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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編
4-3.Fragile Melt
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川を挟んで対峙したところで、心に抱いた想いの距離は変わらない。近づこうとしても近づききれず、キールは立ち止まったまま歯噛みした。なぜ生きているのか。疑問が胸を覆い尽くしても、答えは目の前にしか存在しなかった。
「数年ぶりか。大きくなったものだ、キール」
淡く吐き出された声は、感情も込められずに霞んでいく。微笑んだ顔は、最後に決別した頃となんら変わりない。優しくもなく、されど冷たくもない無関心だけを詰めた細面。ずっと傍にあったはずのなのに、何一つ理解を求めなかったその漆黒の立ち姿。
とうの昔に、過去に変わったはずだった。にもかかわらず、キールの身体は意志に反して震え始めていた。ノヴァの温かな手のひらが、励ますように腕に触れる。そこで初めて、キールは自分が怯えていることに気づいた。
「どう、して。どうして、お前がここにいる。確かにお前は、僕が殺したはずなのに」
「そうだな、確かに私はお前に殺された。それは動かしがたい事実ではあるが。しかしながらお前は相変わらず詰めが甘い。私の息が確かに絶えたのを確認しなかった。それは、どう考えても手落ちであったな」
「殺し損ねた、ということなのか。なら、僕がしたことは」
震えが止まらないのは、決して寒さのせいではない。明確な終焉を前にして、キールは両腕で体を搔き抱いた。この場にフラメウが現れた理由など、一つしか思いつかない。悪意には悪意をもって返す。それがフラメウという魔法使いであり、彼の万能の力の根源でもあったから。
「理解が早いのは、お前の数少ない美点だよ。愚かなキール。我が不肖の弟子よ」
黒衣の向こうから、手袋をに覆われた手が現れる。音もなく指先を突きつける仕草を、キールはただ見ていることしか出来なかった。なんの言葉もなく、何一つの音もなく。フラメウの魔法は、青年の全てを奪い去っていく。
「う……っ、ああぁっ!」
はじめに、喉が動きを止めた。呼吸もできず、声もかき消える。ノヴァが叫び、何事か語りかけてきた。しかしその時には耳も音を断たれ、残された感覚も暗闇に閉ざされていく。
「私を殺そうなどと、愚かなことを」
暗闇の中で、フラメウの声だけが響く。呪詛のように心を破壊していくのは、師であったはずの男の精神魔法。キールが唯一得意とした魔法を用いて、彼は弟子を責め立てた。苦しみを嘲笑い、悲鳴を冷笑する。あまりの憎悪と執着に、蹂躙された精神はただ訴えるしかない。
「やめて。やめてください……僕は、ただあなたに」
「今更語ることなど無意味だろう。お前はここで死ぬ。ただそれだけの結末しか存在しないのだから」
暗闇しかない。世界は暗闇だった。思い出せるのは、かつて手を繋いだ記憶と、血に染まった両手の光景。ナイフを手に胸を突き刺したのは、確かに彼自身の手だった。血の海に沈んだ師を見下ろしても、涙も流れなかった。これは、求めていたものではない。そう気づいても、二度と戻れない。
どうしてこんな風に変わってしまったのだろう。心に降り注ぐ白い雪は、ありし光景を美しく描き出していく。何も言わなくてもいい。振り返ってくれなくてもいい。ただ傍にいて、傍で笑っていてくれれば、それで良かったのに。何もかもを壊したのは、どちらの方だったのだろうか。
「共にいこう。それだけが、我らに相応しい幕引きだ」
手が、喉を絞め上げた。苦しいとは、もう思えなかった。この苦痛に終わりがあるというのならば、どんな結末であっても受け入れるのだと——
「——それは、ちがいます」
耳元で響く、凛とした声音。温かさと優しさに包まれた手が、喉を絞めるそれを振り払った。キールは震えながら目を開く。立ち尽くしたまま正面を見つめれば、そこには顔を歪めた師がいた。
