12年目の恋物語

真矢すみれ

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12年目の恋物語

3.陽菜の悩み

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「おっはよ、叶太! ハルちゃんも、おはよ」

 朝、廊下を歩いていると、中等部から一緒の男の子が、隣を歩くカナの肩をポンと叩いて、わたしたちを抜かしていった。

「よ、相変わらず、仲良いね~!」

 そんなことを言いながら、通り過ぎていく人もいる。
 小学何年生の時だったかな?
 いつの間にか、毎朝、カナが車のところまで迎えに来て、わたしの荷物を持ってくれるようになっていた。
 多分、最初は、まだまだひ弱だったわたしが、ランドセルのあまりの重さに、階段の踊り場でしゃがみこんで動けなくなってしまって、それをカナが助けてくれたとき。
 それ以来、カナは毎日必ず、わたしの鞄を持ってくれる。
 カナはとても健康で、ほとんど皆勤賞って子だったから、それは本当に毎日だった。中学生になってからも。……高校生になった、今も。
 もう、鞄持ちはいいよって言ったのに、カナは聞いてくれない。
 わたしが本当にいいんだって言うと、カナがとても傷ついたような顔をしたので、それ以上言えなくなってしまった。
 感謝しているから。本当に、ありがたいと思っているから。カナがしてくれたことが迷惑だって言いたかったんじゃないから。
 だから、カナが傷ついたような顔をしたのを見ると、もう何も言えなくなってしまった。
 でも、カナ、一緒に登校しているならともかく、わざわざ裏口まで、毎朝、毎夕、わたしの送り迎えなんて、やっぱりおかしいよ。
 いつの間にか、これが日常になっていた。ずっと、それが当たり前だと思ってた。
 カナが優しく、いつも笑っていたから。

 ……なんて、傲慢だったんだろう。

 教室に入ると、いつものようにカナがわたしの机まで来て、鞄を置いてくれた。
 クラスの女の子たちの熱い視線が痛い。

「見せつけてくれるよね~」

「愛があるね~」

「さすが、学校一の公認カップル」

「いいな~。あんな彼氏欲しい~」

 カナはわたしの彼氏じゃ、ない。腐れ縁の幼なじみ。
 ううん。腐れ縁……は、十二年間同じクラスという腐れ縁すら、カナの思惑で作られたものだった。
 だから、実際にはただの幼なじみ。なのに、もう何年も前から、わたしたちは公認カップルと呼ばれていた。
 カナはいつだって、

「オレがハルを守る」

 って、公言していた。
 鞄を運んでくれる。休んだら、プリントやノートを届けてくれて、学校でのできごとを話してくれる。
 わたしの顔色に敏感で、わたしが少しでも無理をしそうになると、素早く止める。

