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01 二人の男
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自動再生に設定されていた部屋のスピーカーが切ないバラードを流し始めた時、ガベルは雷に打たれたように立ち上がって叫んだ。「曲を止めてくれ!」
ライラックは丁度スピーカーのそばのソファに座っていた。一時停止ボタンを押すには右腕を伸ばすだけで事足りる。
ガベルの暮らしているマンションは惚れ惚れするような2LDKだ。きっと彼の同級生の誰よりも立派な一室に暮らしているだろう。広いリビングの壁には埋め込み式の大型テレビと最高のスピーカーがあり、わざわざ混雑するデパート併設の映画館になど出向く必要はない。専用のバルコニーには人工芝が敷かれ、天気さえ良ければピクニックもできる。
しかし同級生の誰よりも広く豪華な部屋を契約しているガベルは、同時に同級生の誰よりも一番に不幸のどん底にいる。不幸の物差しは人それぞれだが、少なくとも我こそがという同級生が今ここに物差しを持って訪れたら、ガベルは躊躇いもなくそいつの物差しをへし折っただろう。
「ガベル、せめて何か食え」
華奢なダウンライトが部屋全体をあたたかいオレンジに照らしている。スピーカーから流れる雑味のない音楽が途切れると、不意に室内は重苦しさと手のつけられていない宅配デリの存在を思い出す。それらはリビング中央のガラスのテーブルに並べられて、手をつけられたのはきっかりLサイズのピザが半分とアイスティーだけだ。誰もがよく知るチェーン店とは異なる価格帯と素材のピザには生ハムや多種のチーズ、海鮮が8ピースに四種類盛り込まれている。それは今綺麗に一種類ずつ消え、一種類ずつ残っている。とうに炭酸の抜けたジンジャーエールと共に。
「ガベル、お前が頭を抱えて祈って何かが変わるならとっくに変わってる」ライラックは厚みのあるソファに座り直して言った。「だが少なくともお前が三ヶ月頭を抱えて祈ってもこうなったんだ、ならもう祈るな。ここから先は医者に任せろ」
「……もしかすると、神は三ヶ月と一日目までの振る舞いをご覧になっているのかもしれない」
「勘弁してくれ」
ライラックはソファの肘掛けを手のひらで叩き、反動で立ち上がった。パイル生地の清潔なカーペットの上を歩き、テーブルを挟んで向かいのソファに項垂れているガベルの前まで来ると、真正面からソファに両手をついて顔を近づける。
「なあガベル、そんな馬鹿な話を——」ライラックは言いかけて、首を振った。「仮にだぞ、もし本当に神が今日のお前の振る舞いを見ているとして。神はお前がそうやってしょぼくれているのをお望みなのか? お前が食事も喉を通らずにいるのを見て、友人の心配を無下にしていれば満足か? 世界中の人が信じたもう神様がそんな性悪なはずないだろう」
ライラックがテーブルの上へ腕を伸ばす。引き寄せたピザの小洒落た外装はまだ温かい。生ハムにバジルソースとフレッシュトマトが散りばめられた一切れを手に取り、ライラックはそれを俯いたままのガベルの左手に握らせた。
「神はお前が腹を満たすことをお望みだ」
「……食べる気がしない」
「それなら一口サイズに切ってティースプーンに乗せてやろうか?」
ガベルの髪と同じ暗いブラウンの瞳が蠢く。睨みつけるような動きでもライラックは気にしなかった。ただ久しぶりにそんな目をするガベルを懐かしく思い、そしてやはり悔しく思うだけだった。
「怒るなよ。お前がずっとライラにしてやったことだろ」
「食べるよ」
