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13年目のやさしい願い
4.クラス発表2
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翌日は入学式だった。
自分が入学するわけでもないし、生徒会に入ってるわけでもないから、わたしはただ参列するだけ。いつもと同じ時間に学校に着けば十分だった。
だけど、どうしてもカナに会いたくなくて、いつもより三十分早く家を出た。
ちょうど運転手さんがパパを会社まで送りに行っていて不在だったので、沙代さんが慌てて、おじいちゃんのところの車を手配してくれた。
出がけにカナに送った、今日はお迎えはいらないってメール。
返事はまだ来ていない。
車が学園に到着し、いつもの裏門を入ると、窓越しに満開の桜が目に入った。
ドアを開けてもらって外に出ると、まだ少し肌寒い空気が頬をなでる。
「ありがとうございました。おじいちゃんによろしく伝えてください」
「かしこまりました」
運転手さんの笑顔に送られ、裏口に向かった。
三段ばかりの階段を上がり、振り返ると、乗ってきた車がちょうど門を出るところだった。
視界の端に見えたのは、校舎沿いに植えられた桜の木。
まだ時間はある。
……三十分も早く来たんだもの。
そのまま登った階段を降りて、校舎の外壁を回り込み、引き寄せられるように中庭の大きな桜の木の下に向かった。
大きな枝の下から見上げると、空はまた抜けるように青くて、その青を背景にした桜の花はとても綺麗で……。
なぜか胸が痛くて。
どうして青い空が綺麗な春は、悲しいことが多いんだろうな、って。
目が潤むのが分かり、わたしはギュッと両手を握りしめた。
カナに会いたくない、そんなことを思う日が来るなんて思ってもいなかった。
嫌いになんて、なっていない。
今だって大好きだ。
でも、なぜか会いたくなくて……。
今はまるで分からないけど。
どうすれば、この気持ちに折り合いがつけられるのか、まるで分からないけど……。
一年前のあの時も、いつまでも抜け出せない迷路のようなところに迷い込んでいた。けど、ちゃんと抜け出せたから……。
今度もどこかに抜け道があるはずだから……。
「……あの」
……え?
桜の木の下、不意に声をかけられて、慌てて振り返った。
ここは裏門からほど近い中庭で、人が来るような場所ではない。
駐車場は教師専用。原則、初等部以上は車での送迎は禁止されている。
わたしは心臓に持病があるからと、特例で車通学を許可してもらっていて、車寄せがあって、校舎にすぐ入れる、この裏口から毎日、出入りしている。
だから、こんなところで自分以外の人に会うことはほとんどない。
ううん。わたしとカナ以外の人と……。
カナは毎朝、わたしより早くに家を出て、裏口までわたしを迎えに来て、帰りもここまで送ってくれるから。
今、目の前にいるのは先生ではなく、うちの制服を着た男の子だった。
見るからに真新しい制服を着た男の子。身長は決して低くはないのだけど、まだ伸びると踏んでか、少し大きめの制服を着ているから新入生だと一目で分かった。
でも、なんで、こんなところに新入生が?
戸惑っていると、男の子は人なつこい笑顔を見せて聞いてきた。
「えっと、入学式に来たんだけど。案内とか、どこにあるか知ってる?」
「あ、……校舎の入り口前の掲示板に貼り出してあると思うけど」
この裏口ではなく、靴箱のある表側の入り口前。
「……それって、どこに?」
男の子は、キョロキョロ辺りを見回す仕草をした。
裏口の方に目を向けて首を傾げる。
「ここ裏口だから、表側に回らないと……」
「え? それ、どうやって行くの? 連れてってよ」
男の子は、サッとわたしの手を取った。
え?
「キミは、中等部から杜蔵?」
……ああ。
同級生だと思われたんだ。
ようやく、ため口となれなれしい仕草の理由が分かり、ホッとした。
それにしても、どうして、こんなところに来ちゃったんだろう?
