解ける夏<改稿>

たまむし

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 翌朝は快晴だった。
 携帯電話の着信音でたたき起こされた嘉文は、画面に表示された時刻を見て驚いた。午前九時。寝過ぎだ。
 通話に出ると、
『おはようさん。早くから悪いんだけど、門の鍵開けてもらえるかい?』
 と暢気な声が聞こえた。母屋の修繕に来てくれた工務店の誰かだろう。
「すぐ行きます」
 嘉文はそう言って通話を切り、大慌てで顔だけ洗って外へ飛び出した。

 滅多に使われない表の門には古い南京錠が下がっている。それを外して木製の扉を開けると、荷台に仕事道具を満載した軽トラックが入ってきた。
 それを縁側の方へと誘導し、降りてくる作業員と挨拶を交わす。
「嘉文君かあ。久しぶりだねえ」
 皺だらけの顔をほころばせるのは、町で代々大工を営む中井組の頭領だった。盛雄よりも年上のはずだが、その顔は健康そのものに見える。
「お久しぶりです。中井さんも、お元気そうで何よりです」
「いやあ、年には敵わん。もう力仕事は若いのに任せることにしてるんだよ」
 中井はそう言って、軽トラの荷台から荷物を下ろしていたもう一人の作業員を手招いて嘉文に紹介した。
「高山っちゅうウチの若いモンです。腕は確かなんで、今後もよろしく付き合ってやってください」
 頭を下げた若い男は、背が高かった。額に巻いた白いタオルから茶色い癖毛がはみ出している。整った顔立ちをしているが、丸く大きな瞳が目立ち、全体に幼い印象を抱かせる。子どものようだと嘉文は思った。屈託なく笑う口元も、その印象を加速させていた。
「高山です。去年から中井組で見習いさせてもらってます」
 Tシャツの袖から伸びた太い腕を差し出され、嘉文はちょっと当惑しながらもその手を握った。分厚く、温かな掌に触れた途端、背中をチリっと電気が走ったような気がした。
「見習いなもんかい。ウチの職人の中でも指折りじゃないかい」
 中井は笑いながら高山の背中を叩く。高山ははにかむように笑って荷下ろしの作業に戻った。
「じゃあ、先に雨漏りのほうをやっつけますんで、場所を教えてもらえますかい」
 嘉文は中井に促され、母屋の雨漏り箇所を案内した。
 高山に握られた手がいつまでも熱かった。



 母屋の修繕箇所を中井に指示した後は、作業に立ち合う必要はない。
 一旦自宅に戻ってポロシャツとスラックスに着替えて身支度を整えた嘉文は、車庫から車を出した。
 敷地に近い方から順に、盛雄の後援会に入っている家を訪ねていくことにする。地元でゆっくり出来る機会は多くはないため、この時間を有効に使うつもりだった。
 一人一人と丁寧に挨拶を交わし、爺さん連中から過疎化の進む町についての愚痴を聞き、婆さん連中から人間関係のゴシップを聞いては「盛雄先生に伝えておいて欲しい」という言葉に愛想良く頷いておく。実際嘉文が彼らの言葉を盛雄に伝えることはないのだが、秘書が話を聞いてくれたと言うだけで地元からの盛雄への信頼は厚くなるからだ。
 話の合間に雄一の選挙出馬についても散々聞かれたが、そちらについては「私には分かりかねます」の一点張りでかわし続けた。

 ちょこちょこと車を走らせては停め、降りて人と話してはまた走らせるのを繰り返していると、あっという間に昼近くになる。
 嘉文は昼食を摂るため、県道沿いにぽつりと建つ喫茶店の駐車場に車を入れた。
 昔からある古い店だ。店内の客は、草刈りの途中に寄ったと思しき長靴履きの老夫婦と、窓際の席で競馬新聞を広げているトラック運転手の二組だけで、黄ばんだ壁には盛雄の後援会の古いポスターが貼られたままになっている。嘉文は頭の中のメモに「新しいポスター送付」と書き込んで、カウンターに腰を落ち着けた。