ガベルが緩慢な手つきでピザを受け取った。そしてま一口齧る。まるで小鳥が初めて餌を啄むような小さな一口だった。だがそれは今夜のライラックにとっては偉大な一口だった。
「神が性悪かどうかはさておき……君が性悪じゃないことは確かだ。そんな君にあんな意地の悪いことを言わせちゃ駄目だ」
「思い出してくれたか? そう俺は優しさに溢れた男だ」
「すまない、ライラック。迷惑ばかりかけて」
「友人の間に迷惑は存在しない。そこにあるのは心配だけだ」
「おかしな話だ。君がそんなに良い人だったなんて、同僚だった頃は知らなかった」
数日ぶりにガベルが微笑む。
「俺だってあのミスター・ガベルの家に宅配ピザのチラシがあるなんて知らなかったよ」
ライラックは尋問官のように突きつけていた自分の顔を引っ込めると、折り曲げていた背中を伸ばした。そしてこの部屋に駆けつけた時からかけていたサングラスのブリッジを押し上げる。特にずれていなかったが。
「それに、お前がもう一度俺と同僚になりたいなら復帰すればいい。誰も文句は言わない。お前の穴を埋めるために本部太鼓判のエリートが送り込まれたが、そんなエリートでもガベル・ソーンのデスクに座る度胸は無いらしい。お前が使ってたペン立ての位置一つ変わってない」
もし明日突然にガベルが漆黒の上着と背広に身を包んで事務所のドアをくぐったのなら、誰もがそれを受け入れるだろう。彼のデスクは私物以外の備品がそのままにされているし、彼が使っていた執務室のファイルの並びもそのまま。ガベルはすぐにまた首席弁護士として仕事を再開できる。
それは紛れもない真実だったが、ガベルはジョークとして受け取ったらしい(しかしライラックはそれでよかった、ガベルの強張っていた表情筋が動く理由になったからだ)。
「退職した弁護士の机一つ片付けられないような忙しい事務所にまた勤めようとは思えないな」
「そんなに今の仕事は楽しいのか?」
「顧客の要望や問い合わせに対して解決策や妥当性を説く。悪くない仕事だし、弁護士の頃とそう変わらない。でも俺がそう言ったところで誰も信じない。だからもうミーティングの時なんかはむすっとしていることにしたよ。そうしていると皆満足そうだからね」
「そりゃあな」
裁判官が判決と共に打ち鳴らす小槌。ガベル。その名を親から与えられたガベル・ソーンはロックウィルでも大手の法律事務所に勤め、二年目から既に首席弁護士の肩書を手にしていた。しばしば誤解されるが彼の両親はどちらも法律家ではなく、息子に法律家になれと希望したこともない。だが結果としてガベルは当然のように大学で法律を学び、そして留年もせず法科大学院まで突き進み、就職し、この六年間弁護士の彼に敗北を与えるものはついぞ現れなかった。
そしてそんな彼は今や日がな一日自室に引きこもって民間企業から外注されたカスタマーサクセスをして過ごしている。そこにストーリー性を求めない者はいないだろう。現にガベルが去った後の事務所でも、もっぱら話題が尽きれば弁護士も事務員もガベルの自己左遷についてあれこれと憶測を立てては崩して遊ぶ。
今もこうしてライラックがガベルと交流があると知れば、彼彼女らはライラックが昼休み一人で外へ食事に出ることも、定時きっかりに帰ることも許さなかっただろう。
「そりゃ誰も信じられんだろうさ、あのソーン先生が愛の為に無敗伝説に終止符を打ったなんて」
ガベルは新しくピザをもう一切れ手に取って咀嚼していた。後ろへ撫でつけられていない暗い色の髪は全体にゆるいウェーブを描いている。赤みのないブラウンの髪。
それは奇しくも、ガベルの最愛であるライラと同じ色だ。彼女もガベルと同じ赤みのないブラウンの髪をして、長く伸ばしている部分は柔らかくまっすぐなのに、耳周りの短い部分だけは綿毛のように癖がついている。ガベルはわざわざその短い部分を指ですくって撫でてやる。彼女が気持ちよさそうに目を細めれば、ガベルも同じ色の目を同じように細くする。鏡合わせのように。