バスなら学園全体の表門の前に着くし、電車の駅から歩きだとしても、表門の方に出る。車通学以外で、生徒がこんな場所から校舎に入るとは思えない。
そんなことを考えながら、
「……中等部も杜蔵だけど、」
そもそも、わたしは二年だよと伝えようとしたのに、その前にその子は、
「そっか! そうだと思った!」
と、嬉しそうに笑った。
まだ幼さの残る、笑顔が可愛い男の子だった。
「オレ、一ヶ谷悟」
満面の笑顔で自己紹介をされて、思わずわたしも名乗ってしまった。
「あ。牧村陽菜です」
「はるなちゃん? どんな字を書くの?」
「太陽の陽に、菜の花の菜」
「可愛いね! ピッタリだ!」
「あ、ありがとう」
驚くほどに感情表現が素直で、面食らう。
「オレはね、数字の一にケ、それから谷。さとるは、覚悟の悟」
と言って、
「分かる?」
と、まだ握っていたわたしの手を持ち上げ、手のひらを上に向けて、そこに自分の名前を書いた。
「変わった名字だね」
「うん。珍しいよね」
その一ヶ谷くんが、持っていた鞄を地面に下ろして、わたしの手を両手で包んだ。
「陽菜ちゃん!」
「は、はい」
「オレ、一目惚れしたみたい!」
「…………え?」
一体、何が起ったのか分からず、目を丸くするわたしに、一ヶ谷くんはとんでもないことを言い出した。
「陽菜ちゃん、オレと付き合って!」
……え? なに?
あまりに突然のことに、わたしの頭の中はパンク寸前で、わたしは目を見開いて、ついほんのさっき初めて会ったばっかりの一ヶ谷くんの顔をただ呆然と見るしかできなかった。
驚きに力が抜け、右手で持っていた鞄がトスンと音を立てて、地面に落ちた。
呆然と立ち尽くす時間に終止符を打とうとしたかのように、強い風が吹き抜け、桜の花が舞い散った。
合わせてわたしの長い髪も舞い上がり、慌てて空いた右手で押さえる。
わたしの左手は変わらず、一ヶ谷くんが両手で包み込まれていた。
「……あ、あのね」
言わなきゃ。彼氏がいるってこと。
それから、わたし、二年だよってこと。
後、手を離してって。
それから……。
「あ! ごめんね、唐突で! でも考えておいて」
一ヶ谷くんは無邪気に笑った。
返事は今度って……。
違うよ。今度じゃなくて、今……
って思ったのに、
「わ。せっかく早く来たのに、遅くなっちゃうね。行こう!」
行き先も分からないのに、一ヶ谷くんはわたしの手を引き、桜の向こう、校舎の方へと歩き出した。
え?
ここは、わたしが案内するところじゃ……と思っているのに、何も言う暇を与えられず、わたしの上履きは、そこの裏口にあるんだけど……と思ったけど、言う間もなく、一ヶ谷くんはわたしの鞄をサッと拾って、そのまま元気よく歩き出した。
わたし……なに、やってるんだろう?
カナに会いたくなくて、三十分も早く登校して、カナと手をつないで歩くかわりに、初対面の新入生に手を引かれて……。
……はぁ、はぁ。
息が上がる。歩く速度が速すぎて。
手をしっかり握られているから、その手を力強く引かれるから、いつものゆっくりしたペースでは歩けない。
きっと、高校生の男の子なら普通の速度で、もしかしたら、女の子でもおかしくないかもしれない速度で、わたしの手を引き、一ヶ谷くんは歩き続ける。
でも、それはわたしには速すぎて、走っているわけでも、階段を上っているわけでもないのに、息が上がってしまって……。
途中で、荒い息の下、「待って」って言ったけど、わたしの声は小さすぎたみたいで、ズンズン歩く一ヶ谷くんの背中には届かなかった。
どうして道も知らないのに、こんな迷いなく歩けるんだろう……、そう思いながら、なんで、わたし、こんなところを初対面の子と手をつないで歩いてるんだろう……、って、思いながら、とうとう、前方、遠くに人だかりが見えたところでギブアップした。
急にしゃがみ込んだわたしに、一ヶ谷くんが慌てて振り向く。
「え!? 陽菜ちゃん!?」
驚いた声が上から降ってくる。
それでも、掴んだ手は離してくれない。
「……ご、め…」
「大丈夫!?」
心配そうな声と一緒に、彼に握られて高く持ち上げられていた腕が身体の側に戻ってくる。
一ヶ谷くんの声が近くなった。ようやく、つないだ手を離してもらえた。
「どうしたの!? どっか痛い!?」
冷や汗が出る。
気持ち悪い。
靄がかかったような視界。地面しか見えなかった。
「……ち…が。……ひん…けつ」
囁くような声に一ヶ谷くんが戸惑っているのが分かる。
苦しい。
保健室に行きたい。横になって、少し休めば楽になるから……。
ごめんね。迷惑かけて。
早く手をふりほどかなくちゃいけなかったのに。そうして、自分のペースで歩かなきゃいけなかったのに。言えずにこんなことになってしまった。
わたしの肩におずおずと触れる一ヶ谷くんの手。
……カナとはまったく違う手。
困ったような、どうしたら良いのか戸惑っているような気配を感じて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
カナの手はいつもわたしを安心させてくれる。
大丈夫だよって全身で教えてくれる。
どれだけ守られていたか、今さらながらに思い知らされた。
でも、今、カナはいない。だから、こんなところで倒れたら大事になる。
入学式の日なのに。
……迷惑かけたくない。
気持ち悪い。
この意識は、いつまで保てば良いんだろう?
