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序章
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しおりを挟む――雪の上を裸足で歩くなんていつぶりだろう。
幼い頃から艶やかで硬くくたびれることのない靴ばかり履いていた。十四になる頃にはベッドの上以外ヒールのついた靴しか履けなくて、いつかこんな綺麗なだけの足枷を脱ぎ去って、子供の頃のように裸足で外を走り回ってみたいと考えていた。
それが春ならまだ蕾の小さな野花の合間をそっと。
それが夏なら雨上がりの蒸し暑さを蹴散らすように大胆に。
それが秋なら乾いた枯葉を音を立ててかき乱しながら。
それが冬なら。
ハッ、と乾いた笑みが零れる。ひび割れた唇はもう血がかさぶたになったのだろう、痛みはない。
それが冬ならば、街道の中央を憲兵に連れられ、聞き分けのない野犬が引きずられるように足の裏を擦って歩くのだ。
アーグインの一等地たる小高い丘に建つ屋敷を出てもう数十分になる。足の冷たさなどもう感じない。数日間もほとんど地下室に軟禁状態で最低限の水しか飲まず、外へ出てその場に降り積もる雪に這いつくばらなかったのは、私自身驚くべきことにアーグイン王より爵位を戴くグスコーブ家の娘としての誇りがあったのか――それともただ、這いつくばるために膝を折るという行動すらただ億劫だったのか。
私は私を連れてゆこうとするこの憲兵の――ひどく分厚い、暖かそうな毛皮のついた襟付きのコートを着た彼らの――行く先は分かっている。
列の到着を待ちかねた左右の沿道には、グスコーブ伯爵の愛娘であるシンシア・グスコープ――新雪のような白い肌に、幼い頃の病気で色素の抜けた透き通るような銀髪をもつ美しく心優しい娘――をかどわかそうとした悪姫がどう見えていることだろう。
グスコープ伯爵のもう一人の娘、馬車が行き交い泥と混じって濡れて汚れた雪道を獣のように裸足で行くエルリア・グスコープ。
腹違いの妹の美貌に嫉妬し、様々な冷遇を仕掛けついには資産と名誉に目がくらみ、実父さえ貶めようとした魔女。
聡明な妹とその若き恋人により今まさに処刑台へ送られようとしている罪人。
彼らの前では、ただ訳も分からず地下室へ押し込められた私が身に着けている普段通りのドレスさえ鼻持ちならないのだろう。長い裾にかくれたその両足が裸足だと知ったところで、投げつけてくる雪玉が減るはずもない。
麗しのシンシア・グスコープが受けた数々の仕打ちに我こそは一矢報いてやらんと息巻くものたちがそれでも雪崩のように襲い掛かってこないのは、もう目的地が近いからだ。
もう間もなく火刑に処される魔女を今ここで怒りのままに殴り飛ばし、意識でも奪おうものなら、正義の炎が鈍ってしまう。この女が感じるべき痛みが欠けてしまう。そんなことはあってはならない。
油のようにぎとついた視線の果てに、もうそれは見えている。
十字架を据え付けた処刑台。ともすれば聖なる教会を飾るにもふさわしいような純白の石造りにされたそれが最後に使われたのは、やはり魔女を裁くときだったと聞いている。戦争と戦略、疑心の時代。
目的地が見え、もう列の先頭が処刑台を囲うように円を描いて行進する。急に膝がそれまでと異なる風に震え始める。私は数日の軟禁でぼんやりしていた頭が、埃かぶったように重苦しく淀んでいた思考が冴えていくのを感じる。
恐怖。
昨日の夜も、今朝も、雪道を歩ている時でさえどこか非現実的だった現実が、気づかず足を踏み入れた底なし沼のように踏み出した足の裏を舐めた。
「い……いや」
まるで老婆のように掠れた声が自分の声だと気づくのに時間がかかった。「いや、」思わず後ずさりをするが、抵抗を感じ取った前の憲兵がすぐに振り返り、私の両手首につないだ縄を強く引き絞る。「何をしてる? 早く進め!」
「い、いやです、いや……どうして……」
思わず背後を振り返る。屋敷はもう見えない。家族の姿はない。
見知ったものが一人くらいいても不思議でないほどの群衆が集まっているのに、群衆の浮かべる顔の中に、知っている顔はない――あんな表情を浮かべる人間たちは知らない。
憲兵の数人が集まってきて、ただ粛々と私を処刑台へ押し上げていく。私は必死に踏みとどまろうとするが、雪で足が滑り、まるで胴上げされるような格好になる。
「いや!」ついに堰を切ったように私は叫んだ。「離して! 離しなさい!」
私が叫びだしたのを皮切りに、それまで静まり返ってこちらを睨みつけていた群衆も熱狂した罵声を投げつけてくる。早く引っ立てろ、引きずれ、殺せ、早く、早く、はやく!