 ……カナはいつだって、わたしの心配をしている。

「陽菜、なに暗い顔してんの? 大丈夫? 気分、悪い?」

 ポンと肩を叩かれてビクッと震えると、肩を叩いた相手の方が驚いた顔をした。
 クラスで一番仲が良い友だち、寺本志穂、しーちゃんだった。

「……しーちゃん」

「大丈夫? て、まあ、叶太くんが何も言わないからには、大丈夫なんだろうけど」

 ……なに、それ。
 思わず、笑ってしまった。口の端をゆがめて。
 こんな笑い方、おかしい。
 胃の辺りがズーンと重い。

「陽菜?」

「あ、ううん。なんでもないの」

「ホント? なんか、最近、元気なくない? ……って、昨日、一昨日、休みだったもんね。元気なはずもないか」

「ううん。そんなことないよ。治ってなかったら、出してもらえないから」

「あはは。叶太くんだけじゃなくて、陽菜んちの家族も過保護だもんね」

 過保護。そう、一言でいうならカナは過保護だ。
 でも、カナがわたしの保護者をしなきゃいけないってのは、おかしい。
 やっぱり、おかしい。

「……ちょ、っと、陽菜。やっぱり、あんた保健室行っておいで」

 と、しーちゃんが、わたしの肩に手をやった。
 気がついたら、涙がぽろぽろこぼれ落ちていた。
 机の上にぽとり、ぽとりと落ちた涙で、小さな水たまりができていた。

「叶太くん!」

 そうして、しーちゃんが、二つ前の席にいるカナを呼んだ。

 やめて。カナを呼ばないで。

 だけど、現実問題、カナは保健委員で、
 大丈夫だというわたしの言葉を無視して、カナはわたしを軽々と抱き上げて、
 大丈夫だと言うのに、保健室に連れて行かれた。


   ◇   ◇   ◇


「なんで走らないの?」

「かけっこ、楽しいよ!」

「ハルちゃんも走れよ」

 先生が、ちょうどいないときだった。
 春の運動会のための練習。
 入ったばかりの幼稚園。
 三月に、四歳になったばかりの小さなわたし。
 できたての、同じクラスのお友だちと一緒に、体操服を着て、外に出た。
 それだけでも十分、楽しくてワクワクしていた。
 その上、先生はかけっこのゴールテープまで持たせてくれた。

「ハルちゃん、一緒に走ろう!」

 ……困ったなぁ。

 陽菜は、走っちゃダメよ。
 お友だちが元気に走ってるからって、陽菜は絶対に、真似しちゃダメよ。
 お約束してね。
 息ができなくなって、心臓が痛くなって、大変なことになるからね。

 ママの声が、脳裏に浮かんでは消える。

「ハルちゃん!」

 お友だちは、じれったくて仕方ないというように、大きな声で、わたしを呼んだ。
 ふと、空を見上げると、とっても青く澄んでいた。白い雲が2つだけ、ぽっかりと浮かんでいた。

「ほら!」

 あ。

 声を上げる間もなく、ゴールテープはシュッと手のひらからすり抜け、男の子の手に移った。
 テープのなくなった手を開いて、手のひらを見る。

 先生、持っててねって言ったのに。

「ほら、来いよ」

 たったった、と足音が遠ざかったと思ったら、遠くから、明るい声。
 前を見ると、少し離れたところに、男の子が二人でゴールテープを持って、立っていた。
 その向こうに、鉄棒と滑り台が見えた。

「ハルちゃん!」

 鉄棒と滑り台の上には、やっぱり青い空。
 どこまでも澄んだ青い空。
 ママの「ダメ!」って言う声が、聞こえた気がした。
 でも、気がついたら、

「うん!」

 って、元気に応えてた。
 なんだか、走れるような気がしたんだ。
 みんなが、はるなにもできるよって、言ってるような気がして。
 そうして、わたしは大きく息を吸うと、生まれて初めて、走り出した。

 気持ちがよかった。
 生まれて初めての風を切る感触。足の裏の衝撃。肩の上で、揺れ、跳ねる髪の毛。

 走れるじゃない! はるなだって、走れるよ、ママ! すごい!!

 そう、思ったのに。
 現実は、あっという間にやってきた。

 急激に色を失った景色。
 骨を割って、肉を裂いて、胸に手を入れて、心臓を握りつぶされるかと思うような、壮絶な痛み。
 痛いなんて、そんな言葉じゃ表せないほどの苦痛。
 スローモーションで、どんどん近づいて来る、地面。
 ひざを突き、片手を着いたときの、土の感触。
 息ができなくて、苦しくて、丸くなった。
 胸をかきむしるように押さえて、丸くなった。

「ハルちゃん!!」

 遠くに声が聞こえた。

 ああ。

「ほら、来いよ」

 そう言った男の子の声。
 わたしの手から、ゴールテープを取っていった男の子の声。
 どこかで聞いた声。
 あまりに慣れ親しんだ、その声。
 ああ、そうか。

 ……カナの声だ。

 声を思い出すと、顔もいきなり鮮明になった。

「ハルちゃん、一緒に走ろう!」

 そう言った男の子の顔。

 ああ、やっぱり、カナだ。

「ハルちゃん!」

 泣きそうな、小さなカナの声が聞こえる。

「ハルちゃん!」

 何人もの声が重なる。
 やがて、大人の……先生の声も重なり、永遠にも思えた苦痛は、救急車のサイレンの音を聞きながら、意識とともに途絶えた。



 大声で名前を呼ばれ、何度も、意識が浮上する。
 その度に襲い来るとてつもない苦痛。
 自分は死ぬのだと思った。
 このまま、息ができなくて、死んでしまうんだと。

 助けて、ママ。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 言うこと聞かなくて、ごめんなさい。

 苦しい。息ができない。
 次に目を開けたときに見たのは、ママとパパの顔。
 赤い目、ポロポロとこぼれ落ちる涙。
 後にも先にも、ママの涙を見たのは、あのときだけだった。

