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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編
3-3.過ぎ去りし日々のファティマ
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回想。そんなものに意味があるとは思えなかった。だからこれはたぶん、心に残された後悔の余白。
緩やかに肩に降り積もる雪を見ていた。その人の黒い外套に降り積もる真白の色は、不似合いなほどに汚れのない色をしている。だからだろうか、彼が目の前から消えてしまうのではないかと——思わず繋いだ手に力を込めた。
すると彼は幼い子を見下ろし、静かに微笑んだ。意味も掴めぬ、それはいつも通りの笑みだったのだろう。ただ、彼は微笑んでいた。何も言わず、何も伝えず——繋いだ手だけが、彼らの間に温もりを残す。
「——さん?」
思い出は綺麗で、憧憬は色褪せない。この記憶は錆びて崩れ落ちるだけなのに、どうしてこんなに愛しく哀しいのだろう。それはきっと、彼らが本当の——でいられた、最後の時間だったからなのだ。
「キール」
微笑んだまま、その人は手を離した。何の抵抗もなく離れていく指先が、音もなく冷えていく。子供は彼を見上げ、笑おうとした。だが、出来なかった。その人の暗い色の瞳にはもう、微笑みは存在しなかった。
あるのはただ、底冷えするような孤高の感情。手のひら一つ分の隔たり、それが真の意味での永遠の別離であると、思い知らせるように。
「さらばだ、愛しい子。どうかお前だけは——」
雪が降り積もる。記憶に鍵をかけ、全てを覆い尽くすように。静かに、永遠に。
————
——
「もう、昔のことです……それでも、許されないことだとわかっています。こんな僕がノヴァに何かできるなんて、おこがましいとは思います。だけど……」
「キール君」
懺悔のような言葉を、クルスは名前を呼ぶことで遮った。穏やかな声音に責める気配はなく、かと言って慰めるわけでもない。ありのままを受け止めた静けさとともに、彼は続ける。
「あなたは、私に断罪をして欲しいのですか? あるいは、見下げた奴だと罵って欲しいのですか」
「僕は、……ただ」
「あなたが後悔していることは、私にも理解できる。どうあっても抗えぬこと……望んだところで、取り戻せない事実があるということは。けれど、それは……君自身が背負い続けなければならないことです」
微笑んで告げられた声は、限りなく優しかった。だからこそ、キールは深く自らを恥じるしかなかった。甘えるなと——頰を叩かれたような気さえした。自分でしでかした事を後悔しながらも、誰かにその事実を肯定して欲しいなんて、都合がいいにもほどがある。
顔から手を離し俯いた青年に、達観した瞳が向けられた。単純な優しさではなく、曖昧な甘さでもなく。ずっと深い真摯さを込めて、クルスはそっとキールの肩に手を置いた。
「つらいですね。誰も救ってくれない場所に取り残されるのは……たった独りきりで、痛みを抱え続けるのは。私には君がどんな想いでそれを為したのか、為さざるを得なかったのか……理解してあげることができません。ですが、これだけは言えます」
キールが顔を上げると、クルスは少しだけ目尻を下げた。語り続ける彼の方がずっと、何かを悔いているように見えたのは何故だったのだろう。哀しいのとは少し違う、痛みを堪えるようなその瞳。
「あなたは、自分の意志でそれを為したのでしょう。……ならば、それがあなたの罪です。そこから逃げることは、許されないのです。誰が赦そうとも、罰を受けようとも……それが罪であるならば」
「逃げるな、と仰るんですね」
「さて、どうでしょう。私は理不尽を見て見ぬ振りした上、助けを求めることも知らなかった幼い手を離してしまったクチですから。大層なことは言えませんけどね。ただ、もし君が誰かに罰して欲しいと願うなら……甘ったれるな、とは言いますよ」
ふっと薄く笑ったクルスは、キールの側から離れていく。自らが為したことならば、全てを背負うべき。もしそれが誰かから奪う結果になったとしても、自らの選んだことなら言い訳はできないのだと。
それらを含めての甘ったれるなに、キールは強く両手を握りしめた。この手は汚れている。それでも、一度掴んでしまったものを手放すのは、さらなる罪悪を呼ぶのではないか。
「……キールちゃん、だいじょうぶ? おなか、痛いの?」
「ノヴァ」
握りしめた手に、小さな手が触れる。痛みを紛らわせようとするように、手を撫でてくれるぬくもり。その温かさがあまりにも切なくて、キールは強く瞳を閉ざす。
「キール、ちゃん?」
「だいじょうぶ。大丈夫だよ……ただ、ちょっとだけ。痛かっただけなんだ」
俯いた頭を、小さな手が撫でてくれる。けれどキールの罪は消えてくれない。永遠の憧憬とともに、叶わぬ願いとして心にあり続けるのだろう。だが、それは他の誰でもなく、キール自身が望んだことだ。
「キールちゃん、泣かないで。ノヴァが……ずーっと一緒にいるからね?」