「相変わらず、私の邪魔をするのだな。オーリオール」
「それは、わたしを創造した者の名でしかありません。わたしは、アステリアノーヴァ。ノヴァ、と呼んでいただいても構いませんが」
光をまとい、川面に足を触れさせた少女——ノヴァは、恐れることなくフラメウに対峙する。幼げな姿に反した高潔な気配は、無邪気な少女と重ならない。ふらつきながら膝をつき、キールは小さな背中に呼びかける。
「君は、ノヴァ、なのか」
「はい、キールさん。わたしもまたノヴァです。だからわたしは、あなたの敵ではない。今は、それだけを信じて」
振り返ることなく告げ、ノヴァは片手をフラメウにかざす。たったそれだけの動作だった。フラメウは短く息を吐き出し、背後へと跳躍した。瞬間、彼のいた場所が陥没し、青い炎が吹き上がる。
「次は当てます。だから、今は退いて頂けないでしょうか」
「物質系の魔法か。オーリオールとも違う系統のようだが……なるほど貴様、師を喰ったな」
笑みを歪めるフラメウに、ノヴァは何も答えず両手を突き出す。同時に巻き起こるのは、旋風と氷刃の乱舞。川面を乱し大地をえぐるその一撃に、フラメウは高らかに笑う。素早く黒の外套を払った魔法使いは、指を打ち鳴らしながら叫んだ。
「いいだろう! 今はその命、我が師とその人形に免じて見逃してやろう。だが、覚えておくがいい。私は——」
すっと、黒い姿は搔き消える。言葉もなく息を吐き出したキールに、ノヴァが静かに手を差し伸べた。見上げるしかない青年に向かい、少女であったはずの者は寂しげに微笑みかける。
「キール、ちゃん」
何も言うことができなかった。わずかばかりの断絶が、彼らから語り合う言葉を奪う。月明かりが地上を照らしても、たとえ横顔に浮かぶ笑みが同じであっても。確かに存在していた何かは、今となっては遠いものに変わってしまったのではないかと、そんな気さえする。
ノヴァの獣の耳が、悲しそうに伏せられた。キールは差し出された手に触れることもできず、かといって拒絶することもなく。ただ俯き、静かにまぶたを下ろす。
——私は諦めない。必ずお前を、同じ場所に連れていく。
「フラメウ、あなたはどうして」
目を逸らしたところで、世界は止まることもない。ノヴァの手が髪を撫でても、何が変わるわけでもない。
今、冷たさに震える心にある感情は——幼い日に抱いた絶望の形に似ていた。
「数年ぶりか。大きくなったものだ、キール」
淡く吐き出された声は、感情も込められずに霞んでいく。微笑んだ顔は、最後に決別した頃となんら変わりない。優しくもなく、されど冷たくもない無関心だけを詰めた細面。ずっと傍にあったはずのなのに、何一つ理解を求めなかったその漆黒の立ち姿。
とうの昔に、過去に変わったはずだった。にもかかわらず、キールの身体は意志に反して震え始めていた。ノヴァの温かな手のひらが、励ますように腕に触れる。そこで初めて、キールは自分が怯えていることに気づいた。
「どう、して。どうして、お前がここにいる。確かにお前は、僕が殺したはずなのに」
「そうだな、確かに私はお前に殺された。それは動かしがたい事実ではあるが。しかしながらお前は相変わらず詰めが甘い。私の息が確かに絶えたのを確認しなかった。それは、どう考えても手落ちであったな」
「殺し損ねた、ということなのか。なら、僕がしたことは」
震えが止まらないのは、決して寒さのせいではない。明確な終焉を前にして、キールは両腕で体を搔き抱いた。この場にフラメウが現れた理由など、一つしか思いつかない。悪意には悪意をもって返す。それがフラメウという魔法使いであり、彼の万能の力の根源でもあったから。
「理解が早いのは、お前の数少ない美点だよ。愚かなキール。我が不肖の弟子よ」
黒衣の向こうから、手袋をに覆われた手が現れる。音もなく指先を突きつける仕草を、キールはただ見ていることしか出来なかった。なんの言葉もなく、何一つの音もなく。フラメウの魔法は、青年の全てを奪い去っていく。
「う……っ、ああぁっ!」
はじめに、喉が動きを止めた。呼吸もできず、声もかき消える。ノヴァが叫び、何事か語りかけてきた。しかしその時には耳も音を断たれ、残された感覚も暗闇に閉ざされていく。
