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あったま痛~。
夜勤明け。昨夜は夜中に急患三件からの緊急手術まであるフルコースだった。
幾ら若手とは言え、誕生日が来たら三十路というアラサー女子にはそろそろキツい。
こんな状態で車を運転するのが危険だという自覚があるため、疲れた身体を引きずって向かうのは最寄駅。徒歩十分がたまらなく遠い。
「タクシー使えば良いのに」
と言う同僚の声が空耳で聞こえるくらいには疲れ切っていた。けど、ただでさえ運動不足の自覚がある。通勤の時くらい歩かなきゃね? それに、住んでるアパートは電車でたったの三駅だ。病院から駅までが十分、電車に乗って十分、駅から家までが十分。電車の待ち時間を入れても四十分かからない。通勤時間としては近い方だと思う。
多分、私はかなりボーッと歩いていたのだろう。
角を曲がったら目の前が駅という曲がり角で、気が付いたらドシンと何かにぶつかっていた。
「あ」
「すみませんっ」
慌てたような低い声が降って来た。
ぶつかって弾かれたのは私の方。重量感のある物体で、こちらの顔に当たったのはスーツらしいハリのある布地の感触。
……これ、人だわ。
しまった化粧つけちゃったかも!
大概ハゲかけの超ナチュラルメイクだけど、社会人的に口紅だけはちゃんと付けている。まずいと慌てて勢いよく顔を上げた瞬間、ズキンという頭痛と共に盛大な立ちくらみに襲われた。
うわ、まずっ。
一瞬で視界が完全にブラックアウトして相手の顔は見えなかった。ただ背が高そうだなと言うのだけを感じた。
「え、大丈夫ですか!?」
慌てたような声と共にガシッと大きな手に支えられた。
「すみません。大丈夫です」
と言いながらも、あんまり大丈夫には見えないだろうことも自覚する。平衡感覚がおかしくなっている。申し訳ないと思いつつも支えてくれる力強い腕に甘えてしまう。
医者の不養生とはこの事だ。恥ずかしいなあ、もう……。
「とにかく、端に移動しましょうか」
そのまま抱きかかえられるように支えられて歩道の端(多分)に誘導される。
「座った方が楽かな」
「あ、いえ、えっと壁か何かあったら」
察しが良いその男性は、そこまでで聞くと私の身体を壁にもたれかけさせてくれた。けど、結局、その場に座り込む。
ああ、これ貧血も出てるな。
そう言えば、と忙しさにかまけて昨日は夕飯を食べ忘れたのを思い出す。もちろん朝食はまだ食べていないし、昨夜は夜食を口にするような暇は全くなかった。昼食を食べた記憶もない。ああでも、昼頃に何か飲んだんじゃなかったかな。そう野菜ジュース。
「大丈夫……じゃなさそうですよね」
男の人の声が近い。目を開けると徐々に戻り始めた視界の中で男性は私の横に一緒にしゃがんで、私の顔を覗き込んでいた。
「いえ、ただの貧血なんで、じき落ち着きます」
「……うーん。でも、熱ありそうですよ?」
大きな手がおでこに当てられた。
その感触に、不意に両親が健在だった頃を思い出した。滅多にない風邪を引いた時なんかに、二人はよくこうやって私の熱の有無を確認した。
「えーっと、夜勤明けかな? 家ですよね。送ります」
ん? まさかの知り合い?
