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しおりを挟むばかみたいだ。
目を覚ました時に、口をついて出たのはそんな言葉だった。
だだっぴろいフロアには鳥の巣よりも上等なもさもさの後頭部も見えなければ、芋虫か何かのようなまるまるとしたシルエットもない。それならばまあ、多少気が緩んだところで問題はなかろう。アイビーは、真っ暗闇とは言い難い視界の下の方に広がるネオンの海と、それをちらちらと遮りさまよう人影を見る。
夢を見たのだ。旅を始めてからは片手の指で足りるほどしか見たことのない夢を、よりにもよってこのタイミングで。
アイビーの母親は、「たくさん食べて大きくなるのよ」と笑って、彼を士官学校へ送り出した。
アイビーはその言葉を真に受けるくらいには純粋な少年であったし、彼をそう育てた母親もまた、そうだった。軍人になるということはたしかに死と隣り合わせではあるが死は理不尽なものではないと思っていたし、名誉なことであるかは置いておいても、家庭にあっては満足に食事も摂れない育ち盛りの少年を「強く育てる」ためには必要なことだと考えていた。
事実、根菜や獣の骨のスープ、カビの生えかけたパンや、ガワの錆びた缶詰なんかをこじ開けて食べてばかりだったアイビーには士官学校の食事はご馳走だった。温かく、腹をきちんと満たしてくれて、それぞれ味がするし、何より初めて肉を食べた時の感動といったらなかったが、食事の充実感とは反対に、士官学校の人間関係はひどい有様だった。
戦禍すら及ばぬ田舎というのは、略奪する価値のまるでないものだ。だから放っておかれるのであって、そんなところから来たお前は戦争に加わる資格なんてないのだ。土まみれの葉っぱや木の皮みたいなキノコでも食べてろ。
夢に見たのが、ちょうどそんなことを言われ続けていた頃のことだ。
彼らは「食べるものがない」ということを知らなかった。
土まみれの葉っぱも、木の皮みたいなキノコも、きっと彼らにとってはずいぶん貧相で惨めたらしい食材か、そうでなければいっそ食材ですらないものだったのだろう。士官学校の食事をみすぼらしいという人間のことは当時は全く分からなかったが、今ならわかる。アイビーの育った環境が、あんまりにも異質だったのだと。
泥水を啜るしかないが、啜っている間に運が悪ければ死ぬ。ウイルスだか細菌だか寄生虫だか知らないが、どれだけ上手く上澄みを啜ったところで死ぬ時は死んだ。食べられるものは土の中に眠っていないかと掘り返したものだし、何か尖ったものを掘り当てて手を怪我して、そのまま出した熱が下がらずに死んだやつもいた。野犬の一匹も近寄らないし、「野犬」という概念を知ったのも、士官学校の裏のスラムでのことだった。
だから、純粋にうれしかったのだ。
葉っぱもキノコも、ここにいるべきじゃないという罵倒も、いっそ自分は心配されているのではなかろうかと思ったものだ。
煌々と灯る、いつ消えるともしれないネオンを眺めていると、そして自分がいま「繭」の中にいるのだと思うと、世界はすばらしいものだと思っていたあの頃の自分のこと、何もかもが輝いて見えた、あの頃の自分のこと。それから、あの頃の自分とは違ってこの世界にすばらしいものなんて一つもないし、輝いているものだって一つもないのだということを知っているはずなのに、それを知らないふりをして、見ないふりをしているかのような「繭」の住人たちのことに、想いがめぐる。
それもこれも、全部、あのやかましい間抜けがどこぞで油を売っているからだろう。
ジープの中でも、雨漏りのひどい廃屋でも、なんなら背骨の軋む洞窟の中でもずっと視界をちらついて――時には視界でごろりごろりと暴れまわって――丸めた背中に骨を浮かせてむにゃむにゃと元気のいい鳥の巣頭。彼がそこにいることに慣れてしまった今となっては、そう、ちょうど「程よい雑踏」が最も入眠に適していると言われていたように、とびきりの静寂は身体に悪い。
アイビーは、ネオンの中を歩くことにした。
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