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冥界へようこそ
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一瞬、頭の中を掻き回されるような不快感。ぐわんぐわんと脳が揺れ、意識がわずかに飛んだような気がして、次に目を開いた時には、先ほどまでの光景はどこかへ消えてなくなっていた。
「平気か?冥界の空気は現世とやや違っておる。慣れるまで気分が優れぬやもしれぬが……。」
寝不足の時に車酔いして最悪の時と似ている、眩暈と吐き気にぐったりしながら、くらくらする頭をヨミの肩に擦り付けると、彼が心配そうに眉をひそめて覗き込んだ。
「うぅ……こ、ここは……?」
「冥綰殿(めいわんでん)だ。余の執務をする場だが、こうして儀式を行う場でもある。」
周囲に目をやると、どうやら恵菜はだだっ広い部屋の真ん中にいるようだった。真っ白に塗り固めた漆喰の壁に、消炭色をした板張りの床。見渡す限り白と黒の二色しかない、非常に簡素な部屋。その黒い床の中央に、魔法陣のような、複雑なかたちの組み合わさった妙な模様が、白い顔料で緻密に描かれている。それを囲むように、四隅には水で満たされた重たそうな水瓶が鎮座していた。なんだか、映画で見るような呪術だかまじないだかの儀式のようだ。
「せっかく冥界へやってきたのだ、景色の美しいところやら何やら、連れて見せてやりたいが……少し疲れたろう、今日はゆっくり休むといい」
「ん……平気、です。ありがとう」
少しの間彼に身を任せていると、段々体が楽になってきた。意識が鮮明になってくると、今のこの状況が急に小っ恥ずかしくなってくる。真横に信じられないくらいに整ったつくりの顔があるのが落ち着かず、恵菜はろれつが回り切らない舌でもう大丈夫ですと慌てて言い募って彼から離れた。遠慮気味に押し返された体に、ヨミは心配そうな少し名残惜しげな顔をした後、恵菜に再び手を伸ばしかけて、また引っ込めた。しばらくその手のひらは所在なさげに宙に浮いていた。
「あの……外、見てもいいですか?」
「あぁ、構わぬ。手すりが低いので気をつけよ」
部屋の一面からは、すだれ越しにやわらかな陽が差し込んでいた。そこから外が見えそうだ。恵菜がおぼつかない足取りで歩み寄りすだれを手でのけると、その向こうに不可思議な光景が広がっていた。恵菜はめまいも吹っ飛んだような心地で、前のめりで手すりに手をつき見入った。
この部屋は高台にあるようで、頭上から見渡すとたくさんの家々が遥か遠くまで広がっているのが見える。えらく整備された街並みだった、まるで碁盤の目のように細かく走る道に、規則正しく配置された家々。なんだか歴史の教科書で見た平安京のような作りだ。冥界は彩度の高い色を嫌うのか分からないが、黒い瓦屋根に白い壁をもった建物だけがずらりと並んでおり、そのさまは壮観だった。
上を見やれば、空を薄く覆う雲がまるでヴェールのように広がり、それを透かしたように頭上から光が降り注いでいる。まぶたを灼くような強烈な光ではない、天からの光と言われたら納得してしまうような、穏やかであたたかい光だった。オーロラのように光がうねりあたりを照らしており、明らかに恵菜が生まれてから見てきた"太陽"とは違う類の光だった。
「……天国?」
明らかに人の世ではない。説明するとなると言葉が見つからず、なんとも形容しがたいものがあるが、直感で分かる。恵菜が住んでいた世界とは全く違う場所へ来てしまったことが。
まるで白昼夢でも見ているかのようにぼんやり外を眺める彼女を見つめ、ヨミはくすりと笑うとそっと隣に寄り添う。支えるように腰を抱き寄せて、手すりにかかった手のひらにその大きな手を重ねた。
「どうだろうな、余のおさめるこの世界に、天国や地獄の概念は存在せぬ。ただ人の世から解放された魂を引き受け、沙汰を決め、時が来ればまた人の世に送り返すのみ……。エナ、あれが見えるか?」