「……ハルちゃんっ!?」
遠くからよく知った声が聞こえた。
少し低い、優しい声。
ううん。いつもは優しいのに、今日は驚き強ばっていた。
「大丈夫!?」
羽鳥先輩。
ホッとした。
自分のためにというより、一ヶ谷くんのためによかった……って。羽鳥先輩ならきっと何とかしてくれる。
「あ。あの……貧血だって」
一ヶ谷くんが戸惑いながら答えてくれる声が聞こえた。
先輩の手が背中にそっと当てられた。
……暖かい。
「ハルちゃん、貧血ってホント?」
その声に小さく頷いた。
「よし。なら、保健室に行こう」
先輩は優しくそう言って、スッとわたしを抱き上げた。
「キミ、新入生だね? クラス分けの表、あそこだから、確認して教室に行きなさい」
「え、でも」
「まだ時間はあるけどね。入学早々遅れたらコトだろ」
「あの。……陽菜ちゃんは?」
「先生には言っとくからいいよ。ほら、ハルちゃんの鞄貸して」
テキパキと采配を振るう様子が目に見えるようだ。
昨日から三年生。最上級生の羽鳥先輩。去年の終わりからは、生徒会長。
……そうだ。
先輩、何でこんな時間にこんなところにいるの? 今日は忙しいはずなのに。
……受付、ここでやってたっけ?
去年のことを思い出そうとするのに、何も思い出せない。
気持ち悪くて、深い思考に入れない。
「ハルちゃん、すぐに保健室に連れて行ってあげるからね。苦しいだろうけど、少し我慢してね」
いつものように、優しい優しい先輩の声。
忙しいのに、お世話かけてごめんなさい。
声に出して言いたいのに、言えなかった。
程なくして、先輩の腕に抱かれながら、わたしの意識はスーッと闇に飲まれていった。
◇ ◇ ◇
目が覚めたら、カナがいた。
カナが心配そうに、わたしの手を握っていた。
「ハル!」
ほっとしたように、カナが小さく息を吐いた。
気持ち悪さが治まっていない。
胃の辺りはむかむかするし、身体は依然重いままで。
「……い、ま、なん、じ?」
ささやくように聞くと、カナは腕時計をチラッと見て、
「八時二十分」
と言った。
ああ、まだ貧血を起こしてから、あまり時間が経っていない。
「入学……式」
「ああ、行かなきゃな。……ハルは寝てな。先生には言っとくし」
目が覚めて良かった、安心して行ける、ってカナはわたしの頭をなでた。
「顔色……悪いな。今日は帰るか?」
「……ううん。少し、休んでから、行く」
「分かった。入学式が終わるまで、ゆっくり寝てると良い」
カナはわたしの頬にそっと手を触れた。
そうして、ぽろりと言った。
「……なんで、先に行っちゃったの?」
カナの言葉に顔がゆがむ。
……今? 今、それを聞くの?
今、話さなきゃダメ?
