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外伝「君と見上げた空は眩しくて」――ヴィルヘルム編

5:愛とは後悔しないこと

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 次第に西の方へと傾いて行く太陽。それをぼんやりと見上げたヴィルヘルムは、深いため息をついた。

「……あーあ」

 やってしまった。ぼうっと、池の縁に佇みながら呟く。ついに、決定的な言葉を放ってしまった。
 虚ろな笑みを浮かべ、騎士であったはずの青年は肩を落とす。その姿を見るものがいれば、『意気消沈』という単語を口にしたかもしれない。少なくとも、『あんな言葉』を吐いた後には到底見えなかった。

「……嫌になるな、ホント」

 髪をかき回すだけかき回して、ヴィルは構わずその場に座り込んだ。あれだけのことを言い放っておきながら、彼はまだ公園から離れられずにいた。未練がましく夏草を摘んでは、ちぎって放り投げる。

 言うまでもなく、結局は『未練』なのだ。これ以上、マリアベルを自分の人生に巻き込みたくない——そう思ったところで、彼女はいつまでも待っていてくれる。それに甘えて結論を先延ばしにした結果、いつしか八年もの時が流れていた。

 そう、八年だ。ヴィルは、草を摘んだ指先を見つめる。かつては少年らしさが抜けきらなかったヴィルも、じきに三十歳に手が届く。そして少女だったマリアベルも、当然ながら大人の女性になっていた。

 通り過ぎた年月を無意味だと思うことはない。だが、たまにヴィルヘルムは考えてしまうのだ。
 もし、あの頃——本当に手遅れになってしまう前に、自分に出来ることはなかったのかと。一つでも何かを成すことができたなら、あるいはあんな結果にはならなかったのかもしれないとも。

 今更、取り戻すことのできないことだと人は言うだろう。だが仮に、ヴィルヘルムの行動で何かが変わる可能性があったのならば、それをしなかったのは——罪ではないのだろうか?

 全ては終わってしまったことだ。しかし騎士はいつまでもその考えから抜け出せずにいる。もし、仮に、あるいは——そんな思考の先にはいつも、かつて青年が抱いていた未来への希望が凝《こご》っていた。

 風が指先から夏草をさらって行く。飛んで消えて行くばかりのそれを、ヴィルは無言で見つめていた。

 かつてのヴィルは、この先にある未来が希望に満ちていると疑うこともなかった。多くは他愛もないことばかりだったが、その中には確かにマリアベルとの未来も含まれていた。

 だが、魔法使いが『孤高』へと堕ちたあの日に——彼の未来は全て、かけらも残さず砕け散ったのだ。

「だから、たぶん」

 これで良かったのだ。薄青い瞳に悲哀に似た感情が揺れる。『英雄』の称号と引き換えに、かつて存在していた少年の希望は死に絶えた。そこに至ってやっと、父の苦悩に気づけたのは今更な皮肉でしかなかったが。
 かつての希望の残骸でしかない自分に、これ以上マリアベルを付き合わせるわけにはいかない。ここが潮時なのだ。たとえヴィル自身がどう思っていようと、そんなものは何の意味もない——。

「これで良かったんだ」
「……何が良かったんですの?」

 ——幸せの中にいる限り、自分だけはその幸せに気づけない。そういうものだと理解していても、人間というのは当事者にならなければ気づきもしないのだ。

 ヴィルは振り返ろうとして、結局動くことも出来ず池を見つめた。さほど綺麗でもない中途半端な淀みは、今の心情に似ている。背後の彼女に対して向けた声は、奇妙なほど歪んでいた。

「まだ、俺に用があるのか。お前も大概しつこいな」
「あら。わたくしが追いかけて来なかったら、いつまでもそこで座り込んでいたのでしょう? わざわざ迎えにきてあげたのですよ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いなんてありませんわ」
「……何しにきた」

 ヴィルヘルムが低く唸っても、背後の彼女——マリアベルは笑うだけだ。
 あれだけのことを言われて、何故わざわざ追いかけてきたのか。疑問に感じたものの、それを問うだけの余裕があるわけでもない。騎士は黙って立ち上がると、その場から歩き出そうとした。しかし、その時。

「また、逃げるのですか」

 投げかけられたのは、笑みの含まれた声。予想外の声音と言葉の内容に、ヴィルヘルムは思わず足を止める。
「逃げるのですね、あなたは。そうやって、辛くて苦しいことから何度でも」
「何を、言っている。俺が……逃げるだと」

 言葉を重ねられ、ついにヴィルヘルムは耐えきれずに振り返った。厳しい瞳をマリアベルに向ければ、それ以上に強く険しい瞳が見つめ返してくる。一時だけ言葉を失いながらも、青年は仮面を崩さず唇を歪めた。