彼が手を伸ばした方向に目を向けると、海かと見まごうほどに広い川が見えた。川の底も空気も無色透明なのか、光の加減できらきらと反射し、その都度川は水の色を変えている。そこに人を乗せた簡素な船が揺れていて、前後には船頭らしき者が櫂を持ちゆったりと水を漕いでいた。船着場には船から降りたらしきたくさんの人々と、この世界の役人だろうか、点呼をとっている様子の者が数人立っている。
「向こうの世からあぁして死人が送られる、これをこちらの岸で引き受け、間違いがないか名鑑と照らし合わせるのだ」
「へぇ……三途の川なのかなあれ……」
「……?人の世ではそう呼ばれているのか、こちらでは藍転河(らんてんこう)と呼ぶ」
ヨミはそれからもしばらく、外を見つめながらこの世界のことを教えてくれた。川の遥か向こう、霧がけぶるように霞んで見える山々はかつて冥王を助ける仙人たちが住まう場所だったとか、他にも、それは嬉しそうな笑みを浮かべて。
一通り話し終えたあたりで、恵菜がうとうとし始めたのを見て、彼は困ったように彼女を抱き上げると、気遣わげな視線を落として言う。
「すまぬ、しゃべり過ぎた。疲れたであろう、部屋で休ませよう。薫瑛(しゅんえん)、部屋の用意は整っているか」
「はい、大王様」
気づけば背後に、品の良さそうな少年が控えていた。13、14歳くらいに見える彼は艶のある黒地の服に身を包んでいて、どこぞの裕福な家の男の子のように見えた。だが少年の割に妙な威圧感があるというか、まったく隙がない。穏やかで完璧な笑みを絶やさずそこに佇んでいた。
「エナ、彼は薫瑛といってな。離れにある、余の暮らす屋敷の管理をしてくれておる。そなたの身の回りの世話も頼むつもりだ、何かあれば何でも言付けるがよい」
慣れない場所へやってきたからなのか、妙に体が疲れる。頭もぼんやりしてきて、ヨミの心地よい低音を聴くうちに恵菜はいつの間にか眠りについてしまった。
「余が部屋まで運ぼう。」
「……ずいぶんご執心でございますね。ひとときも王妃様を離したくないようにお見受けいたします」
「あぁ。エナは……このおなごは、進んで余のもとへ嫁いでくれた。嫌がるそぶりも見せぬ」
「……!まことでございますか」
どこか冷めて見えた薫瑛の瞳に、ぎらついた光が宿る。眠る恵菜に甘く蕩けるような、愛おしそうな視線を落とす主人を前にして、彼は唇を笑みの形に歪めた。
「お祝い申し上げます、大王さま。ようやくあなた様の求める奥方を手にされたこと、大変嬉しく思います。それでは気の変わらぬうちに魂の契約を……」
「いや、魂を貰い受けるのは婚礼の式をあげた後だ。3日後に式を執り行う、そちらの支度も頼む」
薫瑛が訝し気に目をすがめ、やや不満そうに尋ねた。彼が感情を隠しもしないのは珍しいことだった。
「いいえ、急ぐべきです、後からここに永住することを拒否されたらどうされるおつもりですか。赤包を受け取ったとはいってもそれはただの婚姻の口約束に近い、正式なものではありません。一刻も早く魂の契約を結び、王妃様の魂を冥界にとどめおくべきです」
「だが、その前に契約を結んだのだ。それを果たさぬままに魂を貰い受けることはできぬ」
「契約?何でございますか。仮にも冥王が軽々しく契約を結ぶなど……」
ヨミはぐっと黙り込み、静かに息を吐くと、ゆっくり口火を切る。重々しい沈黙を彼の声が破った。
「……うぇでぃんぐどれす、とやらを着たいのだとか」
「……は?」
「白の、何やら面妖な……裾の広がった着物を着て式に臨みたいのだそうだ。それさえ叶えば生涯余のそばで余を愛してくれよう。薫瑛、後生だ、頼む。それを作ってやってはくれぬか。愛するおなごの一生の願いを叶えてやりたいのだ」
薫瑛は珍妙なものでも見るような冷めた視線を主人に注いだ。まず死後の世界の王が後生だとかいう言葉を使ったのは彼にしては珍しく洒落をきかせたつもりなのだろうか、いや、そんなことはどうでもいい。現世に送り出してからたった数時間、冥界を統べる王をこんなにも骨抜きにした女とは一体何者なのか。まずそのウェディングドレスとは何か。死してこの世界に定住してから1000年ほど経つ薫瑛は、最近の流行りには疎かった。
