希望の翼

美汐

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第一話 希望の翼

希望の翼1

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 もう駄目だ。生きていても仕方がない。俺は社会から必要とされていない。この世界に俺の居場所なんてひとつもないんだ。
 俺はとある廃ビルの屋上に立っていた。もう使われなくなってから随分と経っているようで、中は荒れ放題。夜には街の不良なんかの溜まり場にもなっているらしく、近隣住民から苦情が入るという。
 そんな鼻つまみもののビルを選んだのは、まるで自分のことのように思えたからだ。
 俺の人生の最期を飾るのに、こんなに相応しい場所があるだろうか。
 思えばつまらない人生だった。地元の小中学校を出て、高校も大学も平凡なところを選んだ。その後に就職した企業はいわゆるブラック企業で、さんざん働かされた挙げ句、最後は給料未払いのまま、経営者が夜逃げしてしまった。
 やけになり、酒に溺れる日々が続いた。定職にも就かず、ふらふらしていた俺の周りからは、どんどん人が離れていった。
 これではいけないと、一念発起し、再び職探しを始めたものの、再就職した先がまたしても酷い会社で、上司のモラハラで精神を病む社員が続出するようなところだった。俺も他聞に漏れず、その被害をもろに浴びることになった。
 結果的に精神を病み、会社を退職。病気は回復傾向になったものの、再び新たな職に就く気力も沸かず、今に至っている。
 むなしいというのは、こういうときに使う言葉だったんだなと、そんなことを思う。
 なにをしてもうまくいかない。生きていてもなにもいいことがない。
 努力すればいつかは報われる、なんて誰が言ったんだろう。努力したって報われない奴は一生報われない。なにもしなくても報われてる奴なんていっぱいいるのに、どうして俺は報われないんだろう。
 屋上の端へと足を踏み出す。このビルは十二階建てだ。落ちれば余程のことでもない限り、死ぬのは間違いない。下に植え込みもないようだし、きっと即死できるだろう。
 俺は死にたい。
 この世に未練なんかない。
 この先いいことが待っているなんて、あるわけがない。今までそんな希望を少しでも抱いて、どれだけ裏切られたことか。
 ――だったら、今死んだって同じじゃないか。
 風がどこからともなく吹いてきた。空は雲ひとつなく、嫌みなくらいに青かった。
 こんな日に空を飛ぶのも悪くない。
 屋上の先端に立つと、まるで鳥にでもなったような気分だった。目を閉じ、風を体全体で感じるように両手を広げてみる。目を開けて下を覗くと、あまりの高さに足がすくんだ。思わず一歩後ずさる。このまま落ちてしまえば、確実に死が待っているのだ。わかっていたことだが、やはりすぐには一歩を踏み出すことができなかった。
 ふいに、随分前に別れてしまった元恋人の夏美なつみの顔が頭に浮かんだ。
 ――あなたって本当に優柔不断ね。
 そんな台詞が聞こえてきたように思い、頭を振った。
 いつまで経ってもそんな性格が直ることはなく、それも原因の一端だったに違いない。そのうちに愛想をつかされてしまった。俺にはもったいないようないい女だった。それにしても、人生の最期においても優柔不断な自分に呆れかえる。
 いいや。ここまで来てやめるわけにはいかない。
 もう俺は決めたんだ。
 ふと、どこからか白い小鳥がこちらに向かって飛んでくるのに気がついた。なにげなくその小鳥を見ていると、なんとこのビルにどんどん近づき、やがて俺のすぐ近くまでやってきた。
 その白い小鳥は、どういうわけか、宙に浮いたような状態で羽根を閉じた。まるでそこに止まり木でもあったかのように、そこに座っている。
 俺は目を擦ってもう一度、その小鳥のいる場所をよく見た。すると不思議なことに、今までまるで気づかなかったが、そこに人の姿があった。
 小鳥は、その人の肩に止まっていた。
「え? あれ? え?」
 目がおかしくなったのかと一瞬思ったが、見間違いではなかった。その人は静かに、まるで眠っているかのようにそこに立っていた。ビルの先端で微動だにすることなく、風をその身に受けている。年齢はよくわからないが、綺麗な顔立ちをしていた。レトロな帽子を被り、手にはステッキを持っている。黒の紳士服に身を包み、その姿は昔の英国紳士を思わせた。
 こんな廃ビルにいるには、少々場違いなほどに上品である。しかし、なぜか違和感を感じなかった。しばらく絶句していたが、少し落ち着きを取り戻した俺は、思い切ってその人に向かって話しかけてみた。
「あ、あのう。あなた、いつからそこに……?」
 俺がそう声をかけると、その人はゆっくりとこちらを振り返った。
