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愛しき機織り娘
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しおりを挟む香水を持ってオスカーとの交渉に臨んだサンドラは、翌日の配達に姿を現した。殴られた頬は痛々しく腫れてしまっていたが、彼女がご機嫌であるのを見てキースはほっとしていた。
「キースさん。おかげさまでなんとかなりました」
荷物を手渡したあとの食事。サンドラは台所に来るなりそう告げた。
「いただいた香水が必要になることもありませんでした」
「それは何よりです」
食事の支度は整っている。温めて盛り付ければそれでおしまいだ。
「――それで、一つ確認したいことがあるのですが……」
言いにくそうに切り出されるサンドラの台詞に、キースは作業の手を止めて顔を向けた。
「改まって、なんですか?」
サンドラは視線を足元に向けてもじもじとしている。珍しい仕草だ。
「あの……えっと……」
「? それは僕にとって良い話ですか? それとも、悪い話ですか?」
彼女が何を言おうとしているのかわからない。キースはサンドラと向き合って問う。
「その……キースさんは……あたしのこと、どうしようと思っていらっしゃるのですか?」
胡桃色の瞳が紺碧の瞳を捉える。互いの瞳が想いとともにかすかに揺れる。
「どうしようって……」
先に視線をそらしたのはキースだった。そんな彼に、サンドラは台詞を続ける。
「……だって、キースさんはあたしに触れようとしないじゃないですか。口説こうという気も感じられないですし……好きだとか、愛しているだとか、そういう言葉をかけられた記憶もありません」
恥ずかしさもあるようで、告げながらサンドラは赤くなっていく。
「出会って最初の頃は、あたしのこと、可哀想な娘だと想って優しくしてくれているのだろうな、って感じていました。それにあたしはこの町でも大きな工房に勤めていますから、そこの従業員と仲良くしておくのは商人として幾らかの利点があるのかなと」
「それは違います。僕は、あなたを――」
どうしたいのだろうか。
何かを言いかけて、キースは口を噤む。
(僕は、彼女になんと言えば良いのだろうか……)
黙り続けるキースに、サンドラは言葉を続ける。
「――工房の規律で、雇用主が決めた男以外との深い付き合いが禁じられています。あたしは、その規律に触れたと決め付けられて叱られたのですけど……キースさんが、もし、こんな何のとりえもないあたしでも、その、好いているとおっしゃるのなら、あたし、オスカーさんを説得して、キースさんとの仲を認めてもらっても構わないのです」
仲を認めてもらう、つまり結婚を前提として付き合うということだ。規律で「雇用主が決めた男」が例外とされているのだから、雇用主であるオスカーに認めてもらえば良いという話だ。
「ですが、認めてもらうには……」
キースは困っていた。サンドラを妻に迎えること、それはできるならそうしたいと考えてはいるのだ。昨夜のことを考えれば、これ以上彼女の身を危険に晒さないためにもそれが一番だと思う。サンドラとともに細々と家業を続け、子どもを育てていく未来はとても明るくて素敵だろうと感じられた。
(だけど、そのためにはお金が必要だ)
小さな商店には、オスカーからサンドラを買い取るだけのお金がない。サンドラは工房でも一位二位を争うほどの技術を持った機織りなのだとアルベルトから聞いている。そんなお金の生み手であるサンドラを、オスカーは簡単に手放さないだろう。それこそ、妾にでもして囲っておき、身体が動かなくなるまで働かせた方が金になる。それに見合う金を用意できるとは、正直なところ想像できなかった。
思案するキースに、サンドラは必死な目で攻めるように告げた。
「や、やっぱり、キースさんは、あたしを太らせるのが目的だったんですかっ? 丸々肥えていくあたしを観察するのが趣味でっ……!」
「どんな趣味だよっ!? 自分が作った飯を美味しそうに食ってくれる相手を見るのが好きじゃ悪いかっ!?」
思わず、商人としての丁寧な口調ではなく地が出てしまう。アルベルトの指摘と同じことを言われたせいだ。