声には聞き覚えがない。だけど、医師という仕事柄自分は覚えていなくても相手から覚えられていることは多い。
まさか、私、白衣脱ぎ忘れてないよね!? ……大丈夫。ちゃんとニット素材のだぼっとしたジャケットを羽織っていた。
「あ、不審者じゃないですよ。出勤途中の善良な市民です」
その言葉に思わず笑う。
出会い頭にぶつかった相手だ。少なくとも不審者じゃないのは分かるし、親切なのも間違いない。
そうこうしているうちに落ち着いて来た。視界は戻ったし、もう立っても大丈夫そうだ。
地面から隣の男性に視線を移す。
「良かった。視界、戻りました?」
そこには思いの外、綺麗に整った顔の三十代くらいの男性がいた。
うん。記憶にはない。
覚えていないだけかもだけど、この顔が脳外科に来たら、さすがに忘れないと思う。
「ありがとうございました」
ひとまずお礼を述べてから、グイッと膝に手をつき立ち上がる。
ズキン。
ああやっぱり頭が痛い。早く帰って寝よう。
「送ります」
「いえ、すぐそこ駅なんで」
「でも、ホント、顔色悪いですよ。車呼んだんで」
シツコイ。てか、車って何。
と思ったけど、本気で心配してくれてる様子が見て取れたから、なんと断ろうか困る。
ズキン。
ああヤダヤダ。今、そういうことで煩わされたくない。
とそこで、男性のスーツの胸元に私が付けただろうシミの痕を発見。
ああ、やっちゃった。更に頭が痛くなる。
「ごめんなさい」
と謝ると男性は何故か寂しそうな顔になる。
「ああ、いえ、そうじゃなくて」
いや、送ってもらうのは本当に要らない。でも、今言ったごめんなさいそういう意味じゃなくて。
男性は「え?」と首を傾げる。
背も高いし、優しそうに整った綺麗な顔と身体をしてる。いかにも人が良さそう育ちが良さそうで、着ているスーツも高級感漂ってる。だからと言っておぼっちゃま然とはしていなくて、何というか理知的で仕事できそうな雰囲気が漂っている。
そんな人がこの年でこうも素直に感情を顔に出すのが不思議だった。
「これ」
と、私が付けただろう化粧の痕を指差す。
「ごめんなさい。ぶつかった時に私が付けたんだと思います」
「ああ、そんなのお互い様なので気にすることないですよ」
男性はなんとも爽やかな笑顔を見せる。
その時、やたらと高級な車がスーッと歩道の横に静かに止まった。と思ったらバタンとドアの開く音がして運転手が下りてきた。
「社長。お待たせしました」
「ごめんね。呼び付けて」
「いえ。いつでもお呼びください」
ん?
「車、乗ってください。私はこの後用事があって送っていけないのだけど彼に家まで送ってもらうから。プロの運転手さんだし安心して任せて大丈夫」
やたらと爽やかな笑顔と突然やって来たピカピカに磨かれた高級車に正直引く。
「いえ、そんなとんでもない」
なんなんだ一体。
でも、断りの言葉が伝わる前に運転手さんは車を降りて来て後部座席のドアを開けた。
スーツ着てるし手袋はめてるし。人の良さそうな笑顔といい、マジで本職の運転手さんらしい。
「どうぞ、お乗りください」
「あ、この方、体調が良くないから気を付けてあげて」
「かしこまりました」
「え、だから……」
電車で……と言いたいのに、また始まった頭痛に頭も口も回らない。
「あ、そうか」
と男性は思い出したように懐に手を入れ名刺入れを取り出した。
慣れた手つきで名刺を一枚取り出すと、
「牧村商事の牧村と申します」
と差し出して来た。
反射的に受け取ってしまい、ぶしつけにマジマジと見てしまう。
どこかで見たことのあるロゴに「代表取締役社長 牧村幹人」という文字。
一般企業には疎いけど……これ、かなり大手の商社だったんじゃ?
てか、本気で「社長」って書かれてるんだけど……。この人、せいぜい三十代半ばだよね?
ズキン。
ああダメだ。頭痛い。
そうだ。名刺。私も持ってたっけ、一応。あーどこにしまった? いや、そもそも渡す必要あるんだっけ?
「大丈夫ですか?」
いつの間にか、名刺を持ったまま顔を顰めて立ち尽くしていたようで、男性……牧村さんが私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「とにかく、座って」
背中を押されて、そのまま車の後部座席に座らされる。
いや、そうじゃなくて。
「過労……かな? 無理しないでね」
そう言って、牧村さんは鞄から栄養ドリンクを取り出した。
「良かったら飲んで。試供品で申し訳ないけど、胃に負担が少なくて空腹でも飲めて、身体に必要なものが色々詰まってるらしいですよ」
思わず受け取ると、お礼を言う間もなく、
「じゃあ、真鍋さん、後はよろしくね」
という声が聞こえて、ドアがバタンと閉められた。
ええええ?
