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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編

4-1.それは誰のための心音

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「いっぱい、見たことないもの! ね、みてみて、キールちゃん!」

 ノヴァはキラキラと目を輝かせ、村の通りを駆けていく。水色のワンピースの裾が軽やかに舞い、髪と耳が楽しげに風に揺れている。後ろをゆっくり歩みながら、キールは微笑みを少女に向けた。

「ノヴァ、そんなに走ると転ぶよ」
「だいじょうぶ! ノヴァ、ちゃんと前見てるから。ね、ロランあれは何⁉︎」

 隣に並んだロランは、面倒そうな様子も見せず質問に答えてくれる。子供同士、気が合っているなら何よりだろう。大人に囲まれていては息がつまることもあるかもしれない。

 夕刻が近づく太陽の下、子供たちの足音は軽快に響く。周囲を歩く人々も、最初は戸惑いの色を浮かべていたものの、次第にそれも薄れていった。それはノヴァの快活さがもたらした部分も大きい。

「あ、あれなんだろ! 何だかもこもこしてる」
「あーあれな。ラッセンノームヘアーだよ。雑貨屋の看板ウサギ……っていうのも変か?」
「ウサギ! ウサギさんもこもこしてる! あ、耳がピンってなった……ノヴァと似てる!」

 雑貨屋の店先で座っていたもこもこしたもの——ラッセンに生息するウサギににノヴァは駆け寄た。うさぎは頭を低くして、ノヴァの様子を伺っている。その黒い瞳を見つめた少女は、ロランに向かって首をかしげて見せた。

「なんか、ノヴァのことこわがってる?」
「こいつ警戒心強いからなー。ほら、とりあえずおやつやってみろって。仲良くなるにはなるべく視線を同じにしてな……」

 ウサギを前にして動かなくなった二人に、キールは苦笑いを向ける。子供の好奇心はどこまでも限りがなく、このままでは家にたどり着く前に暗くなってしまいそうだ。出来ればなるべく早く帰りたい——そう考えたキールは、ウサギを撫でてる子供たちに声をかけようとした。

「二人とも——」
「キール、さん!」

 不意に袖を引かれ、キールは弾かれたように振り返った。夕闇が迫る空の下、まるで闇を背負うように立つ少女が一人。驚いて瞬く青年を見つめ、少女——ミレイユは暗い瞳で問いを投げる。

「どうして、あの子が一緒なんですか」
「ミレイユ……? どうしたんだ、一体」
「ボクはあの子嫌です。キールさんにも怪我をさせたのに、どうして平気な顔してられるんですか?」

 キールの言葉も耳に入らないのか、不安定な表情のままミレイユは言う。深い青の瞳は泥のように淀み、そこが見通せない。あれほど明るかった彼女の様子がおかしいことに、キールは今更ながら気づく。

「ミレイユ、一体どうしたんだ。僕の言ったことを気にしているなら……」
「そんなことはどうでもいい!」

 短い叫び。少女らしからぬ低い声に、キールは目を見開いた。そこでやっとロランたちも異変に気付き、驚いたような顔で駆け寄ってくる。

「姉ちゃん? なんだよおっかない顔して。何怒ってんだよ」
「ロランあんたも……! そんなのと一緒にいるんじゃない。さっさと離れなさいよ!」
「な……! 突然なんだよ意味わかんねー! ノヴァが何したって言うんだよ!」

 姉の剣幕にたじろぎつつも、弟は理不尽な物言いに声を上げた。まずい、キールはそう感じたものの、下手な物言いは火に油を注ぎかねない。しかし、その一瞬の迷いが、さらなる混乱を場にもたらす。

「何って、決まってるでしょ。……そいつは……」

 だめだ。反射的にキールは手を伸ばそうとした。だがそれよりも早く、ミレイユの口がその単語を紡ぎ出す。

「そいつは、だ! 人間にそんな耳や尻尾があるわけないでしょう⁉︎」

 しん、と、周囲に静寂が降り注いだ。あまりの物言いに、ロランは口を半開きにしたまま動かない。キールもまた、たしなめることも出来ず——ノヴァを見れば、幼い顔に困惑を浮かべていた。

「ノヴァ……バケモノ、なの?」

 誰もがその問いを、心で聞いていた。バケモノなどと、そんな風に思うはずもない。けれど結局のところ、心の何処かで否定できない想いが存在していた。

 彼女は一体、何者なのだろう——?