愛しい女性を抱き抱えたまま、熱い視線を注いでいる主人を心底気味が悪そうに見つめた後、棘を含んだ口調で言う。
「大王様は律儀でいらっしゃいますね。……まぁ、そのよく分からない着物とやらは構いません。それで気が済むとあらば、冥界中の絹でもなんでも取り寄せて見事なものを作らせましょう。……ですが、式は契約の後でもよいのでは?」
薫瑛はなおも食い下がった。酷薄な表情を浮かべ、その目には冷たさが滲む。彼は無邪気にも、物騒極まりない言葉を淀みなく紡いでいく。
「これを逃してはなりませぬ。身ひとつで冥界に連れられ、恐怖から癇癪を起こすこともなくすやすやと眠っておられるおなごなど初めてなのですから……。あぁ、こういたしましょう、もといた家や家族が恋しくなる前に、意識を混濁させて、何も分からないうちに契約を済ませてしまいましょう。強い薬と魂魄支配の術式を混ぜ合わせれば、大王様なら容易にできるはず。うまくいけば永遠に大王様を愛する傀儡とすることも……」
「薫瑛」
流暢に続けられる言葉を、ヨミはぴしゃりと遮った。地を這うような低音が腹の底にずしりと響く。
「エナが進んで余を愛さなければ意味がない。偽りの愛などいらぬのだ。傀儡だと?余を気にかけての言葉なのは重々承知だが……。こればかりは看過できぬ、口を慎め」
「……申し訳ございません」
冥王の機嫌を損ねたのは明白だった。声を荒げたわけでも、特別酷い言葉で罵ったわけでもない。だがその言葉には妙な強制力があり、誰もを黙らせる威厳があった。
「あのような心を蝕む類の薬物は煎じたりせぬように。あれは身体に負担がかかりすぎる。魂魄支配の術式も同様だ、かけ続けると確実にいつか気が触れて、廃人と化すだろう」
ヨミは腕の中の恵菜を悲痛な表情で見つめると、守るようにきゅっと手に力を込め、むずがる彼女を強く抱き寄せた。
「部屋まで案内せよ。寝かせてから執務に移るが、エナが起きてからも様子は余に逐一伝えるように。よいな」
「は。承知いたしました」
薫瑛は丁寧な所作で頭を下げると、踵を返し離れへと歩き出す。いつもと寸分違わぬ完璧な笑みを浮かべながら、さて、どうやって彼女を我が王に依存させようかと、そればかりを考えていた。久しぶりに血が騒ぐのか、足取りは少し軽やかだった。
「平気か?冥界の空気は現世とやや違っておる。慣れるまで気分が優れぬやもしれぬが……。」
寝不足の時に車酔いして最悪の時と似ている、眩暈と吐き気にぐったりしながら、くらくらする頭をヨミの肩に擦り付けると、彼が心配そうに眉をひそめて覗き込んだ。
「うぅ……こ、ここは……?」
「冥綰殿(めいわんでん)だ。余の執務をする場だが、こうして儀式を行う場でもある。」
周囲に目をやると、どうやら恵菜はだだっ広い部屋の真ん中にいるようだった。真っ白に塗り固めた漆喰の壁に、消炭色をした板張りの床。見渡す限り白と黒の二色しかない、非常に簡素な部屋。その黒い床の中央に、魔法陣のような、複雑なかたちの組み合わさった妙な模様が、白い顔料で緻密に描かれている。それを囲むように、四隅には水で満たされた重たそうな水瓶が鎮座していた。なんだか、映画で見るような呪術だかまじないだかの儀式のようだ。
「せっかく冥界へやってきたのだ、景色の美しいところやら何やら、連れて見せてやりたいが……少し疲れたろう、今日はゆっくり休むといい」
「ん……平気、です。ありがとう」
少しの間彼に身を任せていると、段々体が楽になってきた。意識が鮮明になってくると、今のこの状況が急に小っ恥ずかしくなってくる。真横に信じられないくらいに整ったつくりの顔があるのが落ち着かず、恵菜はろれつが回り切らない舌でもう大丈夫ですと慌てて言い募って彼から離れた。遠慮気味に押し返された体に、ヨミは心配そうな少し名残惜しげな顔をした後、恵菜に再び手を伸ばしかけて、また引っ込めた。しばらくその手のひらは所在なさげに宙に浮いていた。
「あの……外、見てもいいですか?」
「あぁ、構わぬ。手すりが低いので気をつけよ」