戸惑っている間に運転手さんが運転席に座り、
「どちらまで行きましょうか?」
と聞かれて、今更断ることもできずにうっかり最寄りの駅を答えてしまい……。
そのまま車に揺られること約二十分。
最寄りの駅では下ろしてもらえず、
「ちゃんと送り届けないと社長に叱られます」
と言われては断わることもできず、結局、アパート前まで送ってもらった。
こんな高級車が横付けし、運転手さんにドアを開けてもらうにはあまりに不似合いな安アパート。
学生時代に住んで以来、かれこれ十年以上お世話になっている1Kで、自分的には必要十分なのだけど、普通に考えて自分の年齢ではかなり質素な暮らしだと思う。
「ありがとうございました」
車を降りようと立ち上がった瞬間、また立ちくらみ。
立っていられずに座席にドシンと逆戻りすると、
「大丈夫ですか!?」
と運転手さんが慌てて手を伸ばしてきた。
「すみません。大丈夫です。ちょっとだけ、待ってもらってもいいですか?」
「はい、いくらでもゆっくりしてくださって大丈夫です。落ち着いたら部屋までお送りしますので」
いやそれはいらない。
と言いたかったけど、これは本気でダメなヤツかもとも思う。
うん。もしかしたら、さっき牧村さんに指摘された通り熱があるかも知れない。こんなことならもう少し病院に残って、誰か適当なドクターに診察してもらって薬もらってくるんだった。
まあいいや。寝れば治る、よね。……多分。
数十秒くらいかな。目を瞑って立ちくらみが治まるのを待って、
「すみません。お待たせしました」
立ち上がろうとしたら、
「お持ちします」
と鞄を持たれてしまった。
大丈夫と言うには微妙な体調だと、さすがに自覚したので、ありがたくお願いする。
手すりを掴み足を引き摺るようにして外階段を上がる。
ズキンズキンと割れるように頭が痛む。
マジ、ダメだ。
「すみません。鍵、出してもらっても良いですか。外ポケットに……」
痛い。早く横になりたい。
そう言えば、何時間寝てないんだっけ。昨日は日勤からの夜勤で、一昨日はどうだったっけ。そうだ日勤で、夜中に呼び出しで叩き起こされたんだ。うん。あの日は何時間かは寝られた気がする。後は昨日、ささやかな昼休みに十五分の仮眠程度。そうだ。睡眠を優先したから昼が野菜ジュースになったんだった。
牧村さんの言った「過労」って言葉が頭をよぎる。過労……働き過ぎ。うん。確かに働き過ぎだよね。大概ブラックだ。けど、急患は待ってくれないのだから仕方ないじゃないか。
「お待たせしました。どうぞ」
いつの間にか鍵が開けられドアも開いていた。
「ありがとうございました。助かりました」
と言ったと思う。
運転手さんは鞄を玄関まで荷物を運んでくれて、
「お大事に」
と言ってくれた。
ドアの鍵を閉められたかどうかは覚えていない。
そのまま、ふらふらと狭い部屋に入りベッドに倒れ込んだと思ったら、安心感から急速に意識が遠のいた。狭い部屋で良かった、ベッドまでの距離が近い。そんなことを思った自分が、こんな時に何考えてるんだとやけにおかしかった。
◇ ◇ ◇
気が付いたら、外は真っ暗だった。
物理的にはよく寝たと思う。けど、頭痛は全く治まっていない。頭を少し動かしただけで、ズキンと痛みが走る。
そして寒い。ムチャクチャ寒い。何なら震えるくらい寒かった。てか、震えてるかも。
よく見ると、ベッドの掛け布団の上で寝ていた。三月。真冬じゃないけどまだまだ寒い日も多い。先週は雪も降った。
バカじゃないだろうか、私。
そして、ようやく自分が目を覚ました理由に思い至る。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
これか。
荷物? 何も頼んでない。
新聞は取ってないし、テレビの視聴料は引き落としだ。ろくに見てもいないけど。
それでも重い足を引きずって玄関へと向かう。