そうして一つ一つ揃えていけば、いつか二人は鏡写しになった一つの存在になれるとでも言うように、二人は息を詰めて、夜毎その精密な作業を繰り返していた——昨夜までは。
ピザはまだ二切れ残っていたが、ガベルの手はもうそれ以上動かなかった。
「ライラは今どうしているかな」
ガベルの声は大きくはないがよく通る。溜息のような呟きに聞こえてもそれは質問だ。
ライラックは「さあな」と一度は素っ気なく返しながらも、最初に座っていたソファにもう一度腰を落ち着けるなり腕時計を確かめた。針は午後十一時を回ろうとしている。
「もう寝たんじゃないか?」
「だといいが」
「存外、枕を変えてみるとよく眠れることもある。彼女だって夜中に目を覚ますたびお前がすっ飛んでくるんじゃ落ち着いていびきもかけないだろ、先生、法律に義務、責任大いに結構だが、それ以前に好きな人の前で鼻息を鳴らしたくないっていう乙女心も察してやれ」
「理屈は分かってる」
「理屈じゃないって言ってるんだ」
「理屈じゃないなら理解を求めないでくれ」
今にも奥の寝室から車のキーと上着を引っ掴んで出かけそうなガベルの様子にライラックは注意した。彼が立ちあがろうものなら取っ組み合ってでも止めねばならなかった。
だが幸いにもガベルは立ち上がらなかった。
代わりにガベルはいかにも聡明な男がやるような頬杖をついてじっとライラックを見つめた。真っ直ぐに伸ばされた人差し指と中指がこめかみの位置を支えている。
「ありがとう、ライラック」
「なんだ急に」
「ライラのことを知られたのが、君でよかった」
「どういたしまして」ライラックは胸に手を当てて大袈裟にお辞儀をした。「こちらこそあのソーン先生とお近づきになれた幸運に感謝するよ。将来俺が何かトラブルを起こしたら五割引きで助けてくれ」
「喜んで助ける」
即答だった。ライラックは胸に手を当てたままガックリと項垂れた。
「言質は取らないでおく、先生。俺は優しいからな——さて、お互い明日も仕事だ。そろそろお暇するよ」
「家まで送ろう。どの辺りだったかな」
「そう言ってハニーの寝顔を見に行くつもりだろ、駄目だ。俺をついでにするな」
ライラックがこの部屋を訪れたのが午後八時過ぎのことだ。もう三時間もこの部屋で過ごしたことになる。それぞれにソファから立ち上がり、玄関の方へ向かう。
玄関横手のラックに吊り下げていた上着を手に取る。そのときライラックはシューズボックスの天板に額縁を添えて飾られた絵に気づいた。
「いい絵だな」
それは嘘だった。靴を履いている間手持ち無沙汰になった口からついて出ただけの社交辞令だった。
ガベルは「ああ」と気安い返事をした。「いつも散歩で通る公園でバザーが開かれていて、そこで買ったんだ。面白いだろ」
その絵はどうやら、まず紙に複数の絵の具で色をつけ、一度それを黒いクレヨンで塗りつぶしてから木片か何かで絵を描いたようだ。すると描いた部分だけ黒いクレヨンが削られ、下地に描かれた水彩色が現れる。
ガベルは面白いと言ったが、その画法も描かれているモデルも特段突飛なものではない。
乱雑に塗りつぶされた黒いクレヨンの中に淡い青のグラデーションで描き出されているのは、コミカルなタッチで描かれた黒服の男が路地裏から雑踏を睨みつけている図だ。どうやら睨んでいるのは花束を抱いて歩いているいかにも善良そうな男性のようだ。
ライラックは「ストーリー性があるな」と適当に言った。ガベルは微笑んで「そうだろう」と言った。
「じゃあな、先生」
「ああ、また」
「彼女はきっと良くなる」