「俺は騎士だぞ。その俺が何から逃げるって言うんだ」
「全部。ありとあらゆる全てから逃げているではないですか。過去だけを見つめて、未来を否定して……魔法使いにこだわり続けているのだってそう。あなたは、自分が幸せだった頃の幻に縋りたいだけなのでしょう?」

 情けないもののように言われて、ヴィルヘルムの眉間に深いしわが刻まれる。縋っているなどと、そんな容易い言葉で片付けられるものではないのだ。けれど、その想いをマリアベルが理解できるとは思えない。

「やめろ……お前には、絶対にわからない」
「ええ、そうですわね。わたくしも、わかりたくはないですわ」

 切り返す言葉は鋭い。半ば睨むようにヴィルを見た女は、薄く笑むと言葉を投げつけてくる。

「だってあなたのことが『わかる』だなんて、物分かりのいいことを言ったって、あなたはわたくしの気持ちは何一つ理解していないかったではないですか。そんな人がどうして自分のことを理解出来るというのです? どうして目の前の物事から……わたくしから逃げ出そうとしているのかもわからないのでしょう?」

 確信めいた言葉を吐かれ、騎士は苛立ちとともに息を吐き出した。自分で自分を語るのはいい。だが、マリアベルにまでそれ語られるのは、ヴィルにとってあまり気分のいいことではなかった。

「お前には俺のことがわかるって言うのかよ」
「ええ、わかりますわ。だってわたくしは、あなたをずっと見てきたのですよ。魔法使いほどではなくても」

 悲しみなどかけらも見せず、マリアベルはかつての少女の顔で笑う。昔と変わりない晴れやかさをヴィルヘルムに向けて、彼女は世間話のように軽く言い放ったのだ。

「あなたが、どうしようもないくらいに臆病で、救いようがないほどの卑怯者だってことは知っていますわ——ヴィルヘルム」

 二人の間を裂くように、冷えた風が吹き抜けていった。目を伏せた青年は、皮肉のように笑う。壊れたように笑い声を立て、再び視線を上げたヴィルヘルムは、何かを諦めたように悲しい表情を浮かべていた。

「……なるほどな。確かにお前の言う通りだ」
「ヴィルヘルム……」
「俺は……確かに臆病だよ。あの時……全部が壊れたあの頃。俺が何かしていれば、あんな結末にはならなかった。けれど選べたのは結局、何もかもを破壊することで……それでも、その選択を肯定することも……」
 流れて行った時間を思えば、大したことのないことだとも言えた。けれど、ヴィルヘルムの顔に笑顔はない。選択を肯定できたなら、どれほど楽だっただろう。だが今となってはそれも無意味な仮定だった。

「わからなくなったんだ、何もかも。俺のやったことは罪でしかないのに、皆はそれが正しいのだと……そう言って俺を『英雄と呼んだ。俺は間違いを犯したのに、そんな俺に皆は感謝するんだよ。おかしいだろう……俺は、あいつを助けてやれなかったのに。あいつを……殺すことしかできなかったのに!」

 騎士の手には、かつて流れた赤い色は残っていない。それでも魔法使いを貫いた感触が消えることはないのだ。大切だったはずのものを壊した。その一点だけで、ヴィルヘルムの心は砕けてしまえた。

 それでも今、呼吸していることを悲しいと思える。そう考えてしまう程度に過去に囚われているし、苦しみも消えていない。その程度に心は生きているし、だからこそ失うことを恐れもするのだ。

「怖いんだ。こんな風に考え続けるしかない俺は……きっと、いつかまた大切なものを壊してしまう。守りたかったものを傷つけるくらいなら……もう、そばに誰もいなくていい。俺はきっと、お前を傷つける」

 長い独白を終えたように、ヴィルヘルムは息を吐き出した。その顔は死人のように白く、生気が消え去っている。そんな悲しい姿を見つめたマリアベルは、そっと寂しげな笑みを浮かべた。

「そう……あなたも、苦しんできたのですね」
「マリアベル……すまない」
「謝らないでくださいな。あなたが傷ついていることを知っていても、私は踏み込むことも出来なかった。それが結局あなたのを一人にしてしまったのだと……今になっては思います。あなたは優しいけれど、そこまで強い人ではないと気づいていたのに……だけど。最後にこれだけは言わせてくださいね」