集合住宅だ。何かしら問題が起きていたりと言うことも考えられるし無視はできない。
「は…い」
喉が痛い。鼻声だ。どうやら本格的に風邪を引いたらしい。
やっちまったと思いながら金属製のドアを冷たすぎと思いながら押し開ける。
「よかった!」
と、そこで安堵の息を吐いたのは、朝助けてくれた男性、牧村さんだった。
「なんで?」
「あ、突然すみません。まず忘れ物です」
と差し出されたのは名刺入れ。
「車に落ちてたそうです」
受け取りながら首を傾げる。出した覚えはないけど名刺をもらって返さなきゃと一瞬思ったから、無意識で取り出していたのかも知れない。で、微妙な体調下で出しもしまいもしそびれていて、車の中でポロリと鞄から転がり落ちた、と。あり得る。
「わざわざすみません」
受け取ると、もう片方の手がぬっと差し出された。
「後、これ、差し入れです」
「ん?」
見ると白いビニール袋を差し出される。
反射的に受け取ってしまい、いやもらえないだろと思う。
「頭痛がひどそうだったので頭痛薬、後風邪薬など何種類かと、熱冷まし用のジェルシートとパックのお粥とか色々。適当にですが」
受け取れない。
……と思ってたけど、正直それはありがたい。基本、かなり丈夫な方なので家に常備薬なんてものはない。
「ありがとうございます」
本当に見ず知らず(?)の人からこんなものを受け取って良いのかと考えるのすら億劫だった。
「いつかお礼しに行きます」
さすがにもらいっぱなしはダメだろうと、そう告げて頭を下げると、また立ちくらみ。
ダメだ。今日は本当におかしい。
いや、寝不足は解消した。だとしたら、これはどう考えてもエネルギー不足。もう丸一日以上何も食べていない。
なんか食べなきゃ……。
そうだお粥入ってるって言ってたよね? ありがたく頂こう。
そう思いながら、壁に身体を預けて立ちくらみが治まるのを待っていると朝と同じように額に手を当てられた。
「すごい熱ですよ」
「……そうですか?」
頭は痛いし寒気はするし、エネルギー不足じゃなくて風邪?
どっちでも良い。とにかく食べて寝るしかないだろう。
「寝れば治るんで。薬、ありがたく使わせてもらいます」
「声もガラガラです」
「風邪ひいたっぽくて」
てか、もう帰ってくれないかな。立ってるの、そろそろシンドイ。
「若園先生!?」
ん? この人に名前教えたっけ?
ああ、表札出してるし、名刺も……。
気が付いたら座り込んでた。
「大丈夫ですか!?」
いやだから、早く帰ってくれって言ったのに。いや、まだ言ってなかったっけ?
てかさ、大丈夫って聞かれるまでなくどう見ても大丈夫じゃないだろ。まあ、でも普通聞くよね。
「失礼します」
本日二回目。力強い腕に支えら抱きかかえられたところまでは覚えている。
そこで私の意識はぷつりと途切れた。
夜勤明け。昨夜は夜中に急患三件からの緊急手術まであるフルコースだった。
幾ら若手とは言え、誕生日が来たら三十路というアラサー女子にはそろそろキツい。
こんな状態で車を運転するのが危険だという自覚があるため、疲れた身体を引きずって向かうのは最寄駅。徒歩十分がたまらなく遠い。
「タクシー使えば良いのに」
と言う同僚の声が空耳で聞こえるくらいには疲れ切っていた。けど、ただでさえ運動不足の自覚がある。通勤の時くらい歩かなきゃね? それに、住んでるアパートは電車でたったの三駅だ。病院から駅までが十分、電車に乗って十分、駅から家までが十分。電車の待ち時間を入れても四十分かからない。通勤時間としては近い方だと思う。
多分、私はかなりボーッと歩いていたのだろう。
角を曲がったら目の前が駅という曲がり角で、気が付いたらドシンと何かにぶつかっていた。
「あ」
「すみませんっ」
慌てたような低い声が降って来た。
ぶつかって弾かれたのは私の方。重量感のある物体で、こちらの顔に当たったのはスーツらしいハリのある布地の感触。
……これ、人だわ。
しまった化粧つけちゃったかも!