もう教室に戻る時間なのに。
何より苦しくて、話す元気、ないよ。
わたしが答えるより前に、カナが自分で答えを出した。
「ごめん」
口が滑ったと、カナは言う。
「そんな話は後だよな。ハル、ホント、調子悪そうだし。……ごめんな。ゆっくり休んで。オレ、ひとまず教室に戻るから」
カナはわたしの手を取り、両手で包み込むようにして、わたしの手にそっとキスをした。
「後で、迎えにくるから」
「自分で……」
「そうだな。一人で戻れるくらい元気になれたら一番だよな」
わたしの頬をそっとなでるカナの手。
暖かくて、ホッとした。
それから、カナは「また後で」と小さく手を振り、カーテンの向こうに消えた。
「先生、ハル、目覚ました。けど、かなり気分悪そうだから、ちょくちょく覗いてやって」
「了解。ご苦労さま」
そんな声が聞こえてきた。
自分が入学するわけでもないし、生徒会に入ってるわけでもないから、わたしはただ参列するだけ。いつもと同じ時間に学校に着けば十分だった。
だけど、どうしてもカナに会いたくなくて、いつもより三十分早く家を出た。
ちょうど運転手さんがパパを会社まで送りに行っていて不在だったので、沙代さんが慌てて、おじいちゃんのところの車を手配してくれた。
出がけにカナに送った、今日はお迎えはいらないってメール。
返事はまだ来ていない。
車が学園に到着し、いつもの裏門を入ると、窓越しに満開の桜が目に入った。
ドアを開けてもらって外に出ると、まだ少し肌寒い空気が頬をなでる。
「ありがとうございました。おじいちゃんによろしく伝えてください」
「かしこまりました」
運転手さんの笑顔に送られ、裏口に向かった。
三段ばかりの階段を上がり、振り返ると、乗ってきた車がちょうど門を出るところだった。
視界の端に見えたのは、校舎沿いに植えられた桜の木。
まだ時間はある。
……三十分も早く来たんだもの。
そのまま登った階段を降りて、校舎の外壁を回り込み、引き寄せられるように中庭の大きな桜の木の下に向かった。
大きな枝の下から見上げると、空はまた抜けるように青くて、その青を背景にした桜の花はとても綺麗で……。
なぜか胸が痛くて。
どうして青い空が綺麗な春は、悲しいことが多いんだろうな、って。
目が潤むのが分かり、わたしはギュッと両手を握りしめた。
カナに会いたくない、そんなことを思う日が来るなんて思ってもいなかった。
嫌いになんて、なっていない。
今だって大好きだ。
でも、なぜか会いたくなくて……。
今はまるで分からないけど。
どうすれば、この気持ちに折り合いがつけられるのか、まるで分からないけど……。
一年前のあの時も、いつまでも抜け出せない迷路のようなところに迷い込んでいた。けど、ちゃんと抜け出せたから……。
今度もどこかに抜け道があるはずだから……。
「……あの」
……え?
桜の木の下、不意に声をかけられて、慌てて振り返った。
ここは裏門からほど近い中庭で、人が来るような場所ではない。
駐車場は教師専用。原則、初等部以上は車での送迎は禁止されている。
わたしは心臓に持病があるからと、特例で車通学を許可してもらっていて、車寄せがあって、校舎にすぐ入れる、この裏口から毎日、出入りしている。
だから、こんなところで自分以外の人に会うことはほとんどない。
ううん。わたしとカナ以外の人と……。
カナは毎朝、わたしより早くに家を出て、裏口までわたしを迎えに来て、帰りもここまで送ってくれるから。
今、目の前にいるのは先生ではなく、うちの制服を着た男の子だった。
見るからに真新しい制服を着た男の子。身長は決して低くはないのだけど、まだ伸びると踏んでか、少し大きめの制服を着ているから新入生だと一目で分かった。
でも、なんで、こんなところに新入生が?
戸惑っていると、男の子は人なつこい笑顔を見せて聞いてきた。
「えっと、入学式に来たんだけど。案内とか、どこにあるか知ってる?」
「あ、……校舎の入り口前の掲示板に貼り出してあると思うけど」
この裏口ではなく、靴箱のある表側の入り口前。
「……それって、どこに?」
男の子は、キョロキョロ辺りを見回す仕草をした。
裏口の方に目を向けて首を傾げる。
「ここ裏口だから、表側に回らないと……」
「え? それ、どうやって行くの? 連れてってよ」
男の子は、サッとわたしの手を取った。
え?
「キミは、中等部から杜蔵?」
……ああ。
同級生だと思われたんだ。
ようやく、ため口となれなれしい仕草の理由が分かり、ホッとした。
それにしても、どうして、こんなところに来ちゃったんだろう?