優しい言葉、温かい手。それでも救われない己を呪いながらも——彼《キール》はかつてを悼み手を握りしめた。
緩やかに肩に降り積もる雪を見ていた。その人の黒い外套に降り積もる真白の色は、不似合いなほどに汚れのない色をしている。だからだろうか、彼が目の前から消えてしまうのではないかと——思わず繋いだ手に力を込めた。
すると彼は幼い子を見下ろし、静かに微笑んだ。意味も掴めぬ、それはいつも通りの笑みだったのだろう。ただ、彼は微笑んでいた。何も言わず、何も伝えず——繋いだ手だけが、彼らの間に温もりを残す。
「——さん?」
思い出は綺麗で、憧憬は色褪せない。この記憶は錆びて崩れ落ちるだけなのに、どうしてこんなに愛しく哀しいのだろう。それはきっと、彼らが本当の——でいられた、最後の時間だったからなのだ。
「キール」
微笑んだまま、その人は手を離した。何の抵抗もなく離れていく指先が、音もなく冷えていく。子供は彼を見上げ、笑おうとした。だが、出来なかった。その人の暗い色の瞳にはもう、微笑みは存在しなかった。
あるのはただ、底冷えするような孤高の感情。手のひら一つ分の隔たり、それが真の意味での永遠の別離であると、思い知らせるように。
「さらばだ、愛しい子。どうかお前だけは——」
雪が降り積もる。記憶に鍵をかけ、全てを覆い尽くすように。静かに、永遠に。
————
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「もう、昔のことです……それでも、許されないことだとわかっています。こんな僕がノヴァに何かできるなんて、おこがましいとは思います。だけど……」
「キール君」
懺悔のような言葉を、クルスは名前を呼ぶことで遮った。穏やかな声音に責める気配はなく、かと言って慰めるわけでもない。ありのままを受け止めた静けさとともに、彼は続ける。
「あなたは、私に断罪をして欲しいのですか? あるいは、見下げた奴だと罵って欲しいのですか」
「僕は、……ただ」
「あなたが後悔していることは、私にも理解できる。どうあっても抗えぬこと……望んだところで、取り戻せない事実があるということは。けれど、それは……君自身が背負い続けなければならないことです」
微笑んで告げられた声は、限りなく優しかった。だからこそ、キールは深く自らを恥じるしかなかった。甘えるなと——頰を叩かれたような気さえした。自分でしでかした事を後悔しながらも、誰かにその事実を肯定して欲しいなんて、都合がいいにもほどがある。
顔から手を離し俯いた青年に、達観した瞳が向けられた。単純な優しさではなく、曖昧な甘さでもなく。ずっと深い真摯さを込めて、クルスはそっとキールの肩に手を置いた。
「つらいですね。誰も救ってくれない場所に取り残されるのは……たった独りきりで、痛みを抱え続けるのは。私には君がどんな想いでそれを為したのか、為さざるを得なかったのか……理解してあげることができません。ですが、これだけは言えます」
キールが顔を上げると、クルスは少しだけ目尻を下げた。語り続ける彼の方がずっと、何かを悔いているように見えたのは何故だったのだろう。哀しいのとは少し違う、痛みを堪えるようなその瞳。
「あなたは、自分の意志でそれを為したのでしょう。……ならば、それがあなたの罪です。そこから逃げることは、許されないのです。誰が赦そうとも、罰を受けようとも……それが罪であるならば」
「逃げるな、と仰るんですね」
「さて、どうでしょう。私は理不尽を見て見ぬ振りした上、助けを求めることも知らなかった幼い手を離してしまったクチですから。大層なことは言えませんけどね。ただ、もし君が誰かに罰して欲しいと願うなら……甘ったれるな、とは言いますよ」
ふっと薄く笑ったクルスは、キールの側から離れていく。自らが為したことならば、全てを背負うべき。もしそれが誰かから奪う結果になったとしても、自らの選んだことなら言い訳はできないのだと。
それらを含めての甘ったれるなに、キールは強く両手を握りしめた。この手は汚れている。それでも、一度掴んでしまったものを手放すのは、さらなる罪悪を呼ぶのではないか。
「……キールちゃん、だいじょうぶ? おなか、痛いの?」
「ノヴァ」
握りしめた手に、小さな手が触れる。痛みを紛らわせようとするように、手を撫でてくれるぬくもり。その温かさがあまりにも切なくて、キールは強く瞳を閉ざす。
「キール、ちゃん?」
「だいじょうぶ。大丈夫だよ……ただ、ちょっとだけ。痛かっただけなんだ」
俯いた頭を、小さな手が撫でてくれる。けれどキールの罪は消えてくれない。永遠の憧憬とともに、叶わぬ願いとして心にあり続けるのだろう。だが、それは他の誰でもなく、キール自身が望んだことだ。
「キールちゃん、泣かないで。ノヴァが……ずーっと一緒にいるからね?」
優しい言葉、温かい手。それでも救われない己を呪いながらも——彼《キール》はかつてを悼み手を握りしめた。
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