大概ハゲかけの超ナチュラルメイクだけど、社会人的に口紅だけはちゃんと付けている。まずいと慌てて勢いよく顔を上げた瞬間、ズキンという頭痛と共に盛大な立ちくらみに襲われた。
うわ、まずっ。
一瞬で視界が完全にブラックアウトして相手の顔は見えなかった。ただ背が高そうだなと言うのだけを感じた。
「え、大丈夫ですか!?」
慌てたような声と共にガシッと大きな手に支えられた。
「すみません。大丈夫です」
と言いながらも、あんまり大丈夫には見えないだろうことも自覚する。平衡感覚がおかしくなっている。申し訳ないと思いつつも支えてくれる力強い腕に甘えてしまう。
医者の不養生とはこの事だ。恥ずかしいなあ、もう……。
「とにかく、端に移動しましょうか」
そのまま抱きかかえられるように支えられて歩道の端(多分)に誘導される。
「座った方が楽かな」
「あ、いえ、えっと壁か何かあったら」
察しが良いその男性は、そこまでで聞くと私の身体を壁にもたれかけさせてくれた。けど、結局、その場に座り込む。
ああ、これ貧血も出てるな。
そう言えば、と忙しさにかまけて昨日は夕飯を食べ忘れたのを思い出す。もちろん朝食はまだ食べていないし、昨夜は夜食を口にするような暇は全くなかった。昼食を食べた記憶もない。ああでも、昼頃に何か飲んだんじゃなかったかな。そう野菜ジュース。
「大丈夫……じゃなさそうですよね」
男の人の声が近い。目を開けると徐々に戻り始めた視界の中で男性は私の横に一緒にしゃがんで、私の顔を覗き込んでいた。
「いえ、ただの貧血なんで、じき落ち着きます」
「……うーん。でも、熱ありそうですよ?」
大きな手がおでこに当てられた。
その感触に、不意に両親が健在だった頃を思い出した。滅多にない風邪を引いた時なんかに、二人はよくこうやって私の熱の有無を確認した。
「えーっと、夜勤明けかな? 家ですよね。送ります」
ん? まさかの知り合い?
声には聞き覚えがない。だけど、医師という仕事柄自分は覚えていなくても相手から覚えられていることは多い。
まさか、私、白衣脱ぎ忘れてないよね!? ……大丈夫。ちゃんとニット素材のだぼっとしたジャケットを羽織っていた。
「あ、不審者じゃないですよ。出勤途中の善良な市民です」
その言葉に思わず笑う。
出会い頭にぶつかった相手だ。少なくとも不審者じゃないのは分かるし、親切なのも間違いない。
そうこうしているうちに落ち着いて来た。視界は戻ったし、もう立っても大丈夫そうだ。
地面から隣の男性に視線を移す。
「良かった。視界、戻りました?」
そこには思いの外、綺麗に整った顔の三十代くらいの男性がいた。
うん。記憶にはない。
覚えていないだけかもだけど、この顔が脳外科に来たら、さすがに忘れないと思う。
「ありがとうございました」
ひとまずお礼を述べてから、グイッと膝に手をつき立ち上がる。
ズキン。
ああやっぱり頭が痛い。早く帰って寝よう。
「送ります」
「いえ、すぐそこ駅なんで」
「でも、ホント、顔色悪いですよ。車呼んだんで」
シツコイ。てか、車って何。
と思ったけど、本気で心配してくれてる様子が見て取れたから、なんと断ろうか困る。
ズキン。
ああヤダヤダ。今、そういうことで煩わされたくない。
とそこで、男性のスーツの胸元に私が付けただろうシミの痕を発見。
ああ、やっちゃった。更に頭が痛くなる。
「ごめんなさい」
と謝ると男性は何故か寂しそうな顔になる。
「ああ、いえ、そうじゃなくて」
いや、送ってもらうのは本当に要らない。でも、今言ったごめんなさいそういう意味じゃなくて。
男性は「え?」と首を傾げる。
背も高いし、優しそうに整った綺麗な顔と身体をしてる。いかにも人が良さそう育ちが良さそうで、着ているスーツも高級感漂ってる。だからと言っておぼっちゃま然とはしていなくて、何というか理知的で仕事できそうな雰囲気が漂っている。
そんな人がこの年でこうも素直に感情を顔に出すのが不思議だった。
「これ」
と、私が付けただろう化粧の痕を指差す。
「ごめんなさい。ぶつかった時に私が付けたんだと思います」
「ああ、そんなのお互い様なので気にすることないですよ」
男性はなんとも爽やかな笑顔を見せる。
その時、やたらと高級な車がスーッと歩道の横に静かに止まった。と思ったらバタンとドアの開く音がして運転手が下りてきた。
「社長。お待たせしました」
「ごめんね。呼び付けて」
「いえ。いつでもお呼びください」
ん?