「あら、嘉文君! いらっしゃい。日替わりランチしかないけど、それで良い?」
 カウンターの奥から声を掛けてくるのは、昔から嘉文を知る中年の女性だ。頷くとすぐに食事が運ばれてきた。日替わりランチは冷凍もののハンバーグに端の焦げた目玉焼き、しなびたキャベツのサラダと薄いコーンスープのセットだった。
 嘉文が食べる間、女店主は一人で延々と世間話をしている。嘉文がそれに相槌を打ちつつ、素早くランチを食べ終えると、
「特別サービス。うち、最近は喫茶の方に力入れてるのよ」
 女主人は手抜きのランチの言い訳をするように、パウンドケーキ一切れとアイスコーヒーをカウンターに出してきた。
「ありがとうございます。へえ、このケーキは手作りなんですか」
「そうなの。最近は梅干し作っても誰も引き取ってくれないから、砂糖漬けにしてケーキに入れてるのよ。なかなかイケるでしょ?」
 確かに、爽やかな梅の風味がが重いケーキの味わいを軽くしていて美味い。
「喫茶中心にしたら売り上げも増えてきたから、内装もちょっとオシャレにしようかと思ってるんだ。ほら、中井さんとこにハンサムな若い職人さんが来たでしょ。高井君だっけ? あの人、前は内装会社やってたんだって。だから頼もうと思って」
 女主人は堰を切ったように話し出す。嘉文は朝会ったばかりの若い男の顔を思い出して首を傾げた。
「高山さんだったと思います。あの方は最近引っ越してこられたんですか?」
「そうよ~。空き家プロジェクトだかなんだか、県のやってる補助金のヤツで来たんだって。神谷集落のぼろ屋を改装して住んでるみたい。古民家リノベ?だかなんだか、そういうの流行ってるんでしょ」

 空き家プロジェクトは、数年前から市がやっている移住促進の取り組みだ。二年間の期限をつけて、市内の空き家を若年層に格安で貸し出している。神谷は和田の屋敷よりまだ山奥にある集落で、住人がほとんどいないためバスも走らず学校や病院へも遠い。
 高山の家族は僻地への移住を反対しなかったのだろうか。そもそも、縁もゆかりもない場所にいきなり引っ越してくるというのは、どういう気持ちがするのだろう。寂しくはないのだろうか。
 高山の人なつっこそうな笑みを思い出し、ちょっと不思議な気分になる。
「改装したら葉書で知らせるから、絶対来てよ。あ、梅ケーキお土産に持って帰る? 日持ちするからさ」
 上機嫌に言った女主人は、拒む暇を与えずビニール袋を押しつけてきた。

 嘉文はビニール袋を助手席に置いて車に乗り込み、その後も挨拶回りに精を出した。風もない午後はひたすら暑い。サングラスをかけて人に会うわけにも行かず、眩しすぎる日射しの下を裸眼のまま歩き回ると、寝不足も相まって頭痛がしてくる。
 挨拶回りにノルマがあるわけでもないし、と諦めた嘉文は早めに帰宅することを決めた。

 昨日と変わらず交通量の少ない農道を上って車庫に辿り着くと、午後三時前になっていた。車を降りると、母屋のほうから電動工具の音が響いてくる。嘉文は屋根に上がっている職人二人の姿を遠目に見て、彼らに茶の一つも出していなかったことを思い出した。
 この炎天下では、冷たい飲料がいくらあっても足りないはずだが、和田家の回りにはコンビニエンスストアも自動販売機もない。
 嘉文は慌てて自宅に戻り、差し入れの支度をした。食品庫に買い置きされてあるペットボトルのコーヒーを持ち出して、氷を放り込んだグラスに注ぎ、昼に押しつけられた梅のケーキを皿に盛る。新婚時代に聡美が買ってから一度も使われていなかった銀の盆に、それらを載せて母屋に運んだ。