バスなら学園全体の表門の前に着くし、電車の駅から歩きだとしても、表門の方に出る。車通学以外で、生徒がこんな場所から校舎に入るとは思えない。
そんなことを考えながら、
「……中等部も杜蔵だけど、」
そもそも、わたしは二年だよと伝えようとしたのに、その前にその子は、
「そっか! そうだと思った!」
と、嬉しそうに笑った。
まだ幼さの残る、笑顔が可愛い男の子だった。
「オレ、一ヶ谷悟」
満面の笑顔で自己紹介をされて、思わずわたしも名乗ってしまった。
「あ。牧村陽菜です」
「はるなちゃん? どんな字を書くの?」
「太陽の陽に、菜の花の菜」
「可愛いね! ピッタリだ!」
「あ、ありがとう」
驚くほどに感情表現が素直で、面食らう。
「オレはね、数字の一にケ、それから谷。さとるは、覚悟の悟」
と言って、
「分かる?」
と、まだ握っていたわたしの手を持ち上げ、手のひらを上に向けて、そこに自分の名前を書いた。
「変わった名字だね」
「うん。珍しいよね」
その一ヶ谷くんが、持っていた鞄を地面に下ろして、わたしの手を両手で包んだ。
「陽菜ちゃん!」
「は、はい」
「オレ、一目惚れしたみたい!」
「…………え?」
一体、何が起ったのか分からず、目を丸くするわたしに、一ヶ谷くんはとんでもないことを言い出した。
「陽菜ちゃん、オレと付き合って!」
……え? なに?
あまりに突然のことに、わたしの頭の中はパンク寸前で、わたしは目を見開いて、ついほんのさっき初めて会ったばっかりの一ヶ谷くんの顔をただ呆然と見るしかできなかった。
驚きに力が抜け、右手で持っていた鞄がトスンと音を立てて、地面に落ちた。
呆然と立ち尽くす時間に終止符を打とうとしたかのように、強い風が吹き抜け、桜の花が舞い散った。
合わせてわたしの長い髪も舞い上がり、慌てて空いた右手で押さえる。
わたしの左手は変わらず、一ヶ谷くんが両手で包み込まれていた。
「……あ、あのね」
言わなきゃ。彼氏がいるってこと。
それから、わたし、二年だよってこと。
後、手を離してって。
それから……。
「あ! ごめんね、唐突で! でも考えておいて」
一ヶ谷くんは無邪気に笑った。
返事は今度って……。
違うよ。今度じゃなくて、今……
って思ったのに、
「わ。せっかく早く来たのに、遅くなっちゃうね。行こう!」
行き先も分からないのに、一ヶ谷くんはわたしの手を引き、桜の向こう、校舎の方へと歩き出した。
え?
ここは、わたしが案内するところじゃ……と思っているのに、何も言う暇を与えられず、わたしの上履きは、そこの裏口にあるんだけど……と思ったけど、言う間もなく、一ヶ谷くんはわたしの鞄をサッと拾って、そのまま元気よく歩き出した。
わたし……なに、やってるんだろう?
カナに会いたくなくて、三十分も早く登校して、カナと手をつないで歩くかわりに、初対面の新入生に手を引かれて……。
……はぁ、はぁ。
息が上がる。歩く速度が速すぎて。
手をしっかり握られているから、その手を力強く引かれるから、いつものゆっくりしたペースでは歩けない。
きっと、高校生の男の子なら普通の速度で、もしかしたら、女の子でもおかしくないかもしれない速度で、わたしの手を引き、一ヶ谷くんは歩き続ける。
でも、それはわたしには速すぎて、走っているわけでも、階段を上っているわけでもないのに、息が上がってしまって……。
途中で、荒い息の下、「待って」って言ったけど、わたしの声は小さすぎたみたいで、ズンズン歩く一ヶ谷くんの背中には届かなかった。
どうして道も知らないのに、こんな迷いなく歩けるんだろう……、そう思いながら、なんで、わたし、こんなところを初対面の子と手をつないで歩いてるんだろう……、って、思いながら、とうとう、前方、遠くに人だかりが見えたところでギブアップした。
急にしゃがみ込んだわたしに、一ヶ谷くんが慌てて振り向く。
「え!? 陽菜ちゃん!?」
驚いた声が上から降ってくる。
それでも、掴んだ手は離してくれない。
「……ご、め…」
「大丈夫!?」
心配そうな声と一緒に、彼に握られて高く持ち上げられていた腕が身体の側に戻ってくる。
一ヶ谷くんの声が近くなった。ようやく、つないだ手を離してもらえた。
「どうしたの!? どっか痛い!?」
冷や汗が出る。
気持ち悪い。
靄がかかったような視界。地面しか見えなかった。
「……ち…が。……ひん…けつ」
囁くような声に一ヶ谷くんが戸惑っているのが分かる。
苦しい。
保健室に行きたい。横になって、少し休めば楽になるから……。
ごめんね。迷惑かけて。
早く手をふりほどかなくちゃいけなかったのに。そうして、自分のペースで歩かなきゃいけなかったのに。言えずにこんなことになってしまった。
わたしの肩におずおずと触れる一ヶ谷くんの手。
……カナとはまったく違う手。
困ったような、どうしたら良いのか戸惑っているような気配を感じて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
カナの手はいつもわたしを安心させてくれる。
大丈夫だよって全身で教えてくれる。
どれだけ守られていたか、今さらながらに思い知らされた。
でも、今、カナはいない。だから、こんなところで倒れたら大事になる。
入学式の日なのに。
……迷惑かけたくない。
気持ち悪い。
この意識は、いつまで保てば良いんだろう?
