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君に溺れて
しおりを挟む僕はとても弱い人間だ。
陽奈多に時を重ねる度、また深く君に溺れてゆく。
雨の届かないほどの深海に沈んでゆく。
底はまだかと思いを馳せるほど、また温かく彼女の優しさがぼくを抱き沈める。
どれだけ深くに落ちようとも、水は透き通り、大きく息を吸い込めば肺いっぱいに心地の良い温かみが広がる。
むせることも無く、体いっぱいに行き渡り、また僕は無気力になる。
足掻くべきなのだろうか。
幸せという底なき深海に、つま先まで感覚を研ぎ澄ませ落ちてゆく。
だけれども、ぼくの先には彼女の優しさだけを感じるのだ。
出会いについて話すとするならば、冒頭の一文は、「あの日は激しい雨が降っていた」と言う。
駅でのこと、傘を忘れてしまったぼくは痛々しく地面に打ち付けられる雨粒をみて、どこか同情していたのかもしれない。
ただ雲から産み落とされ、死ぬまでに何もなすことなくたった一滴の水溜まりになるだけの運命にぼくは同情していたのかもしれない。
雨の音に押しつぶされるように吐いたため息はなぜか彼女にだけ届いていた。
「あのぉ」という声に空っぽの感情と視線を向ければ隣に彼女が立っていた。
多少の雨粒が付いた傘を持ち、下を向いていた僕の顔を覗き込んでいる。
「傘、つかいますか?」
そんな一言に初めは全く意識が向かなかった。
もしかすれば、なぜかこんなぼくに声をかけ、あまつさえその唯一の傘を差し出そうとする彼女に動揺していたのかもしれないが、そんな些細なことよりもぼくは自分の退屈な身も芯もない質素な人生に憂いていた。
「傘、ないんですよね?」
数拍の沈黙を破るように発せられた彼女の一言に、やっと眠りから覚め、声がでる。
「は、はい、まあ」
今思えば、やっとのことで放たれた声がこんなにも小さく、力の無い言葉であったことに心底うんざりする。
だがきっと、通りすがりの彼女が心配するほどにぼくの目は虚ろだったのかもしれない。
「これ、つかってください」
そう言って傘を差し出してくる彼女。
ぼくは驚く気力もなく、そのまま無意識のうちに断るはずだったのだが、何も頭に無かったせいなのか、「いいんですか?」と返していた。
「えぇ、私家近いので」
と彼女はニッコリ笑って、僕の手に傘を握らせる。
この時、彼女の笑顔が虚ろな雲を飛ばして、太陽が輝き始めた。
足早に髪の毛を抑えて豪雨の中に入ろうとする彼女を、傘をぐっと握って精一杯の声で呼び止めた。
「あの! よ、よければ送ります、よ」
彼女の提案も驚く程におかしな話だが、この時のぼくもおかしかった。
普通ならばこんなにもおかしな提案は受け入れられるわけが無いのだが、これを聞いた彼女はまたニッコリと笑って「お願いしても……?」と言ったのだ。
彼女もぼくも似た者だった。
その時の帰り道はどこか感じたことのない感情で動悸が止まらなかったのを憶えている。
ずっと必死に振り絞った声で会話を伸ばし続ける。
「優しいんですね」
「あなたほどではない、です」
なんて多少しどろもどろになりつつも話し続けた。
なぜかこの時間を愛おしく感じ、弱い自分なりに細い糸を切らないようにと奮闘していた。
だけれども、僕はとても弱い人間。
僕の左肩は雨で酷いことになっていたのだが、彼女の右肩も同じ有様だということに気づかずに狭い1本の傘を差し彼女を家まで送った。
傘は後日返すと約束し、彼女と別れる。
フゥー、と今度はため息ではなく体に溜まった張り詰めた空気を抜くように息を吐く。
これが初めて陽奈多に会った時のこと。
あの日は激しい雨が降っていた。
その日以来、何度か会う約束をして、食事などに行き、ある日付き合うことになった。
付き合うまでにぼくは思った。
今までに感じたことの無い恋心というものに足を掬われ、滑り落ち、どんどんと沈んでゆく。
初めは恐ろしく、信じられなかった。
もしも、彼女が美人局ならば、ぼくの身ぐるみを皮すらも残らず剥ぎ取られるのでは無いだろうか。
ただ同時にそれとない高揚感を奥底に感じていた。
どちらも、ぼくのような弱い人間には到底ありえない感情ではあった。