部屋の一面からは、すだれ越しにやわらかな陽が差し込んでいた。そこから外が見えそうだ。恵菜がおぼつかない足取りで歩み寄りすだれを手でのけると、その向こうに不可思議な光景が広がっていた。恵菜はめまいも吹っ飛んだような心地で、前のめりで手すりに手をつき見入った。
この部屋は高台にあるようで、頭上から見渡すとたくさんの家々が遥か遠くまで広がっているのが見える。えらく整備された街並みだった、まるで碁盤の目のように細かく走る道に、規則正しく配置された家々。なんだか歴史の教科書で見た平安京のような作りだ。冥界は彩度の高い色を嫌うのか分からないが、黒い瓦屋根に白い壁をもった建物だけがずらりと並んでおり、そのさまは壮観だった。
上を見やれば、空を薄く覆う雲がまるでヴェールのように広がり、それを透かしたように頭上から光が降り注いでいる。まぶたを灼くような強烈な光ではない、天からの光と言われたら納得してしまうような、穏やかであたたかい光だった。オーロラのように光がうねりあたりを照らしており、明らかに恵菜が生まれてから見てきた"太陽"とは違う類の光だった。
「……天国?」
明らかに人の世ではない。説明するとなると言葉が見つからず、なんとも形容しがたいものがあるが、直感で分かる。恵菜が住んでいた世界とは全く違う場所へ来てしまったことが。
まるで白昼夢でも見ているかのようにぼんやり外を眺める彼女を見つめ、ヨミはくすりと笑うとそっと隣に寄り添う。支えるように腰を抱き寄せて、手すりにかかった手のひらにその大きな手を重ねた。
「どうだろうな、余のおさめるこの世界に、天国や地獄の概念は存在せぬ。ただ人の世から解放された魂を引き受け、沙汰を決め、時が来ればまた人の世に送り返すのみ……。エナ、あれが見えるか?」
彼が手を伸ばした方向に目を向けると、海かと見まごうほどに広い川が見えた。川の底も空気も無色透明なのか、光の加減できらきらと反射し、その都度川は水の色を変えている。そこに人を乗せた簡素な船が揺れていて、前後には船頭らしき者が櫂を持ちゆったりと水を漕いでいた。船着場には船から降りたらしきたくさんの人々と、この世界の役人だろうか、点呼をとっている様子の者が数人立っている。
「向こうの世からあぁして死人が送られる、これをこちらの岸で引き受け、間違いがないか名鑑と照らし合わせるのだ」
「へぇ……三途の川なのかなあれ……」
「……?人の世ではそう呼ばれているのか、こちらでは藍転河(らんてんこう)と呼ぶ」
ヨミはそれからもしばらく、外を見つめながらこの世界のことを教えてくれた。川の遥か向こう、霧がけぶるように霞んで見える山々はかつて冥王を助ける仙人たちが住まう場所だったとか、他にも、それは嬉しそうな笑みを浮かべて。
一通り話し終えたあたりで、恵菜がうとうとし始めたのを見て、彼は困ったように彼女を抱き上げると、気遣わげな視線を落として言う。
「すまぬ、しゃべり過ぎた。疲れたであろう、部屋で休ませよう。薫瑛(しゅんえん)、部屋の用意は整っているか」
「はい、大王様」
気づけば背後に、品の良さそうな少年が控えていた。13、14歳くらいに見える彼は艶のある黒地の服に身を包んでいて、どこぞの裕福な家の男の子のように見えた。だが少年の割に妙な威圧感があるというか、まったく隙がない。穏やかで完璧な笑みを絶やさずそこに佇んでいた。
「エナ、彼は薫瑛といってな。離れにある、余の暮らす屋敷の管理をしてくれておる。そなたの身の回りの世話も頼むつもりだ、何かあれば何でも言付けるがよい」
慣れない場所へやってきたからなのか、妙に体が疲れる。頭もぼんやりしてきて、ヨミの心地よい低音を聴くうちに恵菜はいつの間にか眠りについてしまった。
「余が部屋まで運ぼう。」
「……ずいぶんご執心でございますね。ひとときも王妃様を離したくないようにお見受けいたします」
「あぁ。エナは……このおなごは、進んで余のもとへ嫁いでくれた。嫌がるそぶりも見せぬ」
「……!まことでございますか」
どこか冷めて見えた薫瑛の瞳に、ぎらついた光が宿る。眠る恵菜に甘く蕩けるような、愛おしそうな視線を落とす主人を前にして、彼は唇を笑みの形に歪めた。