ガベルはゆっくりと頷いた。そして格式高いホテルのドアマンのように玄関の扉を押し開ける。「ライラック、彼女が回復したら改めてお礼をさせてくれ」
ライラックは扉が完全に開き切る前にマンションの共用通路へ出ていた。そこはまだ外ではない。完全に管理された空調と二十四時間輝く照明。シックなグレーの濃淡で塗り分けられた床と壁。突き当たりにエレベータと非常用階段がある。
ライラックは後ろ手を振って、それきり振り返ることなく非常階段を使って一階まで下りて言った。エレベータを使うと、別階層にあったエレベータを呼び出す間じゅう、そしてエレベータに乗り込んでそのドアが閉じるまでガベルが見送ってくるからだ。もう一度手を振ったりはにかんだりしなければならないし、ガベルもそれを返してくるだろう。冷血だと信じられていた口元を緩ませて、どんな台風にも乱れるはずがないと信じられていたブラウンの髪を揺らしながら。
だからライラックは初めてこのマンションを訪れた時以来、帰りにエレベータを使わない。どれだけかったるくても非常階段で九階分下りていく。
そうしてじっくり時間をかけて階段を下りる時間は、ライラックの頭を冷やすにはぴったりだ。広いエントランスからオートロックの自動ドアをくぐって、さらにそこから小洒落たポーチへ出てようやく外の空気が全身を包む。
冷えたアスファルトと目の前の通りを行き交う車の奇抜なテールライトを眺めて数秒。
ライラックは深い達成感を覚えた。素晴らしい、今日もやり遂げた。ライラック・ゼアロ、お前の唯一誇るべき自制心は今日も健在であったと。
腕を伸ばせた抱き寄せられそうな距離にこれ以上なく自分を興奮させる男がいても、ライラックは耐えた。軽快な会話を保ち、よこしまな素ぶりを見せないよう自らを律した。
四時間も。
あの赤みのないブラウンの柔らかそうな毛先が目の前で揺れても、ライラックは自らの中で暴れる闘牛を殺し続けた。
モデルのように足を組んでソファに腰掛け、無防備なまでに物思いに耽る横顔を前にしても、ライラックは行儀良く手を膝に置いて静かにしていた。
「素晴らしいな……」
重苦しい疲弊と充実感を含んだライラックの呟きが夜の歩道へ転がった。
ライラックは丁度スピーカーのそばのソファに座っていた。一時停止ボタンを押すには右腕を伸ばすだけで事足りる。
ガベルの暮らしているマンションは惚れ惚れするような2LDKだ。きっと彼の同級生の誰よりも立派な一室に暮らしているだろう。広いリビングの壁には埋め込み式の大型テレビと最高のスピーカーがあり、わざわざ混雑するデパート併設の映画館になど出向く必要はない。専用のバルコニーには人工芝が敷かれ、天気さえ良ければピクニックもできる。
しかし同級生の誰よりも広く豪華な部屋を契約しているガベルは、同時に同級生の誰よりも一番に不幸のどん底にいる。不幸の物差しは人それぞれだが、少なくとも我こそがという同級生が今ここに物差しを持って訪れたら、ガベルは躊躇いもなくそいつの物差しをへし折っただろう。
「ガベル、せめて何か食え」
華奢なダウンライトが部屋全体をあたたかいオレンジに照らしている。スピーカーから流れる雑味のない音楽が途切れると、不意に室内は重苦しさと手のつけられていない宅配デリの存在を思い出す。それらはリビング中央のガラスのテーブルに並べられて、手をつけられたのはきっかりLサイズのピザが半分とアイスティーだけだ。誰もがよく知るチェーン店とは異なる価格帯と素材のピザには生ハムや多種のチーズ、海鮮が8ピースに四種類盛り込まれている。それは今綺麗に一種類ずつ消え、一種類ずつ残っている。とうに炭酸の抜けたジンジャーエールと共に。