だが彼女はそんなぼくを受け入れてくれた。
そして、こうして約束を交わすための指輪を握りしめているぼくがいる。
明日が勝負だと、心に杭を打った。
あの雨の日に話しかけてくれたのも、付き合うきっかけもどちらも彼女が僕に恵んでくれたものであった。
プロポーズこそはと、弱い人間なりのプライドがぼくを許さない。
そうして、指輪を机にしまった。
その日の夜、ぼくは彼女に告白された日の夢を見た。
あの日は遊園地に行った。
ひとしきり遊園地を堪能したあと、少しばかり月並みな夕食を食べた。
その後、彼女が唐突に夜景が見たいと言い出した。
じゃせっかくだし、と何かと理由をつけて彼女といる時間を伸ばす。
住んでいる街を見渡せるちょっとした高台に移動し、2人で並んで景色を眺める。
普段から過ごしている街なのに、こうして眺めてみれば、街はぼくたちを気にもとめず煌々と息をしている。
ぼくたちの存在の小ささが目に焼き付くと、ふと想いが漏れた。
ぼくは弱い人間なんだ、何なのかも分からない感情におぼれて、君に恐怖すら覚えている、どうしても卑屈になる自分がすごく憎い。
思っていることがダムが決壊したかのように雪崩てゆく。
そんなぼくの手を彼女は握った、そして呟くように話し出す。
「私ね、悠介くんのこと好きなんだ
「あの傘を貸した日から、ううん、もっと前かも
「駅で見かけたあなたは、いつだって死んだ魚のような目をしてた
「でもね、落し物をひろってあげたり、迷子の子供を助けたりさ
「光がない目をしてたのに、あなたからは優しさが溢れてたんだよ
「そんなあなたを私は自然と探しちゃうようになってた、今日は残業かな? とか考えたりしてね
「あの日、あなたのため息が聞こえた気がして、そしたら立ち尽くすあなたがいて、助けないとって思ったの
「あなたがどれだけ優しくても、その優しさで自分が報われることはない、優しさっていうのは受動的だから
「だからこれはあなたを助けたいとかそういう優しさじゃないの、私の本心
「とっても自分勝手、どうなっても受け入れてくるだろうっていうあなたの優しさに甘えてる」
ぼくは立ちすくんでいた。
感情の爆発に耐えきれず、今すぐにでもこの手すりを越えて空に溶け込みたい。
「私、あなたと暮らしたい
「あなたが弱い人間なら、ずっとそばにいる
「これがあなたから沢山優しさを貰った私がかけられる優しさ」
「受け取ってもらわないとダメだけどね」とクスッと笑って彼女はぼくの方を見た。
ぼくは彼女の方を振り向くことができない。
こんな優しさに当てられて心がいっぱいなのはきっとぼくが弱い人間だからだ。
ぼくは彼女の手をぎゅっと握る。
「ぼくだって、君からいっぱいもらってる、ぼくなんかより100倍も1万倍も優しいよ」
「よかった」とまた笑った彼女の顔を見れたのは、彼女が握った手を強く握り返してくれた優しさのおかげかもしれない。
その日は朝起きて仕事に出た。
あまりの緊張に仕事が手につかなかったことを同僚や上司に心配された。
大丈夫、大丈夫と何度も自分に暗示をかけながら帰路を辿る。
家に帰って机の棚を開けるとしまったはずの指輪が無くなっていた。
焦りと不安が津波のように押し寄せてくる。
指輪を見つけることのないまま2人で夕食を食べ、風呂に入り、と1歩を踏み出せず、日常が流れてゆく。
その間も心は押しつぶされていく。
こんな大事な時に、と自分に怒り、呪った。
そのままベッドへと入ると、自分はまた何も出来ないのかと卑屈になっていく。
そうして悔しさを拳に握りしめていると
「ね」
と彼女が抱きついてきた。
彼女の吐息が頬に当たる。
付け入る隙間がないほどに近づいたぼくたちにとっては、互いの体温がほのかに上がっていることや心拍が激しく なっていることも、言葉にせずとも分かりきっている。
「好き、好き、大好き」
と何度も彼女がぼくにキスをする。
ぼくが深く息を吐き、感情に身を委ねると焦りや不安、悔しさも怒りも息を止めた。
ぼくたちは体を重ねる。
ぼくが彼女の額にキスをした時、時刻は日付を越え、2時をまわっていた。
「私ね、あなたは弱い人じゃないと思うの」
ふと彼女が言葉をかける。
「けど強くもない」