「お疲れ様です。冷たいお茶をお持ちしたので、良かったら召し上がってください」
 嘉文が縁側から声を掛けると、中井が屋根から降りてきて、そそくさと日陰になっている場所に座った。
「やあ、ありがたい! 飲み物は持ってきてるんだが、こうも暑いとすぐに温くなるからねえ」
 中井は氷の入ったコーヒーを一息で飲み干して、首にかけたタオルで顔の汗を拭う。嘉文は申し訳なくなって頭を下げた。
「もっと早くお持ちすれば良かったですね。気が利かず、すみません」
「いやいや、有り難いです。おーい高山、休憩だあ!」
 中井が呼びかけると、高山がはしごを伝って降りてきた。グレーのTシャツの色が変わるほど汗をかいている。頭に巻いたタオルを外すと、短い癖毛が水を被ったように濡れているのが分かった。
「ありがとうございます。あ、このケーキ、県道沿いの喫茶店のヤツだ。これ美味いですよね。頂きます」
 高山は両手を合わせてからグラスに口をつけ、ケーキにかぶりつく。嘉文は二人が休憩する傍で立ったまま、
「高山さんは、神谷の方に住んでおられるんですか」
 と質問した。
「はい。前は内装会社やってたんですけど、似たような流行の施工ばっかりなのがつまらなくなってしまって。しばらく田舎で何がやりたいのか考え直そうかなと」
 高山が答えると、
「田舎で悪かったな」
 と中井が混ぜ返す。高山は可笑しそうに笑って「田舎だから良いんですって」と中井に言い返したが、ふと嘉文の方へ顔を向け
「和田さんはこちらの人なんですか?」
 と訊いてきた。
 予想外の質問に嘉文はきょとんとしてしまう。この辺りに住む者は皆、嘉文の生い立ちを知っている。今更そんな事を聞かれるとは思わなかったのだ。
「おい、高山……」
 中井が咎めるように声を上げる。嘉文はそれを笑って制した。
「私は田辺と言います。この家のご当主の、和田盛雄先生の私設秘書をやらせて頂いています」
「和田盛雄……議員さんでしたっけ……?」
「はい。何かあればご連絡ください」
 いつもの流れで名刺を差し出すと、高山はかしこまった様子で両手を差し出してそれを受け取り、
「秘書って議員の自宅の改装の立ち会いまでやるんですか」
 不思議そうに首を傾げている。嘉文の立場を知らなければ当然の疑問かも知れない。
「私は元々先生に育てて頂いて、家族のようなものですので」
 嘉文は簡単に答えた。初対面の部外者にわざわざ言うほどの事でもないので、聡美のことは伏せておく。
 高山はまだ何か聞きたげだったが、
「さあ、もう休憩は十分だから、作業に戻るかあ!」
 中井が大声を上げて立ち上がると、つられて立ち上がる。残っていたコーヒーを慌ただしく飲み干し、
「ごちそうさまでした」
 と勢いよく頭を下げた。動作に合わせて汗のにおいが嘉文の鼻先に届く。嘉文はそれを不快だとは思わなかった。


 差し入れの盆を持って自宅へ戻った嘉文は、リビングの空調を入れ、一日電源を入れていなかったパソコンを開く。案の定山ほどメールが溜まっていた。それらにざっと目を通して重要度別に振り分け、返信したり転送したりを繰り返していると、自分が目と手だけの生き物になったように感じられた。