「車、乗ってください。私はこの後用事があって送っていけないのだけど彼に家まで送ってもらうから。プロの運転手さんだし安心して任せて大丈夫」
やたらと爽やかな笑顔と突然やって来たピカピカに磨かれた高級車に正直引く。
「いえ、そんなとんでもない」
なんなんだ一体。
でも、断りの言葉が伝わる前に運転手さんは車を降りて来て後部座席のドアを開けた。
スーツ着てるし手袋はめてるし。人の良さそうな笑顔といい、マジで本職の運転手さんらしい。
「どうぞ、お乗りください」
「あ、この方、体調が良くないから気を付けてあげて」
「かしこまりました」
「え、だから……」
電車で……と言いたいのに、また始まった頭痛に頭も口も回らない。
「あ、そうか」
と男性は思い出したように懐に手を入れ名刺入れを取り出した。
慣れた手つきで名刺を一枚取り出すと、
「牧村商事の牧村と申します」
と差し出して来た。
反射的に受け取ってしまい、ぶしつけにマジマジと見てしまう。
どこかで見たことのあるロゴに「代表取締役社長 牧村幹人」という文字。
一般企業には疎いけど……これ、かなり大手の商社だったんじゃ?
てか、本気で「社長」って書かれてるんだけど……。この人、せいぜい三十代半ばだよね?
ズキン。
ああダメだ。頭痛い。
そうだ。名刺。私も持ってたっけ、一応。あーどこにしまった? いや、そもそも渡す必要あるんだっけ?
「大丈夫ですか?」
いつの間にか、名刺を持ったまま顔を顰めて立ち尽くしていたようで、男性……牧村さんが私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「とにかく、座って」
背中を押されて、そのまま車の後部座席に座らされる。
いや、そうじゃなくて。
「過労……かな? 無理しないでね」
そう言って、牧村さんは鞄から栄養ドリンクを取り出した。
「良かったら飲んで。試供品で申し訳ないけど、胃に負担が少なくて空腹でも飲めて、身体に必要なものが色々詰まってるらしいですよ」
思わず受け取ると、お礼を言う間もなく、
「じゃあ、真鍋さん、後はよろしくね」
という声が聞こえて、ドアがバタンと閉められた。
ええええ?
戸惑っている間に運転手さんが運転席に座り、
「どちらまで行きましょうか?」
と聞かれて、今更断ることもできずにうっかり最寄りの駅を答えてしまい……。
そのまま車に揺られること約二十分。
最寄りの駅では下ろしてもらえず、
「ちゃんと送り届けないと社長に叱られます」
と言われては断わることもできず、結局、アパート前まで送ってもらった。
こんな高級車が横付けし、運転手さんにドアを開けてもらうにはあまりに不似合いな安アパート。
学生時代に住んで以来、かれこれ十年以上お世話になっている1Kで、自分的には必要十分なのだけど、普通に考えて自分の年齢ではかなり質素な暮らしだと思う。
「ありがとうございました」
車を降りようと立ち上がった瞬間、また立ちくらみ。
立っていられずに座席にドシンと逆戻りすると、
「大丈夫ですか!?」
と運転手さんが慌てて手を伸ばしてきた。
「すみません。大丈夫です。ちょっとだけ、待ってもらってもいいですか?」
「はい、いくらでもゆっくりしてくださって大丈夫です。落ち着いたら部屋までお送りしますので」
いやそれはいらない。
と言いたかったけど、これは本気でダメなヤツかもとも思う。
うん。もしかしたら、さっき牧村さんに指摘された通り熱があるかも知れない。こんなことならもう少し病院に残って、誰か適当なドクターに診察してもらって薬もらってくるんだった。
まあいいや。寝れば治る、よね。……多分。
数十秒くらいかな。目を瞑って立ちくらみが治まるのを待って、
「すみません。お待たせしました」
立ち上がろうとしたら、
「お持ちします」
と鞄を持たれてしまった。
大丈夫と言うには微妙な体調だと、さすがに自覚したので、ありがたくお願いする。
手すりを掴み足を引き摺るようにして外階段を上がる。
ズキンズキンと割れるように頭が痛む。
マジ、ダメだ。
「すみません。鍵、出してもらっても良いですか。外ポケットに……」
痛い。早く横になりたい。
そう言えば、何時間寝てないんだっけ。昨日は日勤からの夜勤で、一昨日はどうだったっけ。そうだ日勤で、夜中に呼び出しで叩き起こされたんだ。うん。あの日は何時間かは寝られた気がする。後は昨日、ささやかな昼休みに十五分の仮眠程度。そうだ。睡眠を優先したから昼が野菜ジュースになったんだった。
