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第四章 才蔵のしくじり

(一)さらわれた鈴々

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たぷたぷと桶が二つ。
水の桶に、もうひとつの桶はどろりと泥水。
「おいおい、行水になんで、泥水があるの」
才蔵がむくれる。
そこは一歩踏み出せば切り立つ崖。その下は黒々と海が広がっていた。
「ぶちぶちいうな。わしらは泥水だけでやったわ」
ぐいっと跳ねるひげに、達磨づらがぷりぷり。
「ほれ、子娘も。それで浴びるか」
しかめっつらの鈴々は腰巻も脱ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「おら、いくぞ」
ざぶりと、柄杓で泥水をかける。たっぷりかけられた。
「ふむ、ふむ臭い」
くんとにおうと、ひげ達磨はちゃぷりと柄杓を水桶に入れた。
冷やりと月明かり。まだ天空に高い。
崖の近くに古ぼけた御堂があった。がたりと扉が開く。きりっと剃り上がった、おつむに蟹の刺青。じろりと月を仰いだ。
「まずい」
蟹頭はぴしゃりと扉を閉めた。中は、ものどもでざわざわしている。
酒をぐびぐび。
「酔わねばやっておれぬ」
「ほれ、坊主」
椀には、ねっとりと白濁の酒。そのぷんとしたにおいに春竹は咽てしまった。
「おう、もったいねえ」
「お陀仏になったら呑めねえぞ」
「いける口じゃないのか」
ひょいと、蟹頭がその椀をぐびりと干した。
「酒と、この臭いが混じれば、咽もする」
春竹は苦笑い。蟹頭はにんまり。
「あとで水で洗えども、この泥臭さはきつかろう」
春竹の袈裟からも、ぷんぷん。
「面喰らったろう」
「はい。もはや泥しかにおいませぬ」
春竹は、はっとなった。
「もしや、あれは血のにおいで追ってくると、踏みましたか」
「あはは、おめえは話が早くていい。おうよ、あいつらは、俺にいわせたら狂い病の犬と似たもの。ともあれ、がぶりとやられぬこと。あとは群れてさえなければ、どうともなる」
「まさに、わらわら来るから、振り切れない」
「たまに、ひょっこりなら、首をちょん。それで骸になるのはわかった」
まったくと、ものどもも笑う。
「それにしても、よく来た。ありがてえ」
がた、がたと扉が開く。
「へえ~っ。足手まといじゃないの」
おつむをふきふき才蔵、まだぷりぷりの鈴々、ひげ達磨は早や酒の椀に手を伸ばした。
くいと蟹頭は振り向く。
「大瓦がいねえなら、せめて薬箱は欲しい」
「あたしらなの」
鈴々がなおもぷりぷりする。
「ここが、むずがゆい」
ぺんとひげ達磨が尻を叩いた。
ひゃははと笑い。
「ところで、なぜ奥の院へ。ひと喰らいが追えないなら、夜の山道を登るよりもここで夜明けを待ちましょう」
春竹の言葉に、ものどもの笑いが失せた。
「なら、おそらく夜明けは拝めまい」
ことりと、蟹頭は椀を置く。
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