 ごめんね。心配しないで、ママ。はるなは大丈夫だから。

 何の根拠もなく、そう思い、わたしの意識は、また途切れた。


   ◇   ◇   ◇


 過去と現在の意識が錯綜する。

 そうか。カナだったんだね。

 そんなこと、すっかり忘れてた。毎日が楽しくて。
 入院も体調が悪いことも、割と、いつものことだったから。
 確かに、四歳のときの入院は長引いた。
 何度も心臓が止まり、一ヶ月以上、死の淵をさまよったって聞いている。
 心臓の手術もして、幼稚園に行けたときには、もう、秋になっていた。



「叶太くんを解放してあげて!」

「いつまで、縛り付けるの!?」

「叶太くんが、なんで、あなたのことを、あんなに世話を焼いていると思ってるの!?」

「叶太くんが、なんで、あなたに優しいと思ってるの!」

「あなたの身体のこと、責任を感じているんじゃない!!」



 次々に浮かぶ、田尻さんの言葉。
 カナが、そんな思いで、わたしといてくれたなんて、気づきもしなかった。

 カナ、ごめんね。

 わたしのせいで、辛い思いさせて、何年も、束縛し続けて、丸十一年も世話を焼かせて、ごめんね。
 ごめんね。本当にごめんね。
 もう、いいから。わたしは大丈夫だから。



「ハル、……ハル」

 名を呼ぶ声に、急激に意識が覚醒する。

 あ。……夢。

 涙が頬を伝い、枕をぬらしていた。
 ボーッと目を開けると、保健室のベッドを囲むカーテンが見えた。
 うかつにも教室で泣いてしまい、体調が悪いわけでもないのに、保健室に連れてこられた。
 わたしが保健室の住人になるのは、しょっちゅうで、だから、先生も疑いもせず、ベッドに寝かせてくれた。
 すぐに授業に戻ろうと思っていたのに、気がついたら、眠っていたらしい。

「ごめん、起こして。なんか、ハル、泣いてたから、悪い夢でも見てるのかと思って」

 カナの手が見えた。大きな、男の子らしい、ゴツゴツした手。見慣れたカナの手。
 カナはハンカチで、そっと、わたしの涙を拭う。

「……カナ」

「ん? どうした? 大丈夫?」

 カナだったんだね。あの時の男の子。
 田尻さんに話を聞いても、実のところ、ピンと来てなかった。
 今になって、ようやく、カナの気持ちが、理解できた気がする。

「ハル?」

 責任を感じてるんだ、カナは。自分のせいで、わたしが死にかけたって。
 でも、違う。カナのせいじゃない。
 だって、わたし、知っていたもの。走っちゃダメだって。大変なことになるって。
 四歳の子に、心臓病がどんなものかなんて、解るはずがない。
 当事者のわたしだって、あの頃は、まだよく分かってなかった。
 カナは一緒に走ろうって、ゴールテープを持ってわたしを誘っただけ。ただ、それだけ。

「ごめん…ね」

「え? ハル? いったい、どうしたの?」

 涙が止まらないまま、いきなり謝りだしたわたしにカナが困った顔をする。

「ごめんね」

 もう、自由になっていいんだよ、カナ。そう思うのに言葉にならなかった。
 なにを言っても、カナは「そんなことない」って否定する気がして。
 否定されたら、きっと、わたしは、またくじけてしまうから。
 だって、こんなにツラい。カナのいない毎日を想像するだけで、眼が潤んでくる。

「ハル、ごめんな、起こして」

 カナがよしよしと、大きな手でわたしの頭をなでた。

「もう少し休んでな。で、今日は帰った方がいい。家に電話しといてやるから」

 ほら、とカナがまた涙を拭いてくれた。
 結局、そのまま、わたしはまた眠ってしまって、それから、迎えの車に乗り早退した。
 寝ている間、休み時間にはやっぱりカナが来てくれていたらしい。
 養護教諭の先生に、

「相変わらずお熱いわね。優しい彼氏で幸せね」

 と言われ、なにも答えられなかった。
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