「ガベル、お前が頭を抱えて祈って何かが変わるならとっくに変わってる」ライラックは厚みのあるソファに座り直して言った。「だが少なくともお前が三ヶ月頭を抱えて祈ってもこうなったんだ、ならもう祈るな。ここから先は医者に任せろ」
「……もしかすると、神は三ヶ月と一日目までの振る舞いをご覧になっているのかもしれない」
「勘弁してくれ」
ライラックはソファの肘掛けを手のひらで叩き、反動で立ち上がった。パイル生地の清潔なカーペットの上を歩き、テーブルを挟んで向かいのソファに項垂れているガベルの前まで来ると、真正面からソファに両手をついて顔を近づける。
「なあガベル、そんな馬鹿な話を——」ライラックは言いかけて、首を振った。「仮にだぞ、もし本当に神が今日のお前の振る舞いを見ているとして。神はお前がそうやってしょぼくれているのをお望みなのか? お前が食事も喉を通らずにいるのを見て、友人の心配を無下にしていれば満足か? 世界中の人が信じたもう神様がそんな性悪なはずないだろう」
ライラックがテーブルの上へ腕を伸ばす。引き寄せたピザの小洒落た外装はまだ温かい。生ハムにバジルソースとフレッシュトマトが散りばめられた一切れを手に取り、ライラックはそれを俯いたままのガベルの左手に握らせた。
「神はお前が腹を満たすことをお望みだ」
「……食べる気がしない」
「それなら一口サイズに切ってティースプーンに乗せてやろうか?」
ガベルの髪と同じ暗いブラウンの瞳が蠢く。睨みつけるような動きでもライラックは気にしなかった。ただ久しぶりにそんな目をするガベルを懐かしく思い、そしてやはり悔しく思うだけだった。
「怒るなよ。お前がずっとライラにしてやったことだろ」
「食べるよ」
ガベルが緩慢な手つきでピザを受け取った。そしてま一口齧る。まるで小鳥が初めて餌を啄むような小さな一口だった。だがそれは今夜のライラックにとっては偉大な一口だった。
「神が性悪かどうかはさておき……君が性悪じゃないことは確かだ。そんな君にあんな意地の悪いことを言わせちゃ駄目だ」
「思い出してくれたか? そう俺は優しさに溢れた男だ」
「すまない、ライラック。迷惑ばかりかけて」
「友人の間に迷惑は存在しない。そこにあるのは心配だけだ」
「おかしな話だ。君がそんなに良い人だったなんて、同僚だった頃は知らなかった」
数日ぶりにガベルが微笑む。
「俺だってあのミスター・ガベルの家に宅配ピザのチラシがあるなんて知らなかったよ」
ライラックは尋問官のように突きつけていた自分の顔を引っ込めると、折り曲げていた背中を伸ばした。そしてこの部屋に駆けつけた時からかけていたサングラスのブリッジを押し上げる。特にずれていなかったが。
「それに、お前がもう一度俺と同僚になりたいなら復帰すればいい。誰も文句は言わない。お前の穴を埋めるために本部太鼓判のエリートが送り込まれたが、そんなエリートでもガベル・ソーンのデスクに座る度胸は無いらしい。お前が使ってたペン立ての位置一つ変わってない」
もし明日突然にガベルが漆黒の上着と背広に身を包んで事務所のドアをくぐったのなら、誰もがそれを受け入れるだろう。彼のデスクは私物以外の備品がそのままにされているし、彼が使っていた執務室のファイルの並びもそのまま。ガベルはすぐにまた首席弁護士として仕事を再開できる。
それは紛れもない真実だったが、ガベルはジョークとして受け取ったらしい(しかしライラックはそれでよかった、ガベルの強張っていた表情筋が動く理由になったからだ)。
「退職した弁護士の机一つ片付けられないような忙しい事務所にまた勤めようとは思えないな」
「そんなに今の仕事は楽しいのか?」