 時間を忘れて画面に向かっていると、インターフォンが連打される音でハッと我に返った。顔を上げると窓からは差し込む夕焼けが目を灼く。思ったよりも時間が経ってしまっているようだった。
 酷使されたせいでショボつく目を押さえながら玄関へ出ると、高山がいた。
「あ、よかった。お留守かと思いました。今日の作業は終わりましたんで、これお返しします」
 ホッとした顔で、高山は母屋の鍵を差し出してくる。
「別に、持っててくださって良いですよ。明日もいらっしゃるんでしょう」
 目を擦りながら嘉文が言うと、高山は困ったように眉を下げた。
「そう言うわけにはいかないです。紛失したら大問題なんで。……もしかして、朝から門を開けて頂くのはご迷惑でしょうか? もう少し遅い時間に作業開始した方が良いですか?」
 嘉文は、寝起きのまま門を開けに走った今朝の醜態を思い出して、頬に血が上るのを感じた。
「いえ、朝早い方が涼しいですし、遠慮なく早めに来て頂いて大丈夫です。鍵はこちらで管理します。九時前には開けておきますし、もっと早く始めるなら電話で呼び出して頂いて構いません」
 ばつの悪さを隠すように早口でそれだけ言って中へ引っ込もうとしたが、
「あの!」
 と手首を掴まれて引き留められる。
「何か?」
 振り向くと、高山は何か言いたげにじっと嘉文を見つめていた。夕陽を背にした逆光の中で、高山の丸い大きな目が意味深な光を湛えている。掴まれた手首から熱がじわりと這い上ってくる。
 嘉文はその視線の意味がわかるような気がしたが、わざと無視して作り笑いをし、
「……何か他にもご用がおありですか?」
 と丁寧に問いかけ直した。高山はハッとしたように手を離し、
「いえ。すみません。お邪魔しました」
 と頭を下げ、素早く踵を返して母屋の方へと走っていった。

 しばらくすると、ヒグラシの物寂しげな鳴き声に混じって軽トラのエンジン音が聞こえてくる。それが十分遠ざかるのを待って、嘉文は門を施錠しに向かった。

 門の閂に南京錠をかけ、母屋の雨戸を閉めるために縁側から座敷へ上がり込む。黴臭い古い家の空気にふと懐かしさを感じて奥へと足を踏み入れた。
 ブルーシートで養生された客間を抜け、床板のすり減った暗い廊下を進むと、突き当たりに墨絵の松が描かれた襖が見える。その向こうは、この屋敷の主、和田盛雄がかつて使っていた部屋だ。
 嘉文は襖を開け、天上からぶら下がった紐を引いて灯りをつけた。古い照明は薄暗く、広い部屋の真ん中だけをボンヤリと照らす。
 壁際にはガラス扉付きの書棚があり、古びた法律書や郷土史の類いに混じって盾やらトロフィーが並んでいた。空っぽの床の間の前には黒檀の文机が置かれ、肘掛けつきの立派な座椅子が主人の帰りを待っていた。

 嘉文はこの座敷で威儀を正して座る盛雄が好きだった。
 学校で良い成績をとれば、この机の前に呼ばれて褒めて貰えたため、学生時代の嘉文は躍起になって勉学に励んだ。ほんの一瞬、「よくやっているな」と言葉をかけて貰いたくて、持てる時間の全てを費やした。

 嘉文は文机の前まで進み、畳に膝をついて座椅子の肘掛けにそろりと触れる。
「先生……」
 呼びかけに答える声はない。座布団に手を触れると、へたった綿の感触がした。そのまま古い座布団を枕にして身体を横たえる。盛雄の残り香を探して目を閉じ深く息を吸ったが、鼻腔に入ってくるのは黴と埃の湿った匂いばかりだ。

 身体を横たえて瞑目していると、静寂とはほど遠い山の夜の音が嘉文を押し包んだ。気の早い秋の虫の音、ホトトギスやサギの夜鳴き、杉の木立の間を抜ける風が雨戸を揺らす音。それらに紛れて嘉文は何度も呟く。
「せんせい、せんせい……」

 ───愛しています
 肝心な言葉は、誰もいない場所ですら言葉に出すことはできなかった。
 嘉文の閉じた目から一筋涙が零れる。柔らかさを失った座布団に濡れた頬を押しつけ、畳の上で丸くなった嘉文は、そのまま眠りの底へと滑り落ちていった。
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