彼女は僕の胸に左手を置いて続ける。
「あなたは言葉にしないけれど、私はあなたからの愛を沢山受け取ってる、毎日零れ落ちないようにって精一杯なの
「言葉にしないってことは自覚してないのかもしれないけれど、あなたからの溢れんばかりの愛が私を満たしてくれる
「人を愛することなんて簡単にできることじゃないよ、だから人を守れるほど強い人間じゃないけどあなたは、ゆうくんは人を愛せる、弱い人間なんかじゃない」
「私はそんなあなたが好きなの」
あぁ、また沈んでゆく。
今では体の隅々で君を感じるのことができる。
どれだけ大きく深呼吸しても尽きることなく、きみの匂いが、言葉が、愛が、優しさが、ぼくの中に溢れかえる。
きっと指輪も大切だろう、だがぼくにとってそれは、たった一言も彼女に伝えることが出来ない自分を憎んだ自分が、後を無くすように外堀を埋めるためのものだった。
指輪なんてなくったって、ぼくがひとつ言葉にするだけでいい、全てそれからで、2人で歩んでいけばいい、それを許してくれるくらい、彼女は優しさで満ち溢れている。
「陽奈多」
とぼくはその後に続く言葉を考えるより先に口にしていた。
「何?」と彼女が僕を見つめる。
僕はとても弱い人間だ。
だけれども、弱くたってやらなきゃいけない時がある。
ぼくは愛に身を委ね、彼女の方を向いた。
キラキラと光る瞳が僕の気を張りつめる。
だけれど愛の方が勝っている。
「愛してる、心の底から」
そう一言口にした時、体の全ての支配権を失った。
空気が漏れたように体がベッドに沈んでゆく。
口も思うように開かず、歯を食いしばった感覚だけが残っている。
「うん」
彼女が吐息のように相槌を打つ。
まるで次の言葉を待つように。
ぼくは言うことを聞かない体全てから、力を振り絞り、声にした。
「結婚しよう」
「うん」と言った彼女はあの時、初めて心が脈打った時と同じ表情で笑っていた。
そうだ、ぼくはその笑顔に、その優しさに恋をした。
ぼくは君に抱きしめられ、愛しさと幸せに溺れていった。
その後の話だが、後日談のような、エピローグのような気持ちで聞いてほしい。
ぼくはこの後、指輪を無くしてしまったことを正直に話した。
すると彼女はおもむろに左手をかざし、僕にみせた。
そこには無くしたはずの指輪が光っていた。
彼女は指輪を眺めながら話し始める。
「私もね、ずっと言いたかった、一緒になろうって
「でもね、ちょっと前に偶然これ見つけちゃって、その時思ったの
「きっとゆうくんは、いっつもきっかけは私だ、プロポーズは自分から踏み出さないとって思ってるなってね
「確かに、話しかけたり気持ちを伝えたのは私が最初かもしれないけど、いつだってその後に進むのはゆうくんなんだよ
「あの雨の日だって、おもむろに話しかけて、そっからはなんにも思いついてなくて、気持ち悪がられちゃうってちょっと後悔もしてた
「でも送りますって言ってくれて、すっごい嬉しかった
「いつだってあなたの優しさに救われてきたの、だからあなたには、ゆうくんには他の人なんかとは比べ物にならないくらいの優しさをかけようって、それがいつしか愛に変わった」
ぼくは彼女の左手に指を絡ませて彼女に問う。
「これも優しさ?」
クスクスっと彼女は笑って答える。
「あなたってすぐ卑屈になるでしょ?
「自分の気持ちに正直になれないじゃない?
「あなたずっと顔に出てるの、好きだーって、愛してるーって、なのに内心は怖いだとか言って」
「だからちょっと意地悪したの」
彼女はぼくの左手を布団から取り出して薬指にチュッと軽くキスをした。
「私って自分勝手なわがままな人間なの、どうしてもあなたから言って欲しかったんだ」
「愛してるから」と少し頬を赤らめながら呟く彼女。
あぁ、一体どれだけ深いのだろう。
底は見れば見るほどに遠のいていく。
もがく気力が湧くことはない。
ぼくのような弱い人間にそんな気力があるならば、今はただこの愛しさに溺れていたい。
精一杯に息を吸い込み、肺の中を君の優しさで満たしていたい。
こうして、またぼくは君に溺れてゆく。
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