「顧客の要望や問い合わせに対して解決策や妥当性を説く。悪くない仕事だし、弁護士の頃とそう変わらない。でも俺がそう言ったところで誰も信じない。だからもうミーティングの時なんかはむすっとしていることにしたよ。そうしていると皆満足そうだからね」
「そりゃあな」
裁判官が判決と共に打ち鳴らす小槌。ガベル。その名を親から与えられたガベル・ソーンはロックウィルでも大手の法律事務所に勤め、二年目から既に首席弁護士の肩書を手にしていた。しばしば誤解されるが彼の両親はどちらも法律家ではなく、息子に法律家になれと希望したこともない。だが結果としてガベルは当然のように大学で法律を学び、そして留年もせず法科大学院まで突き進み、就職し、この六年間弁護士の彼に敗北を与えるものはついぞ現れなかった。
そしてそんな彼は今や日がな一日自室に引きこもって民間企業から外注されたカスタマーサクセスをして過ごしている。そこにストーリー性を求めない者はいないだろう。現にガベルが去った後の事務所でも、もっぱら話題が尽きれば弁護士も事務員もガベルの自己左遷についてあれこれと憶測を立てては崩して遊ぶ。
今もこうしてライラックがガベルと交流があると知れば、彼彼女らはライラックが昼休み一人で外へ食事に出ることも、定時きっかりに帰ることも許さなかっただろう。
「そりゃ誰も信じられんだろうさ、あのソーン先生が愛の為に無敗伝説に終止符を打ったなんて」
ガベルは新しくピザをもう一切れ手に取って咀嚼していた。後ろへ撫でつけられていない暗い色の髪は全体にゆるいウェーブを描いている。赤みのないブラウンの髪。
それは奇しくも、ガベルの最愛であるライラと同じ色だ。彼女もガベルと同じ赤みのないブラウンの髪をして、長く伸ばしている部分は柔らかくまっすぐなのに、耳周りの短い部分だけは綿毛のように癖がついている。ガベルはわざわざその短い部分を指ですくって撫でてやる。彼女が気持ちよさそうに目を細めれば、ガベルも同じ色の目を同じように細くする。鏡合わせのように。
そうして一つ一つ揃えていけば、いつか二人は鏡写しになった一つの存在になれるとでも言うように、二人は息を詰めて、夜毎その精密な作業を繰り返していた——昨夜までは。
ピザはまだ二切れ残っていたが、ガベルの手はもうそれ以上動かなかった。
「ライラは今どうしているかな」
ガベルの声は大きくはないがよく通る。溜息のような呟きに聞こえてもそれは質問だ。
ライラックは「さあな」と一度は素っ気なく返しながらも、最初に座っていたソファにもう一度腰を落ち着けるなり腕時計を確かめた。針は午後十一時を回ろうとしている。
「もう寝たんじゃないか?」
「だといいが」
「存外、枕を変えてみるとよく眠れることもある。彼女だって夜中に目を覚ますたびお前がすっ飛んでくるんじゃ落ち着いていびきもかけないだろ、先生、法律に義務、責任大いに結構だが、それ以前に好きな人の前で鼻息を鳴らしたくないっていう乙女心も察してやれ」
「理屈は分かってる」
「理屈じゃないって言ってるんだ」
「理屈じゃないなら理解を求めないでくれ」
今にも奥の寝室から車のキーと上着を引っ掴んで出かけそうなガベルの様子にライラックは注意した。彼が立ちあがろうものなら取っ組み合ってでも止めねばならなかった。
だが幸いにもガベルは立ち上がらなかった。
代わりにガベルはいかにも聡明な男がやるような頬杖をついてじっとライラックを見つめた。真っ直ぐに伸ばされた人差し指と中指がこめかみの位置を支えている。
「ありがとう、ライラック」
「なんだ急に」
「ライラのことを知られたのが、君でよかった」
「どういたしまして」ライラックは胸に手を当てて大袈裟にお辞儀をした。「こちらこそあのソーン先生とお近づきになれた幸運に感謝するよ。将来俺が何かトラブルを起こしたら五割引きで助けてくれ」