 顔を伏せ、マリアベルは歩み寄る。緩やかに夏草が揺れ、柔らかな香りが舞い上がっていく。彼女は動くことのできないヴィルの前に立つと、静かにその顔に手を伸ばす——

「——こんの——バカ男‼︎」

 ばしん、と。激しい音が高く空に響き渡った。頰に手をてたヴィルは、目の前の令嬢を呆然と見下ろす。だが何も言えないうちに、その攻撃はおそるべき勢いで開始された。

「さっきから聞いてればウジウジうじうじと! 自分だけが苦しんでいると思っているの⁉︎ あの頃を知っている人なら、誰だって何かを失っているのよ⁉︎ それなのにあなたはまるで悲劇の主人公みたいにグチグチぐちぐち……思い上がるのもいい加減にしなさいよ! 騎士が聞いて呆れるわね‼︎」

 ぽかんと口を半開きにして、騎士はそれを見つめていた。言葉が右から左に流れていくが、その攻撃はもれなく心を粉砕する。一体、なぜこんなことになったのか。疑問とともに攻撃は続く。

「大体、あなたは口を開けばイクスイクスって……私の立場はどうなるのよ! 刷り込みされたヒヨコじゃあるまいし、いい歳していつまでも後ろ付いて回ってるんじゃないわよ‼︎ 婚約者よりも魔法使いがいいって言うなら、そもそもなんで婚約してんの⁉︎ 意味わかんないしバッカじゃない⁉︎」

 バカ。何かそういう問題ではない気も気もしたが、言い返す暇もない。無数の言葉の矢に打ち据えられ、今やヴィルの心は風前の灯火だった。完全に白くなっている騎士に指を突きつけ、マリアベルはさらにこき下ろす。

「八年も放っておいて、今更いりませんとかふざけんじゃないわよ‼︎ どんな綺麗な理由付けたって、あなたが自分勝手なのには変わりないでしょう⁉︎ 傷つけたくないからって、失いたくないからって言うんなら——‼︎」

 強く、小さな手がヴィルの胸を打った。痛みを感じるほど強い力ではない。だがそれでも何度も、マリアベルは何度も拳を打ち付ける。いつしかその瞳には涙が滲み、声は震えていた。

「ちゃんとそばにいて、自分の手で守りなさいよ! 今度こそ、自分の力で‼︎ 出来るとか出来ないとか悩む前に、どうして手を離してしまうの⁉︎ 本当に大切に思っているって言うのなら、最後までしっかり守り続ければいいでしょ‼︎ それに、わたしは、わたしは——」

 涙が一筋流れて落ちた。たった一粒のそれが頰を伝い落ちていくのを、ヴィルヘルムは黙って見つめていた。
 もう一度、強く騎士の胸に拳を振り下される。そしてマリアベルは、叫ぶような声で想いを告げた。

「わたしはあなたに守られるだけの弱い女じゃありません! そのわたしが『あなたが良い』って言っているのだから……いい加減、うだうだ悩んでないで‼︎」




「……はい」

 簡潔な返答。それがわずかな間に生まれ、夏草のざわめきに溶けていった。

 マリアベルは信じられないものを見るような目で、騎士を見つめる。その視線の先で、ヴィルヘルムは——困った顔で笑っていた。

「そこまで言われたら、断るわけにはいかないな。今更だけど本当にこんな俺で良いのか? どう考えても、まともな男よりも苦労するぞ」
「……ええ、もちろん」

 迷うことなく、マリアベルは頷いた。強く、ためらいもなく一歩踏み込み、ゆっくりと手を差し出す。そしていたずらめいた笑みをその顔に浮かべ、小首を傾げて見せた。

「けれど、八年も待たされたのです。あなたは何があってもわたしの言うことを聞くのですよ? それが結婚の条件です」
「それは……大きく出たな。まあ……拒む筋合いのことでもないか」

 腹を括った。短く呟くと、ヴィルヘルムは跪き小さな手を取る。二人の間に横たわっていた壁は今、音をもなく崩れ去っていく。見上げる瞳と、見下ろす目——交錯した視線に、互いの笑顔が映り込む。

「では、マリアベル・クロア・メンフィス。どうか——ずっと俺のそばに」
「ええ、喜んでお受けしますわ。ヴィルヘルム・シュタイツェン=ヴァールハイト……私だけの騎士」

 二人は笑い合い、ともに空を見上げた。そこにあったのは眩しいほどに晴れ渡った夏の空。まるで二人の行く末を表すかのように、優しく穏やかに——風が吹き抜け空へと登っていった。




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「トワルさんには感謝しなければいけませんわね。迷っていたわたしの背中を押してくれたのですから」
「そうだったのか……あいつには感謝……って、アレ? そう言えば、あいつどこに行ったんだ?」
「……わたくしも……あれ以来見ていないのですけど……」
「え、ってことは……まさか、置き去りに……」
「…………」
「………………」


 ——どことも知れぬ、街灯の下にて。

「どいつもこいつも、ホント無茶苦茶意味わかんないぃい——‼︎」



 君と見上げた空は眩しくて——了
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