希望の翼

美汐

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第五話 きみとともに

きみとともに5

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 町内の公民館は、昔と変わらなかった。クリーム色の壁が、どこか懐かしい気持ちを呼び起こさせる。年季が入った卓球台は、ところどころ塗装がはげていた。小学生時代に静香とよくここで卓球していたことが、つい昨日のことのように思い出された。目の前にいる相手は同じなのに、背の大きさや雰囲気が少しだけ変わっていることが、なんだか不思議な感じがした。
 僕と静香は着てきていた上着を脱いで、半袖になった。
 三台ある卓球台のうち、一つは空いていて、一つは近所の小学生が使っていた。男の子が二人、騒ぎながらラケットを振っている。まだあまり慣れていないようで、ラリーがなかなか続かないようだった。僕たちにもそんなころがあったのを思い出す。上手になりたくて毎日のように通っていた。やればやるほど上達していくのが、おもしろくて楽しくて仕方なかった。静香もきっと同じように感じていたのだと思う。だから二人ともこうして卓球を続けているのだ。
 静香がラケットのラバーを確かめるように眺めているのを見ながら、僕はそんなことを考えていた。
 僕の視線に気づいた静香が、こちらを見てにこりと笑った。思わずどきりとする。
「よし。始めよっか」
「バック打ちの練習するんだったよな」
「うん。まあでも、孝介はバックばっかじゃつまんないだろうから、あたしはフォアにも振るよ」
「げ。僕だけ動かすつもりかよ」
「その前に乱打してからね」
 静香は僕の話を無視して球を打ち始めた。規則正しく球が僕と静香の間を行き来し、心地よいリズムが響き渡る。そんな様子を、隣にいた小学生が手を止めて見つめているのがわかった。なんだか照れくさい。
 乱打を終えると、「んじゃさっきのやろっか」と静香が言った。バック打ちの練習をするために静香はラケットをバックに構えた。僕から球を打ち始め、静香もそれを普通に返す。しばらくバックの乱打が続いたが、次にバックに来た球をバックに返すと、今度はフォアに球が来た。僕は左右に振られ、ラケットを持つ腕をフォアバックフォアバックと交互に動かした。静香は淡々とバックで返し続ける。これはこれで僕にもいい練習になるなと思った。
 ふっと手元の球が浮いてしまった。静香の元にチャンスボールが入る。
 行け。
 打っちまえ!
 静香は思い切りその球をバックハンドで叩いた。バチーンといい音が響きわたった。が、球は僕の腕に当たって落ちた。けっこー痛い。
「あーあ。せっかくチャンスだったのにー」
「ラケットの面が上がってるんだよ。勢いは良かったけどな」
「どうしてもバックで思い切り打とうとすると、そうなるんだよ。なんでかな」
「バックスマッシュがやりたいんだろ。一回僕がチャンスボールそっちに入れるようにするから練習してみろよ。ピン球いくつかあったよな。それも使ってやるか」
 僕と静香の持ってきたピン球は全部で六球あった。続けて六球は打てる。繰り返しやっていけば静香の苦手とするペンホルダーのバックスマッシュも、そのうちものにできるのではないだろうか。静香が納得がいくまではつきあってやるか。そう思いながら台の上に広げて置いたラケットケースを入れ物代わりにして、六個のピン球をその中に置き入れた。
 静香は一度ラケットを台の上に置き、腕を回したり振ったりし、ついでに足も同様にほぐしていた。ラケットを再び手に持ち、バックハンドに構える。
「行くぞー」
 僕はそう言って、軽く弧を描くような球を静香に打っていった。静香はそれをラケットで思い切り叩いていく。しかし、なかなか思うように力が入らないのか、半分くらいは台の外に出ていってしまっていた。打っては球を回収し、打っては球を回収し、しばらくその練習を続けた。そうしていくうちに、少しずつ台に入る回数が増えてきた。
「ちょっとずつ入るようになってきたんじゃないか?」
「うん。でもこれを実戦でできるかと言われると、難しそう。もうちょっと練習させて」
 静香がそう言うので、またしばらく同じ練習を続けた。かなりの確率でスマッシュが決まるようになってきた。いい感じになってきたなと思い始めたころだった。
 バチーンと音がして、いい球が台を弾いていった。と同時に、静香も思い切り台に乗るような形になっていた。
「今のいい感じだったぞ」
 スマッシュを思い切り打ったあとに、勢いで台に突っ伏すような形になるのはよくあることなので、不思議に思わずにそう声をかけた。しかし、静香はなかなか返事をしなかった。怪訝に思い、静香に近づいて顔を覗くと、静香は苦悶に耐えるように顔を歪めていた。
「静香? どうしたんだ!」
 静香の肩を掴んでゆっくり上体を起こすと、静香は悲鳴を上げた。
「痛い! 痛い痛い!」
 静香は持っていたラケットを取り落とし、台の下に崩れ落ちた。僕はそれを見て、目の前がさっと暗くなった。静香の、ラケットを持っていた右手の小指が、変な形に曲がっていた。
「静香!」
 僕たちの様子に、隣にいた小学生二人も呆然としていた。僕は慌てて大人を呼びに走った。
 大変なことになった。僕はどうしたらいいのかわからず、頭は混乱していた。静香の元に公民館の職員が駆けつけ、静香の介抱をし始めた。僕は連絡先などを訊かれ、しどろもどろに答えた。しばらくすると何人かの大人たちが僕の前を通り過ぎていった。やがて静香の母親が現れ、慌ただしく静香を連れて出ていった。ばたばたと足音が聞こえなくなると、急に辺りはしんとして、僕は取り残されてしまったことに気がついた。
 なにが起きたのだろう。今目の前で起きたことはなんだったのだろう。ついさっきまで、僕は静香とそこで卓球をしていたのに、今は誰もいなくなってしまった。静まり返った部屋の中には、誰にも使われていない卓球台だけが並んでいる。いつの間にか、あの二人の小学生もいなくなっていた。
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