「喜んで助ける」
即答だった。ライラックは胸に手を当てたままガックリと項垂れた。
「言質は取らないでおく、先生。俺は優しいからな——さて、お互い明日も仕事だ。そろそろお暇するよ」
「家まで送ろう。どの辺りだったかな」
「そう言ってハニーの寝顔を見に行くつもりだろ、駄目だ。俺をついでにするな」
ライラックがこの部屋を訪れたのが午後八時過ぎのことだ。もう三時間もこの部屋で過ごしたことになる。それぞれにソファから立ち上がり、玄関の方へ向かう。
玄関横手のラックに吊り下げていた上着を手に取る。そのときライラックはシューズボックスの天板に額縁を添えて飾られた絵に気づいた。
「いい絵だな」
それは嘘だった。靴を履いている間手持ち無沙汰になった口からついて出ただけの社交辞令だった。
ガベルは「ああ」と気安い返事をした。「いつも散歩で通る公園でバザーが開かれていて、そこで買ったんだ。面白いだろ」
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ガベルは面白いと言ったが、その画法も描かれているモデルも特段突飛なものではない。
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ライラックは「ストーリー性があるな」と適当に言った。ガベルは微笑んで「そうだろう」と言った。
「じゃあな、先生」
「ああ、また」
「彼女はきっと良くなる」
ガベルはゆっくりと頷いた。そして格式高いホテルのドアマンのように玄関の扉を押し開ける。「ライラック、彼女が回復したら改めてお礼をさせてくれ」
ライラックは扉が完全に開き切る前にマンションの共用通路へ出ていた。そこはまだ外ではない。完全に管理された空調と二十四時間輝く照明。シックなグレーの濃淡で塗り分けられた床と壁。突き当たりにエレベータと非常用階段がある。
ライラックは後ろ手を振って、それきり振り返ることなく非常階段を使って一階まで下りて言った。エレベータを使うと、別階層にあったエレベータを呼び出す間じゅう、そしてエレベータに乗り込んでそのドアが閉じるまでガベルが見送ってくるからだ。もう一度手を振ったりはにかんだりしなければならないし、ガベルもそれを返してくるだろう。冷血だと信じられていた口元を緩ませて、どんな台風にも乱れるはずがないと信じられていたブラウンの髪を揺らしながら。
だからライラックは初めてこのマンションを訪れた時以来、帰りにエレベータを使わない。どれだけかったるくても非常階段で九階分下りていく。
そうしてじっくり時間をかけて階段を下りる時間は、ライラックの頭を冷やすにはぴったりだ。広いエントランスからオートロックの自動ドアをくぐって、さらにそこから小洒落たポーチへ出てようやく外の空気が全身を包む。
冷えたアスファルトと目の前の通りを行き交う車の奇抜なテールライトを眺めて数秒。
ライラックは深い達成感を覚えた。素晴らしい、今日もやり遂げた。ライラック・ゼアロ、お前の唯一誇るべき自制心は今日も健在であったと。
腕を伸ばせた抱き寄せられそうな距離にこれ以上なく自分を興奮させる男がいても、ライラックは耐えた。軽快な会話を保ち、よこしまな素ぶりを見せないよう自らを律した。
四時間も。
あの赤みのないブラウンの柔らかそうな毛先が目の前で揺れても、ライラックは自らの中で暴れる闘牛を殺し続けた。
モデルのように足を組んでソファに腰掛け、無防備なまでに物思いに耽る横顔を前にしても、ライラックは行儀良く手を膝に置いて静かにしていた。
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