「私を殺そうなどと、愚かなことを」
暗闇の中で、フラメウの声だけが響く。呪詛のように心を破壊していくのは、師であったはずの男の精神魔法。キールが唯一得意とした魔法を用いて、彼は弟子を責め立てた。苦しみを嘲笑い、悲鳴を冷笑する。あまりの憎悪と執着に、蹂躙された精神はただ訴えるしかない。
「やめて。やめてください……僕は、ただあなたに」
「今更語ることなど無意味だろう。お前はここで死ぬ。ただそれだけの結末しか存在しないのだから」
暗闇しかない。世界は暗闇だった。思い出せるのは、かつて手を繋いだ記憶と、血に染まった両手の光景。ナイフを手に胸を突き刺したのは、確かに彼自身の手だった。血の海に沈んだ師を見下ろしても、涙も流れなかった。これは、求めていたものではない。そう気づいても、二度と戻れない。
どうしてこんな風に変わってしまったのだろう。心に降り注ぐ白い雪は、ありし光景を美しく描き出していく。何も言わなくてもいい。振り返ってくれなくてもいい。ただ傍にいて、傍で笑っていてくれれば、それで良かったのに。何もかもを壊したのは、どちらの方だったのだろうか。
「共にいこう。それだけが、我らに相応しい幕引きだ」
手が、喉を絞め上げた。苦しいとは、もう思えなかった。この苦痛に終わりがあるというのならば、どんな結末であっても受け入れるのだと——
「——それは、ちがいます」
耳元で響く、凛とした声音。温かさと優しさに包まれた手が、喉を絞めるそれを振り払った。キールは震えながら目を開く。立ち尽くしたまま正面を見つめれば、そこには顔を歪めた師がいた。
「相変わらず、私の邪魔をするのだな。オーリオール」
「それは、わたしを創造した者の名でしかありません。わたしは、アステリアノーヴァ。ノヴァ、と呼んでいただいても構いませんが」
光をまとい、川面に足を触れさせた少女——ノヴァは、恐れることなくフラメウに対峙する。幼げな姿に反した高潔な気配は、無邪気な少女と重ならない。ふらつきながら膝をつき、キールは小さな背中に呼びかける。
「君は、ノヴァ、なのか」
「はい、キールさん。わたしもまたノヴァです。だからわたしは、あなたの敵ではない。今は、それだけを信じて」
振り返ることなく告げ、ノヴァは片手をフラメウにかざす。たったそれだけの動作だった。フラメウは短く息を吐き出し、背後へと跳躍した。瞬間、彼のいた場所が陥没し、青い炎が吹き上がる。
「次は当てます。だから、今は退いて頂けないでしょうか」
「物質系の魔法か。オーリオールとも違う系統のようだが……なるほど貴様、師を喰ったな」
笑みを歪めるフラメウに、ノヴァは何も答えず両手を突き出す。同時に巻き起こるのは、旋風と氷刃の乱舞。川面を乱し大地をえぐるその一撃に、フラメウは高らかに笑う。素早く黒の外套を払った魔法使いは、指を打ち鳴らしながら叫んだ。
「いいだろう! 今はその命、我が師とその人形に免じて見逃してやろう。だが、覚えておくがいい。私は——」
すっと、黒い姿は搔き消える。言葉もなく息を吐き出したキールに、ノヴァが静かに手を差し伸べた。見上げるしかない青年に向かい、少女であったはずの者は寂しげに微笑みかける。
「キール、ちゃん」
何も言うことができなかった。わずかばかりの断絶が、彼らから語り合う言葉を奪う。月明かりが地上を照らしても、たとえ横顔に浮かぶ笑みが同じであっても。確かに存在していた何かは、今となっては遠いものに変わってしまったのではないかと、そんな気さえする。
ノヴァの獣の耳が、悲しそうに伏せられた。キールは差し出された手に触れることもできず、かといって拒絶することもなく。ただ俯き、静かにまぶたを下ろす。
——私は諦めない。必ずお前を、同じ場所に連れていく。
「フラメウ、あなたはどうして」
目を逸らしたところで、世界は止まることもない。ノヴァの手が髪を撫でても、何が変わるわけでもない。
今、冷たさに震える心にある感情は——幼い日に抱いた絶望の形に似ていた。
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