 田畑はグラスの中身を一気に呷った。志摩はため息をつく。それから考え込むように額に右手を当てて、口を開いた。

「なあ、退職願を出すのはもう少し待って、人事部に来ないか。行きたがっていたじゃないか」
「お気遣い、どうも」

 親切から出ている言葉に対して言うには、そっけない返事だった。田畑はグラスの底にたまった青い雫を眺めながら言う。

「もういいんだ。人事だとか、会社だとか。自分のことで手一杯なのさ」

 グラスを拭いていたバーテンダーが、時計と田畑の顔を見比べて、志摩の方を向く。眉が下がっていて、いかにも困っている様子だった。

「そろそろラストオーダーのお時間ですが」
「いや、悪かった。田畑、そろそろ出よう」

 志摩は田畑が財布を出すのを押しのけて、二人分の会計を済ませてバーを出た。

 春といえども、外は冬の名残を含んでいて耐え難い。コートを羽織っている二人は似たようにそれぞれポケットに手を突っ込み、体を縮こめて歩いていた。

「幸先がいいことを祈るよ」
「ありがとう」

 歩道に止まっている一台のタクシーが二人の目に留まる。田畑は志摩が先を行くように足を止めたが、志摩に促され、渋々といった様子でタクシーに向かう。志摩は友人の背中に言う。

「なあ」
「なんだい」

 酔いがさめてきたのか、振り返った田畑の顔色はいくらかよかった。

「俺たちは、ただの会社の同僚じゃない。辞めたとしても、また会えるね?」
「連絡をしてくれればいいだろう」

 そう言うと、田畑は止まっていたタクシーに乗りこみ、左腕だけを出して振った。ドアが閉まり、タクシーが去っていくのを、ぼんやりと志摩は眺めていた。立ち尽くしながら、志摩は田畑から教えてもらったことわざを思い出す。

 ――去りゆくことは死にゆくことにも似たり。

 できれば、ワインを飲みすぎた呂律の回らない酔っ払いが思いついた、悪い冗談であってほしいと、志摩は願った。
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