「……ハルちゃんっ!?」
遠くからよく知った声が聞こえた。
少し低い、優しい声。
ううん。いつもは優しいのに、今日は驚き強ばっていた。
「大丈夫!?」
羽鳥先輩。
ホッとした。
自分のためにというより、一ヶ谷くんのためによかった……って。羽鳥先輩ならきっと何とかしてくれる。
「あ。あの……貧血だって」
一ヶ谷くんが戸惑いながら答えてくれる声が聞こえた。
先輩の手が背中にそっと当てられた。
……暖かい。
「ハルちゃん、貧血ってホント?」
その声に小さく頷いた。
「よし。なら、保健室に行こう」
先輩は優しくそう言って、スッとわたしを抱き上げた。
「キミ、新入生だね? クラス分けの表、あそこだから、確認して教室に行きなさい」
「え、でも」
「まだ時間はあるけどね。入学早々遅れたらコトだろ」
「あの。……陽菜ちゃんは?」
「先生には言っとくからいいよ。ほら、ハルちゃんの鞄貸して」
テキパキと采配を振るう様子が目に見えるようだ。
昨日から三年生。最上級生の羽鳥先輩。去年の終わりからは、生徒会長。
……そうだ。
先輩、何でこんな時間にこんなところにいるの? 今日は忙しいはずなのに。
……受付、ここでやってたっけ?
去年のことを思い出そうとするのに、何も思い出せない。
気持ち悪くて、深い思考に入れない。
「ハルちゃん、すぐに保健室に連れて行ってあげるからね。苦しいだろうけど、少し我慢してね」
いつものように、優しい優しい先輩の声。
忙しいのに、お世話かけてごめんなさい。
声に出して言いたいのに、言えなかった。
程なくして、先輩の腕に抱かれながら、わたしの意識はスーッと闇に飲まれていった。
◇ ◇ ◇
目が覚めたら、カナがいた。
カナが心配そうに、わたしの手を握っていた。
「ハル!」
ほっとしたように、カナが小さく息を吐いた。
気持ち悪さが治まっていない。
胃の辺りはむかむかするし、身体は依然重いままで。
「……い、ま、なん、じ?」
ささやくように聞くと、カナは腕時計をチラッと見て、
「八時二十分」
と言った。
ああ、まだ貧血を起こしてから、あまり時間が経っていない。
「入学……式」
「ああ、行かなきゃな。……ハルは寝てな。先生には言っとくし」
目が覚めて良かった、安心して行ける、ってカナはわたしの頭をなでた。
「顔色……悪いな。今日は帰るか?」
「……ううん。少し、休んでから、行く」
「分かった。入学式が終わるまで、ゆっくり寝てると良い」
カナはわたしの頬にそっと手を触れた。
そうして、ぽろりと言った。
「……なんで、先に行っちゃったの?」
カナの言葉に顔がゆがむ。
……今? 今、それを聞くの?
今、話さなきゃダメ?
もう教室に戻る時間なのに。
何より苦しくて、話す元気、ないよ。
わたしが答えるより前に、カナが自分で答えを出した。
「ごめん」
口が滑ったと、カナは言う。
「そんな話は後だよな。ハル、ホント、調子悪そうだし。……ごめんな。ゆっくり休んで。オレ、ひとまず教室に戻るから」
カナはわたしの手を取り、両手で包み込むようにして、わたしの手にそっとキスをした。
「後で、迎えにくるから」
「自分で……」
「そうだな。一人で戻れるくらい元気になれたら一番だよな」
わたしの頬をそっとなでるカナの手。
暖かくて、ホッとした。
それから、カナは「また後で」と小さく手を振り、カーテンの向こうに消えた。
「先生、ハル、目覚ました。けど、かなり気分悪そうだから、ちょくちょく覗いてやって」
「了解。ご苦労さま」
そんな声が聞こえてきた。
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