 そのわずかな隙間が、ほんの少しのためらいが。まるで全ての悪意を凝縮したように、たった一つの崩壊の言葉を後押しした。

「そうだよ……あんたは、バケモノ。人間のふりなんかして、いやらしいにも程があるよ……!」

 ミレイユは嗤った。純粋すぎる悪意に、寒気がするほどで。キールは何も理解できなかった。なぜミレイユが……よりによって彼女が、こんな言葉を吐きちらすのだ?

「姉ちゃん! いくらなんでも言い過ぎだ……! ちょっと普通と違うからって、そんな風に言うのどうかしてる!」
「どうかしてるのはあんたたちの方だよ! なんでそんなに違うのに、同じだなんて思い込めるの⁉︎ 違うものは絶対に同じにならないんだ! もしそいつが突然襲いかかってきたら、どうするつもりなの!」
「だから、ノヴァはそんなやつじゃねーよ! 姉ちゃんおかしいぞ⁉︎ なんで急にそんな風になっちゃったんだよ⁉︎」

 おかしい。そう考えれば考えるほど、意味が遠ざかってく。キールが手を握りしめると、そこに白い花が咲き始める。おかしい、そう。おかしいのだ確かに。けれどその齟齬《そご》の理由すらつかめない。

「けんか、しないで……ノヴァがわるい子なら、あやまるから……!」
「黙れバケモノ! 人間でもないくせに、人の言葉を喋るな!」

 だが、現実は目の前にしかない。理由を追い求めたところで、ノヴァがいまにも泣き出しそうなことには変わりなく、ミレイユが醜い感情を吐き出し続けていることは事実なのだ。

「——やめなさい‼︎」

 叫びは、悲鳴に似ていた。大きく息を吐き出し、キールは子供たちを見つめる。ロランはばつの悪そうな表情を浮かべたが、ミレイユの瞳は憎悪に凍っている。ノヴァは……泣き出す寸前の顔で両手を握りしめていた。

「やめなさい……頼むからやめてくれ。ミレイユ……ノヴァのことは全て僕に責任がある。思うところがあるなら、全て僕に。ノヴァを責めるのは……やめてくれ」
「キールさん……どうしてこんな奴をかばうんですか。どうして。なんの理由があるって言うんですか!」
「それは」

 どうして、と言われれば、オーリオールの言葉があったから。だがそれだけの理由で、ノヴァを守っているわけではない。彼女が最初に向けた、本当の心。その音がキールを、ギリギリの場所で押しとどめたから。

 キールはまっすぐにミレイユの瞳を見返す。納得させられる理由だとは思えない。しかし結局、キール自身がそれに心動かされたこと以上の意味はないのだ。

「たすけて、と言われたから。……それ以上の理由はないよ」
「なんで、すかそれ……バッカじゃないの⁉︎ そんな理由で……そんな言葉でボクは……!」

 青い瞳が燃え上がるような激しさを向けてきた。泣き出す一瞬前のように引き結ばれた唇が、何かを紡ごうとして——時が止まったように凍る。見つめるキールの視線の先で、ミレイユは両手を握りしめ深く俯いた。

「だったら、好きにすればいい。何があっても……ボクは知りませんから」

 そう言い捨てて、ミレイユは踵を返した。去っていく細い背中には暗い感情しか感じられず、キールは細い息を吐き出した。どうしてこうなったか、と言われれば、自身の不甲斐なさが起因しているとしか考えられないが——

「大丈夫か、ノヴァ。それにロランも」
「オレは大丈夫だよ。てか、ねーちゃんなんだよあれ! おかしいにも程があるって……な、気にすんなよノヴァ。今の姉ちゃんなんか変なだけだから」
「うん……だいじょうぶ。ノヴァ、気にしてないよ」

 本当に消え入りそうに、ノヴァは笑った。あまりの儚さにキールが手を伸ばせば、少女はゆっくり首を振り——こう一言呟いた。

「ノヴァが、人と違うのがわるいの。だからあの子は……まちがってない」
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