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第二部「あなたに贈るシフソフィラ」編

5:ヴァールハイトの憂鬱

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『貴族街』——それは、開かずの箱のように因縁が渦巻いている場所だ。

 城門を出て緩やかな坂を下って行くと、正面に石造りの門が現れる。白い石を積み上げ形作られた無骨なそれは、建国当初からそこに存在している。長く城への道を守ってきた門に目を向ければ、太刀傷と思しきものがいくつも刻まれていることに気付くだろう。

 その門をくぐり、秋色に染まる並木道を抜けていく。色づいた葉が舞い散るのを見上げ、ヴィルは『掃き掃除が大変そうだな』と情緒のない台詞を吐いた。あまりにも憂鬱そうな横顔に問いを投げかけると、若き騎士は実にどうでもいいことを口にした。

「庭。……庭の掃除が面倒くさい」

 そんな他愛もないことを言い合いながら、並木道を抜ければ——先にあるのが『貴族街』と呼ばれるクラウゼル地区だ。貴族の邸宅が無数に立ち並ぶそこは、イクスにとっていつまでも馴染めない場所だった。

「とりあえず、これからルーヴァン侯爵の屋敷を訪ねるんだな? イクス、屋敷の場所はわかってるか?」

 のろのろと歩んでいたイクスは、隣に並んだ騎士を力なく見上げた。ここまで来たものの、普段出歩くことの少ないイクスに土地勘などあるはずもない。周囲を見渡したところで、イクスの目にはどの屋敷も同じようなものに見える。

「住所はわかる。だが、ここがどの辺かもわからん」
「……二十年近くフレースベルグにいるのに、わからないってお前なぁ。出不精にしても程度ってものがあるだろ。一日中何して過ごしてるんだよ」
「料理」
「魔法使いさん、料理人になるつもりですかー?」
「なっていいならなりたい。誰か雇ってくれるだろうか……はともかく、そもそもお前が先導すればいい話ではないのか。どうして私が前を歩いているのだ」
「それは魔法使いの自主性を育てるためにな」
「阿呆《あほう》」

 騎士の背中をぶん殴り、イクスは改めて周囲を見渡す。昼だと言うのに、石畳の道を歩く人はどこにも見えなかった。街中とは思えないほど道は静かで、かといって屋敷から物音が聞こえるわけでもない。

 静寂の街。そんな言葉が思い浮かぶほど、貴族街は静まり返っていた。瞬間、首筋に冷たいものを感じ、イクスは背後に視線を向ける。しかしそこにいるのはキールだけで、不審なものは存在していなかった。

「どうしたんですか、先生」
「……いや、何でもない」

 瞬き首を傾げたキールにおかしなところはない。ならば今感じたものは何だったのか。疑問を感じながらもキールに笑みを向けようとしたイクスは、今度こそ——本物の殺気を感じて身を翻した。

「——覚悟」

 空気を引き裂き、が振り下ろされた。脳天を砕く一撃を辛くも避けたイクスは、正面を見ることもなく身を沈める。刹那、魔法使いの頭上を凶器がかすめ、息つく間もなく袈裟懸けに振り下された。

「甘い」

 にやり、と、襲撃者は唇を歪めた。イクスは顔を歪め、指を十字に交差させる。放て、と告げると同時に、風が高く音を立て襲撃者の髪をかき乱す。一瞬だけ視界を遮られ、振り下ろされた凶器は地面を叩く。わずかな隙でも命取りになりうる状況——凶器である日傘を蹴り飛ばしたイクスは、背後に向かって叫ぶ。

「ヴィルヘルム!」
「はいよ」

 切迫した叫びに対して、返された声には笑いすら混じる。軽く地面を蹴った騎士は、滑るような足取りで襲撃者に近づき——振り上げられていた華奢な両腕を軽々と掴んだ。

「はいはいはい。そこまでですよ。それ以上やると真面目にイクスが死んでしまう」
「ヴィルヘルム様! 止めないでくださいまし! わたくしは、この悪の魔法使いを成敗しなければならないのです……!」

 悪の魔法使い呼ばわりされたイクスは、下手に笑うこともできず口を半開きにした。その視線の先で、小柄な金髪の少女が暴れている。長身の騎士に半ば吊り下げながらも、彼女はイクスを鋭く睨む。

「まあ、何ですの⁉︎ そのおかしな顔は! さてはまた、惨めなわたくしを嘲笑っているのね⁉︎」
「嘲笑ってないし、何とも思っていないぞ……そもそも。何故あなたは私を見かけるたびに襲いかかってくるのだ。そこまでされるようなことを、私がしたと言うのか?」
「言うに事欠いて白々しい……! あなたこそ、ヴィルヘルム様になにをしているのですか! 毎日毎日、ヴィルヘルム様がお優しいのにつけ込んで連れまわすなんて……言語道断です! いくらヴィルヘルム様が誰よりも優しく素敵で素晴らしい騎士だからって……誘惑するなんて許せませんわ!」
「はあ?」

 妙なところに着地した話に、イクスは顎を落とした。ヴィルと行動をともにしているのは確かだが、どうして誘惑するとか言う話になるのか。そもそもヴィルなんかを誘惑して何の得があるのだろう。

「なあ、私はお前を誘惑したのか」

 疑問は一応聞いてみるのがイクスの良いところであり悪いところだ。訳のわからない状況に追い込まれたヴィルは、斜め上を見ながら歯切れの悪い言葉を口にする。

「いやぁ……俺に本当のことを語れと言うのか……」
「ヴィルヘルム様ぁっ————‼︎ わたくしというがありながら——魔法使い許すまじ……‼︎」
「何で火に油注ぐのだお前」

 発狂する少女——ヴィルの婚約者であるマリアベル・クロア・メンフィスは、そんなイクスの横面に靴を投げつけた。

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