「はい。先程からここに」
 穏やかな声だった。さわやかな風がそこから吹いてきたような気がした。その男は肩に乗った小鳥に微笑みかける。すると、小鳥は美しい声で鳴いた。なんだか不思議な光景を見ているようで、俺はしばらくその様子に見とれていた。そのとき俺は、自分が死のうとしていたことを、一瞬だが完全に忘れてしまっていた。
 しかし、すぐに我に返った。おかしい。どう考えてもこの状況は変だ。この状況のわけを確かめなければならない。
 そう思った俺は、男に訊ねた。
「おかしい。あなたは先程からここにいたと言ったけれど、俺がここに来たときには、ここには誰もいなかったはずだ。どこかに隠れていたんじゃないですか?」
 男はそんな俺を見て、目を細めて笑った。
「いいえ。私はどこにも隠れてなどいませんよ」
「嘘だ。見間違えるはずはない。ここには誰もいなかった」
 言いながら、俺は自分がおかしなことを言っていることに気がついていた。確かにここには始め、誰もいなかった。俺はそれを知っている。そして、どこにも隠れる場所などないこともわかっていた。
 だったらこの男はどこから現れたというのか。
 そう考えて、ぞくりとした。奇術……なわけはない。ならば幽霊? まさか。
「幽霊ではありませんよ」
 男は、俺の心でも読んだかのように言う。
「あなたの邪魔をしてしまったのなら、申し訳ありませんでした。しかしどうぞお気になさらず」
 俺は、男がなんだか俺を馬鹿にしているような気がしてきた。無様な俺のことをせせら笑いにきたのではないかと、そんなふうに思った。
「あんたがなんでここにいるのかは知らないが、さっきからいたというのなら、俺がなにをしようとしているのかわかっているはずだろう。それなのに、なぜ止めない」
 そうだ。普通なら自殺しようとしている人間が目の前にいたのなら、それを止めようとするのが自然だ。それなのに、この男はそれを平然と見ていたことになる。
「あなたは止めて欲しかったのですか?」
「そういうわけじゃないが、そういうことを言っているんじゃない。普通止めるだろう。目の前に死のうとしている人間がいたら、それを止めるのが人として当たり前なんじゃないのか?」
「そうなのですか。それは申し訳ありませんでした。それではそうすることにしましょうか。そこにいたら危ないですよ」
「それを言うならあんただって同じだ」
「おや。そうでしたね」
 男はしかし、ビルの端からまるで動こうとしない。
 ふざけている。絶対に馬鹿にしている。
 死を前に怖じ気づいている俺のことを、なさけない奴だと見下しているんだ。
「ちくしょう。馬鹿にしやがって。もう死ぬことでしか救われないような俺のことを、笑って見ていたのだろう。こんな奴、死んだってどうでもいいとでも思っているんだろう」
 なさけなくて悔しかった。死ぬという一大決心をしたというのに、それすらも世間は無関心で冷たい。どうでもいいことなのだ。目の前にいるこの男も、そういうふうに俺のことを見ているのだろう。
「いいえ。どうでもいいとは思いませんよ。あなたという命はこの世でたったひとつのもの。それはなにものにも代えられない。かけがえのないものなのです」
「なにを今さら。いいんだよ。正直に言えよ。世間から見たら、俺なんかゴミみたいなもんだ。誰からも必要とされず、そのあたりでのたれ死んでも気にもされない。そんな人間なんだ。あんただってそう思っているんだろう。だから俺のことを止めようとしなかったんだ」
 捲し立てるように言うと、男は困ったように小首を傾げた。
「なにやらあなたは迷っていらっしゃるようですね。話を聞いていると、死ぬのを止めて欲しかったというように聞こえます。私が思うに、あなたはまだ死にたくないのではありませんか?」
 俺はその言葉に目を見開く。
 なんだって? まだ死にたくないと、俺がそう思っている?
「いや、違う。そうじゃない。そうじゃなくて……」
「ただ止めて欲しかったと?」
 そう。止めて欲しかった。
 死を目前にして、誰かに止めてもらいたかった。
「違う違う。俺は死ぬと決めたんだ。ただ、怖いんだ。怖くて仕方なかっただけだ」
 俺は、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出す。
 死にたくないわけじゃない。ただ、死というものが恐ろしいだけ。それだけだ。
「ふむ。ここはひとつ、教えていただけませんか。そもそもなぜあなたは死のうとなさっているのでしょう。その理由を聞かせてはもらえませんか?」
 理由、か。まあ、どうせ死ぬことには変わりはないんだ。目の前のこの風変わりな男に話をするくらいのことは、してもいいだろう。
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