牧村さんの言った「過労」って言葉が頭をよぎる。過労……働き過ぎ。うん。確かに働き過ぎだよね。大概ブラックだ。けど、急患は待ってくれないのだから仕方ないじゃないか。
「お待たせしました。どうぞ」
いつの間にか鍵が開けられドアも開いていた。
「ありがとうございました。助かりました」
と言ったと思う。
運転手さんは鞄を玄関まで荷物を運んでくれて、
「お大事に」
と言ってくれた。
ドアの鍵を閉められたかどうかは覚えていない。
そのまま、ふらふらと狭い部屋に入りベッドに倒れ込んだと思ったら、安心感から急速に意識が遠のいた。狭い部屋で良かった、ベッドまでの距離が近い。そんなことを思った自分が、こんな時に何考えてるんだとやけにおかしかった。
◇ ◇ ◇
気が付いたら、外は真っ暗だった。
物理的にはよく寝たと思う。けど、頭痛は全く治まっていない。頭を少し動かしただけで、ズキンと痛みが走る。
そして寒い。ムチャクチャ寒い。何なら震えるくらい寒かった。てか、震えてるかも。
よく見ると、ベッドの掛け布団の上で寝ていた。三月。真冬じゃないけどまだまだ寒い日も多い。先週は雪も降った。
バカじゃないだろうか、私。
そして、ようやく自分が目を覚ました理由に思い至る。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
これか。
荷物? 何も頼んでない。
新聞は取ってないし、テレビの視聴料は引き落としだ。ろくに見てもいないけど。
それでも重い足を引きずって玄関へと向かう。
集合住宅だ。何かしら問題が起きていたりと言うことも考えられるし無視はできない。
「は…い」
喉が痛い。鼻声だ。どうやら本格的に風邪を引いたらしい。
やっちまったと思いながら金属製のドアを冷たすぎと思いながら押し開ける。
「よかった!」
と、そこで安堵の息を吐いたのは、朝助けてくれた男性、牧村さんだった。
「なんで?」
「あ、突然すみません。まず忘れ物です」
と差し出されたのは名刺入れ。
「車に落ちてたそうです」
受け取りながら首を傾げる。出した覚えはないけど名刺をもらって返さなきゃと一瞬思ったから、無意識で取り出していたのかも知れない。で、微妙な体調下で出しもしまいもしそびれていて、車の中でポロリと鞄から転がり落ちた、と。あり得る。
「わざわざすみません」
受け取ると、もう片方の手がぬっと差し出された。
「後、これ、差し入れです」
「ん?」
見ると白いビニール袋を差し出される。
反射的に受け取ってしまい、いやもらえないだろと思う。
「頭痛がひどそうだったので頭痛薬、後風邪薬など何種類かと、熱冷まし用のジェルシートとパックのお粥とか色々。適当にですが」
受け取れない。
……と思ってたけど、正直それはありがたい。基本、かなり丈夫な方なので家に常備薬なんてものはない。
「ありがとうございます」
本当に見ず知らず(?)の人からこんなものを受け取って良いのかと考えるのすら億劫だった。
「いつかお礼しに行きます」
さすがにもらいっぱなしはダメだろうと、そう告げて頭を下げると、また立ちくらみ。
ダメだ。今日は本当におかしい。
いや、寝不足は解消した。だとしたら、これはどう考えてもエネルギー不足。もう丸一日以上何も食べていない。
なんか食べなきゃ……。
そうだお粥入ってるって言ってたよね? ありがたく頂こう。
そう思いながら、壁に身体を預けて立ちくらみが治まるのを待っていると朝と同じように額に手を当てられた。
「すごい熱ですよ」
「……そうですか?」
頭は痛いし寒気はするし、エネルギー不足じゃなくて風邪?
どっちでも良い。とにかく食べて寝るしかないだろう。
「寝れば治るんで。薬、ありがたく使わせてもらいます」
「声もガラガラです」
「風邪ひいたっぽくて」
てか、もう帰ってくれないかな。立ってるの、そろそろシンドイ。
「若園先生!?」
ん? この人に名前教えたっけ?
ああ、表札出してるし、名刺も……。
気が付いたら座り込んでた。
「大丈夫ですか!?」
いやだから、早く帰ってくれって言ったのに。いや、まだ言ってなかったっけ?
てかさ、大丈夫って聞かれるまでなくどう見ても大丈夫じゃないだろ。まあ、でも普通聞くよね。
「失礼します」
本日二回目。力強い腕に支えら抱きかかえられたところまでは覚えている。
そこで私の意識はぷつりと途切れた。
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