やさしい魔法と君のための物語。

雨色銀水

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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

9.思い出はいつも優しく

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「満足、できたか」

 パラパラとページがめくられる。古い日記のくすんだ紙が乾いた音を立てた。 満足だったかと問う声は、記憶と虚実の狭間で彷徨い続ける。満足したか、満足できたか。これで終わりでも良いのだろうか、と。納得できる答えを得られたかと、その声は問う。

「これは記憶。ここから先へはどこにも行けない」

 最後のページがめくられ、表紙が小さな音ともに閉じられる。古びた羅針盤の上、回転する針が暗闇を指し示す。光から闇へ。かつてあったぬくもりを辿る旅は、今、見通せぬ未来への道へと繋がっていく。

「さあ、目を覚ませ。記憶は終わっても、記録はこの先も続く。お前が書き記すべき物語は、まだ終わってなどいないのだろう?」

 忘れるな、と声が囁く。隣り合った温度が消え去っても、そばで触れていた記憶は心に刻まれていく。消えない想いとは結局、記憶と記録の狭間にあるのだろうか。

 ならば、行くが良い——記憶が望みを映すというのなら、虚実も真実に取って代わるだろうから。

 ————
 ——

 これは物語だ。真の意味で存在した現実ではない。だからこれは、彼の人生の果てにある余分のかけらでしかない。これをどう考えるかは、ページをめくるあなた次第だ。

 さあ、物語を開こう。ここから先は、彼の想いに応えるための世界だ。



 暗闇の中にいる。ずっと、暗闇で膝を抱えていた。冷たい水音が響く地下道の中で、ひとりきり。涙なのか滴る雫なのかもわからなくなるくらいに、両手は濡れてかじかんでいる。

 ぐすり、と鼻をすすり、顔上げても暗闇しか見えない。目を閉ざしても、そこはやはり闇しか存在しない。瞬きを繰り返し、やっと立ち上がろうとした足は、ゆるく地面を滑った。

 ばしゃん、水たまりに倒れこむ。冷たさとカビ臭い匂いが強まり、ヴィルは堪え切れずにすすり泣いた。たすけて。小さな声でつぶやいたところで、誰もそばに来てもくれない。悲しくて苦しくて、寂しくて。幼い身体を自らかき抱き、ずっと泣き続けていた。

 それからどれくらい経ったことだろう。暗闇に一筋の光が差した。一歩先に現れた陽だまりのような、淡い輝き。それに目を細めてから、子供は一度大きくしゃっくりをする。

「ヴィル……!」

 光から、誰かが踏み出してくる。顔を上げたヴィルは、その姿に鼻をすすりあげた。黒い髪、すらりと高い背。子供を見つめる瞳は、はっきりとした焦燥に染まってた。

「おとう、さん」

 掠れた声で呼べば、彼はほっとしたように手を差し伸べてくる。冷え切った小さな手を優しく包んで、彼——ギルベルトは何かを悔やむようにそっと目を伏せた。

「どうして、追いかけて来たりしたんだ」

 言葉の意味がわからず、幼いヴィルは瞬いた。まつ毛の先から雫が落ちて、手の甲に落ちる。たったそれだけの一瞬、染み込んでいくそれを見つめ、ギルベルトは静かに首を横に振った。

「心配、したんだぞ」
「だって」

 拙い言葉で伝えようとして、子供は唇を噛み締めた。どうしても、父の背を追いかけたかった。その理由を語るだけの言葉を持たず、唇から漏れたのは小さな嗚咽だけ。かなしみとも呼べない感情を持て余し、ヴィルはそれでも訴える。

「だって、おとうさん、とおくへいっちゃうんでしょ」
「……ヴィルヘルム」
「そんなの、やだよ。いなくなっちゃ、やだよぉ……」

 泣きじゃくる子供を呆然と見つめ、ギルベルトは少しだけ目を瞬かせる。そしてしっかりと小さな手を握りしめてから、安心させるように強く笑う。

「ばかだなぁ……いなくなるわけないだろう?」
「ほんとう?」
「ああ、本当だ。約束する。おれは、お前たちのそばからいなくなったりしない」

 握りしめる手をじっと見つめて、ヴィルは「やくそく」と小さく呟いた。何度も、確かめるようにその言葉を繰り返し、最後に音もなく目を閉ざす。

「やくそく……ぜったい、だよ」
「ああ、絶対に絶対だ」

 微笑んだ。どちらともなく笑い合って、親子は手を握り合う。互いの存在を確かめるように、ぬくもりを手の中に閉じ込める。そして手を握り合ったまま、光の向こうへと歩み出していく。

 あたたかい。それだけのことが嬉しくて、子供は父に向かって笑いかける。父もまた子を見つめ優しい微笑みをもらす。優しい家族の光景。その後ろ姿は確かに、家族のものだった。


 約束、その言葉を心に刻んで共に歩き出す。親も子も、今この時においては——確かな温度として、想いを記憶している。それがどんな結果をもたらすか。この先にもページは続いていく。

 繰り返す。これは物語だ。真の意味で存在した現実ではない。この物語を綴った彼の願いが何だったのか。それを知ることが救いであるかどうかなど、わかりはしないのだけど。

 それでもページはめくられていく。思い出が優しいのはきっと、温かなものだけを抜き出したからなのだ。けれどそれでも、この先で待っているのは、零れ落ちていくだけの手のひらのぬくもりと、彼が残した日向の記憶の跡形だけだ——
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