「お祝い申し上げます、大王さま。ようやくあなた様の求める奥方を手にされたこと、大変嬉しく思います。それでは気の変わらぬうちに魂の契約を……」
「いや、魂を貰い受けるのは婚礼の式をあげた後だ。3日後に式を執り行う、そちらの支度も頼む」
薫瑛が訝し気に目をすがめ、やや不満そうに尋ねた。彼が感情を隠しもしないのは珍しいことだった。
「いいえ、急ぐべきです、後からここに永住することを拒否されたらどうされるおつもりですか。赤包を受け取ったとはいってもそれはただの婚姻の口約束に近い、正式なものではありません。一刻も早く魂の契約を結び、王妃様の魂を冥界にとどめおくべきです」
「だが、その前に契約を結んだのだ。それを果たさぬままに魂を貰い受けることはできぬ」
「契約?何でございますか。仮にも冥王が軽々しく契約を結ぶなど……」
ヨミはぐっと黙り込み、静かに息を吐くと、ゆっくり口火を切る。重々しい沈黙を彼の声が破った。
「……うぇでぃんぐどれす、とやらを着たいのだとか」
「……は?」
「白の、何やら面妖な……裾の広がった着物を着て式に臨みたいのだそうだ。それさえ叶えば生涯余のそばで余を愛してくれよう。薫瑛、後生だ、頼む。それを作ってやってはくれぬか。愛するおなごの一生の願いを叶えてやりたいのだ」
薫瑛は珍妙なものでも見るような冷めた視線を主人に注いだ。まず死後の世界の王が後生だとかいう言葉を使ったのは彼にしては珍しく洒落をきかせたつもりなのだろうか、いや、そんなことはどうでもいい。現世に送り出してからたった数時間、冥界を統べる王をこんなにも骨抜きにした女とは一体何者なのか。まずそのウェディングドレスとは何か。死してこの世界に定住してから1000年ほど経つ薫瑛は、最近の流行りには疎かった。
愛しい女性を抱き抱えたまま、熱い視線を注いでいる主人を心底気味が悪そうに見つめた後、棘を含んだ口調で言う。
「大王様は律儀でいらっしゃいますね。……まぁ、そのよく分からない着物とやらは構いません。それで気が済むとあらば、冥界中の絹でもなんでも取り寄せて見事なものを作らせましょう。……ですが、式は契約の後でもよいのでは?」
薫瑛はなおも食い下がった。酷薄な表情を浮かべ、その目には冷たさが滲む。彼は無邪気にも、物騒極まりない言葉を淀みなく紡いでいく。
「これを逃してはなりませぬ。身ひとつで冥界に連れられ、恐怖から癇癪を起こすこともなくすやすやと眠っておられるおなごなど初めてなのですから……。あぁ、こういたしましょう、もといた家や家族が恋しくなる前に、意識を混濁させて、何も分からないうちに契約を済ませてしまいましょう。強い薬と魂魄支配の術式を混ぜ合わせれば、大王様なら容易にできるはず。うまくいけば永遠に大王様を愛する傀儡とすることも……」
「薫瑛」
流暢に続けられる言葉を、ヨミはぴしゃりと遮った。地を這うような低音が腹の底にずしりと響く。
「エナが進んで余を愛さなければ意味がない。偽りの愛などいらぬのだ。傀儡だと?余を気にかけての言葉なのは重々承知だが……。こればかりは看過できぬ、口を慎め」
「……申し訳ございません」
冥王の機嫌を損ねたのは明白だった。声を荒げたわけでも、特別酷い言葉で罵ったわけでもない。だがその言葉には妙な強制力があり、誰もを黙らせる威厳があった。
「あのような心を蝕む類の薬物は煎じたりせぬように。あれは身体に負担がかかりすぎる。魂魄支配の術式も同様だ、かけ続けると確実にいつか気が触れて、廃人と化すだろう」
ヨミは腕の中の恵菜を悲痛な表情で見つめると、守るようにきゅっと手に力を込め、むずがる彼女を強く抱き寄せた。
「部屋まで案内せよ。寝かせてから執務に移るが、エナが起きてからも様子は余に逐一伝えるように。よいな」
「は。承知いたしました」
薫瑛は丁寧な所作で頭を下げると、踵を返し離れへと歩き出す。いつもと寸分違わぬ完璧な笑みを浮かべながら、さて、どうやって彼女を我が王に依存させようかと、そればかりを考えていた。久しぶりに血が騒ぐのか、足取りは少し軽やかだった。
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