その台詞にサンドラは驚いたような顔をして目を瞬かせる。そして瞳を潤ませた。
(え、ちょっと待て、この展開……)
泣かせてしまう。咄嗟に雲行きの悪さを感じ、キースはあたふたとする。
「キースさんは……食事をしてくれる方ならどなたでも良かったのですか……?」
「違うっ! 僕は、あなただから――」
口で言っても伝わらない。キースはサンドラの前に立つと彼女を抱き締めた。
「サンドラ、不安にさせてすまなかった。僕はあなたから好かれる自信がなくて、何も告げられなかったんだ。実際、僕があなたにして差し上げることができるのは、こうして食事を用意して、お話をして笑いながら食べることくらいだ」
胸の中で、洟を啜る音が聞こえる。
「――それにあなたを欲しいと思えなかったわけじゃない。触れてしまったら壊れてしまいそうで、あなたがいなくなってしまいそうで……それが嫌だった。それがかえってあなたを傷つけてしまったのだと、今、気付きました。本当にすまない」
「キースさん……あたし、あなたに大事にされていたんですね……店にいるときも、食事をしているときも、あなた、商人としてでしかあたしに接してくれていないように見えていたから……」
(意外と、彼女は察していたんだな……)
サンドラの告白にキースは腕にこめる力を強めて答える。
「そうですね……ずっと、遠慮していましたから……」
「普通にしてくださってよかったのに。せめて食事のときくらいは」
「ですね……」
「ですから、その話し方……」
「す、すみません……」
商人としての時間の方が長いキースにとって、地が出るのは昔からの馴染みであるアルベルトといるときくらいだ。母が幼いときに病死し、成人した頃に父が事故で他界したため、家にいるときは誰とも会話ができない。サンドラとの距離もそのせいで埋めるのが難しかったのだった。
「――でも、良かった。キースさんがあたしのことを好いてくれていて。あたしの勘違いだったらどうしようかと」
「どうしようって?」
「オスカーさんと、契約しちゃったんです。あたしが作った綴れ織壁掛けの売り上げが今の倍になって、お金が溜まったら工房をやめる権利をくれと」
「な……」
キースは彼女の台詞に驚愕する。
サンドラの今の就業環境からするとその契約はほぼ成り立たない。彼女は、自分の意思だとはいえ、食事を取らずに陽が昇る前から深夜も遅くまで織っている日もあると聞く。そんな状態であるのに、どうしたらそれだけのことができるというのか。
「え、あ、心配は要りませんよ? キースさんにご迷惑はおかけしません。お見合い結婚は嫌だってことは言いましたけど、キースさんと結婚させてくれとは言っていませんもの。気持ちを確認していないのにそんなことを言っちゃったら、ますますあたしの純潔を疑われちゃいますし」
腕の中でサンドラは見上げて、にっこりと微笑む。
「量よりも質ですよ。あたしは、要領が悪くて量産するには向いていませんけど、誰よりも美しくて丈夫な織物を作る自信はあるのです。それだけが取り柄ですから。だから、待っていて下さい。あたし、必ずあなたのものになってみせますから」
(僕はまた、彼女に酷なことを……)
胸の奥が痛む。キースはサンドラの頭を優しくなでた。彼女は気持ち良さそうに目を細める。そんな表情を見て、キースの気持ちは固まっていく。
「――サンドラ。あなたにばかり負担を掛けてはいられない」
「え?」
「オスカーさんに伝えてください。サンドラを妻にしたいと言っていると。そのためにお金が必要であるなら用意すると」
「え、でも、キースさん……?」
「僕にも協力させてくれ。ずっとそばにいようと言うのなら、君に任せているだけじゃいけないだろう?」
心配掛けさせないようにキースは微笑む。聞いてすぐに不安そうな顔をしたサンドラだったが、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「――はい。わかりました。必ずお伝えいたします」
部屋を包む芳ばしい香り。それは何よりも幸せな匂いだった。
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