働く君へ

nishi

文字の大きさ
8 / 22
第三章:市場という名の迷宮に潜む「見えない壁」

謎の提示 (2025年5月2日 金曜日 午後7時過ぎ - キャリア・オアシスにて)

しおりを挟む
窓の外は、すっかり夜の帳(とばり)が下りていた。金曜日の夜。練馬の商店街も、昼間の活気とは違う、週末を控えた少し浮かれたような、それでいてどこか落ち着いた賑わいを見せているのだろう。しかし、私のオフィス「オアシス」の中は、蛍光灯の白い光だけが、先ほどまでクライアントたちが座っていた椅子や、テーブルの上に散らばったままの資料を、静かに照らし出していた。今日の面談で聞いた、いくつもの声、溜息、そして語られなかった想いが、まだこの空間に、重く漂っているような気がした。
私は、一人、デスクに向かい、モニターに表示された、複数のクライアントの分析データと、私の手書きのメモがびっしりと書き込まれたノートを、改めて、じっと見比べていた。リナさん、ケンジさん、ユミさん、そして、タツヤさん、ミキさん、ダイキさん…。それぞれが置かれた状況も、目指すゴールも、そして抱える個人的な事情も、全く違う。AI「Lighthouse」が示す、彼らの客観的なスキルセットや市場価値、そして推奨されるキャリアパスも、当然ながら、一人一人、異なっている。
それなのに、なぜだろう。彼ら、彼女らが、それぞれの新しい一歩を踏み出そうとした時に、直面している「困難」の質には、奇妙なほどの、そして無視できないほどの「共通性」があるように、私には思えてならないのだ。
それは、単なる「努力不足」や「能力不足」という言葉だけでは、到底、片付けられない種類の壁。 あるいは、「タイミングが悪かった」「運が悪かった」という、偶然性の問題だけでも、決してないように思える。 だって、そうだろう? リナさんは、あれほどまでに自分の「個性」という名の光を磨き上げ、それを活かせるはずの場所を、戦略的に選んでアプローチしたはずだ。それなのに、「個性的すぎる」「標準から外れている」という、曖昧で、そして創造性を否定するかのような理由で、門前払いされる。 ケンジさんは、長年の経験に裏打ちされた「人間力」という、本来なら極めて価値の高いはずの資産を、新しい時代の「架け橋」となる力として、明確に言語化し、アピールしたはずだ。それなのに、「年齢」や「過去の経歴」という、変えようのない属性に対する、根拠のない偏見によって、その価値を正当に評価されない。 ユミさんは、組織への貢献度や、その誠実さ、信頼性という、どんな時代においても組織の基盤となるべき「人間性」を、誰よりも持っているはずだ。そして、苦手なはずの新しいスキルさえも、必死で学ぼうと努力した。それなのに、「将来性がない」「ポテンシャルが低い」という、極めて一方的で、そして年齢差別的とも言えるようなレッテルによって、新しい挑戦への扉を閉ざされてしまう。
まるで、彼ら、彼女らの前には、目には見えない、しかし、確実に存在する、厚く、そして冷たい「何か」が、立ちはだかっているかのようだ。それは、個人の努力や、才能や、あるいはAIによる客観的な分析や戦略だけでは、容易には乗り越えることのできない、巨大な、そして不可解な障壁。 私は、それを、心の中で「見えない壁」と呼び始めていた。
この「見えない壁」の正体は、一体、何なのだろうか?
それは、採用担当者や、経営者の中に、無意識のうちに潜んでいる、「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」なのだろうか? 例えば、学歴や、出身企業に対する、根拠のない思い込み。あるいは、性別や、年齢に対する、固定観念。あるいは、「自分たちと似たタイプ」の人間を、無意識のうちに、より高く評価してしまう、という心理的な傾向。
それとも、それは、日本の、あるいは特定の業界の、企業組織の中に、未だに根強く残っている、古い、そして硬直化した「人事評価システム」や、「組織文化」そのものなのだろうか? 新しい価値観や、多様な働き方を、表向きは推奨しながらも、実際には、依然として、年功序列や、画一的なキャリアパス、そして、組織への「忠誠心」といった、古い物差しだけで、人を評価し、選別しようとする、構造的な問題。
あるいは、もっと根源的な、この「市場」というシステムそのものに、内在する「不条理さ」や「非合理性」とでも呼ぶべきものなのだろうか? AIがどれだけ進化し、データがどれだけ蓄積されようとも、結局、人間のキャリアや、その価値というものは、最後は、論理や合理性だけでは割り切れない、もっと曖昧で、感情的で、そして時には、運や、縁や、あるいは、その時の「空気」のようなものによって、大きく左右されてしまう、という、変えようのない現実。
考えても、考えても、明確な答えは、まだ見えてこない。ただ、私の、これまでの、決して綺麗事だけではなかった、様々な経験——会社員時代の理不尽な経験、経営者としての厳しい現実、M&Aの現場で見た、人の価値が生々しく値踏みされる瞬間、そして投資の世界で学んだ、市場心理の不可解さ——それら全てが、私の内なる直感に、警鐘を鳴らしているような気がした。これは、単なる個別の問題ではない。もっと、根深い、そして構造的な「何か」が、確実に、この社会の、そして働く人々の未来に、暗い影を落としているのだ、と。
私は、この「見えない壁」の正体を、突き止めなければならない。 それは、単なる知的な好奇心からではない。この壁の存在を、そしてそのメカニズムを理解しない限り、私は、キャリアコンサルタントとして、本当の意味で、迷える「君」たちを、希望へと導くことはできないだろうからだ。そして、もしかしたら、この壁の正体を解き明かすことこそが、私が、この「キャリア・オアシス」という場所で、果たさなければならない、本当の使命なのかもしれない。 私は、デスクの上に広げられた、クライアントたちの情報と、Lighthouseの分析レポート、そして自分の手書きのメモを、もう一度、新たな視点で見つめ直した。ここには、必ず、その「壁」の存在を示す、小さな、しかし確かな「痕跡」が、隠されているはずだ。そして、その痕跡を辿っていく先に、きっと、真実へと続く道が、見つかるはずだと。
私の、新しい、そしておそらくは、これまでで最も困難な「謎解き」への挑戦が、今、静かに始まろうとしていた。この、東京という名の、巨大な迷宮の奥深くに潜む、「見えない壁」の、その正体を探る旅が。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【新作】1分で読める! SFショートショート

Grisly
ファンタジー
❤️⭐️感想お願いします。 1分で読める!読切超短編小説 新作短編小説は全てこちらに投稿。 ⭐️忘れずに!コメントお待ちしております。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

処理中です...