「私は何もしていない!」
何もしていないし何故こうなったのかもわからない。
シンシアに乱暴を働いたこともない。彼女の母親と父親がひそかに愛し合っていたことだって、私が腹を立てることではない。私の母もそのことを、少なくとも私の前では恨んでいるそぶりは見せなかったし、事実、内心で恨んでいたのだとしても、亡くなるまでの数年間シンシアを我が子のように迎え入れた。
「どうして!」
数日前突然私室に押し寄せた憲兵。押し込められた地下室。
思えば――あの日からシンシアにも父親にも、誰にも会っていない。ただ日に数度巡回のため訪れた憲兵が罵り交じりに教えてくれたことだけが、まるで絵本で読む物語のようだった。私は今や勧善懲悪の“悪”だ。
「やめて!話を聞いて!」
両腕をひとまとめにされ、純白の十字架と寄り添い祈るように縛り付けられる。
おもむろに処刑台の前に歩み出た数名の聖職者が恐れるように私を見上げる。数日顔も洗っておらず、汚れた雪と泥にまみれた令嬢が狂乱する様に、彼はすっかり魔女の存在を信じている。
しかしそんなことよりも、私の眼は聖職者が携えるものに釘告げになる。
金属製の燭台に灯された火――火だ。
聖職者のうち一人が厳かに声を発した。
「エルリア・グスコープ、人の原罪を蘇らせし悪魔の下僕よ。汝の罪もまた原初の炎によって清められんことを」
悪魔。下僕。
炎?
「な――何を、言っているの……」
私の呟きを聞いたものはおらず、ただ粛々と聖職者が順番に言葉を続けていく。
「貴方たち! いったい何を言って」
「いと高きところにおわします我らが主よ、我らの手は御心のままに働き、御身の代わりに火をくべるでしょう」
「近づかないで! こっちに来ないで!」
「いと尊きところにおわします我らが主よ、我らの足は御心のままに進み、御身の代わりに茨を踏むでしょう」
「火を捨てなさい! やめて! 熱い!」
「いと遥かなるところにおわします我らが主よ、我らは御心に殉じます。ならば我らの列にかの者を加えたまえ。迷える子を列に並べ、我らの前にかの者を救いたまえ」
一人が跪き、手に持った燭台をそっと処刑台の下へ差し込む。
処刑台の階段の裏にあるその箇所へ大量の木材が積まれていることを私は知っていた。
「やめ、」
円を描いて処刑台を取り囲んでいた聖職者が次々に手に持った火をくべていく。
「い――」
つま先に激しい痛みが走る。焦げる痛みなど知らず、まるでつま先を掴んで左右に引き裂かれていくようなただただ激しい痛みが全身に走り。
その全身を炎が絡めとるように勢いを増す。痛みに浮いた涙が蒸発して眼球を茹でる。涙が消えると眼球が焼ける。瞼を閉じればまつげが溶けて皮膚に垂れる。水などないはずなのに全身がいやな油でぬめっているような気がする。
痛い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い熱い熱い痛い痛い痛い痛い痛い!
叫んでいるような気がする。蹲りたいのに縛られてそれもできない。
炎の巻き上がる音と動物の唸り声が交じり合った轟音が嵐のように私のすべてを飲み込んでいく。
(はやく殺して!)
――その瞬間だった。
パチン、と手をたたくような音が聞こえた。
振り回されるような感触。
そして全てが暗闇に放り落された。
長い長い落下の果て――背中から強い衝撃が脳天まで突き抜ける。
肩に感じた熱に反射的に跳ね起きる。絶叫した。
「……あああああッ!!!!」
壊れた機械のようにのたうち回る。炎。炎。火が――
――しかし私の体を受け止めたのはそのどれでもなかった。
「落ち着いて」
冷たい水のような声。
どれだけ求めても与えられなかったもの。それが直接喉に滑り込んできたような心地よさ。暴力的なまでの安心感が全身に染み渡る。
私は――“エルリア・グスコープは”、目を開ける。もはや彼女の全身は皮膚が焼けただれてもおらず、地面に落ちた果物のようにまろびでていた赤い肉も、白い脂肪もない。白金の髪はありのままの色で波うち、彼女自身を守るように細い肩にかかっている。
そしてその髪を梳き、肩を抱く者がいた。
応援ありがとうございます!
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