孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

二十九

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 李大龍が少女の首の揺りかごたる箱をそっと静かに置いた気配がしましたが、自己憐憫に浸りきっていたわたしは、顔を上げて箱を──或いは李大龍を見ようと言う気にはなれませんでした。
 ところがそのとき李大龍のしなやかな指がわたしの足の踵をそっと掴んだので、わたしはすっかり仰天して息を呑み、危うく失神しかけました。わたしの黒く汚れた足をゆっくりと自分の膝に乗せた李大龍は、青い視線を落としながら、水のしずくが跳ねるようなアクセントの日本語で、こんなことを言うのでした。
「ずっと昔の中国では、女の子はきみよりもっと幼いうちに、まだ小さな足にきつく布を巻きつけて、大きくならないようにしていたのだよ。自由に立ち歩くことすらままならない痛みに閉じ込められながら、それでも彼女たちは誰しも皆、いつか夫となる人のため、苦しみを堪えていたのだよ。あの頃は女性の足というものは、結婚する相手にしか見せないものだったからね」
 瞬間、激しい火の粉を飛ばしながら燃え上がった炎のために、わたしの頭の芯は焼き切れてしまったようになりました。全身がびりびりと痺れ、荒々しく鼓動する心臓は今にも胸郭を破って飛び出しそうでした。汚れのこびりついた足の裏に感じる李大龍の衣服越しのあたたかな肌の温もりがわたしを陸に上がった魚に変え、うまく呼吸をすることもできませんでした。窒息しそうな苦しさの中、わたしの足は見てはっきりとわかるほどに震え出していました。李大龍はそのわたしの汚れた足先をしなやかな指の腹でこすって黒い土を拭い落とし始めました。
 李大龍の指先の感触が足の先から背筋を這い上がって全身に広がる衝撃で、わたしは雷に打たれたように我に返ると、勢いよく足を引っ込めました。一生分の心拍をこの一瞬のうちに打ってしまうかと思うほどの狂乱ぶりで打ち鳴らされる心臓の音が彼にまで聞こえたものかどうか、李大龍はふと顔を上げてわたしを見ると、ゆっくりと唇を動かして、何とも言われぬ美しい微笑を見せました。その笑みにわたしの羞恥心は痛みを感じるほどに刺激され、もはやこのままでは必ず死んでしまうだろうと思いました。
 そのとき李大龍の青い瞳がわたしの目の奥をまっすぐに覗き込んでとらえたので、いよいよ強く掴まれた心臓が断末魔の叫びをわたしの唇にのぼらせようとしましたが、しかしそれより早く、彼の冴え渡る寒月にも似た双眸そうぼうに、一瞬また青い光がぽうっと灯るのが見えたように思った途端、突然正気付いた人のように、驚きと冷静さが俄かに立ち湧いて、内心の烈火がたちどころに鎮められていくようでした。その月光のような光をもっとよく見たいという本能的な欲求が、わたしの目を彼の瞳に強く惹きつけました。
 けれども李大龍の瞳の光はすぐに彼の眼の奥底へと静かに吸い込まれるように消え、代わりに彼の右手が、まるでスローモーションのようにわたしに向かって伸びて来るのが見えました。そのしなやかな白い指先に目を遣ったわたしは、そこに彼が先ほど自身で嚙み切った、その傷跡すらも残っていないことに気がつきました。それが不意に先ほど蔵の中で仰ぎ見た龍の姿を思い出させ、その強く鮮烈な印象にとらわれて彼の指をじっと見つめていたわたしは、頬で乾ききらずに痕をつけていた涙の一滴を李大龍の指先がそっと拭った感覚で俄かに夢から醒めたような心持ちになると、突如として激しい心臓の拍動に襲われて、思わず荒い息を吐きました。
 李大龍はじっとわたしに真っすぐな視線を当てながら、
「……お嬢さん、きみはとても良い眼睛イェンヂィンを持って生まれついたのだね。その代わりに、少しばかり身体シェンティが弱くなってしまったようだ」
「イェン……? シェン……?」
 どきどきと激しく鼓動する心臓を押さえながらも、聞き慣れない言葉に思わず首を傾げて聞き返そうとするわたしに、李大龍は青い目を細くして微笑みました。
「よく効くおまじないをしてあげよう。元気になるおまじないをね」
 李大龍はわずかに目を伏せ、何か低い声で短い呪文のようなものを囁きながら、右の手のひらでわたしの両目をそっと覆いました。思わず導かれるように目を閉じると、何かあたたかい光のようなものが、その瞼の向こうにひらめくのを感じました。
 李大龍は続けざまに再び何か短い言葉を囁いて、今度はわたしの頭にやさしく左の手のひらを乗せました。するとまるで体がふんわりと宙に浮いたように軽くなり、全身には嘘のように健やかな力強さがみなぎっていくのを感じました。


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