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13年目のやさしい願い
20.葛藤3
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「……ハル、……ハル」
カナの声が聞こえ、手のひらには、カナのぬくもりを感じていた。
「……ん」
小さく返事はしたものの、まぶたは重くて、目を開けることはできない。
「ハル、大丈夫?」
冷たいタオルでカナが汗を拭いてくれた。
額、頬、首元……気持ちいい。
「……ごめ…、ねむ……」
「ん。いいよ。眠いなら、好きなだけ眠ればいいから」
「……りが…と」
ずっと思い出すことのなかった瑞希ちゃんとの会話を夢に見て、自分の心の奥底を覗き込みながら、カナの優しさを感じた。
同時に、自分の無力さも……。
気がつくと、また眠っていた。
ガラガラッと保健室のドアが開く音を聞き、自分が眠っていたことに気がついた。
聴覚だけが先に目を覚まし、身体は未だ眠ったままだった。
……カナ?
でも、続いて耳に届いた足音は複数だし、近づいてくるのは、カナとは違う声。
保健室なんだから、誰かが入ってきてもおかしくない。そう思いながらも、どこかで感じる違和感。
身体は眠ったままで、ただ意識だけが急激に覚醒した。
まるで金縛りだった。
息苦しくて仕方なかった。
近くにけっして、好意的ではない視線と人の気配が感じられた。
「ふーん。顔は、まずまずなのね。でも、顔色悪すぎ」
「具合悪くて保健室で寝てるんだ。仕方ないだろ?」
「だからって、同情引くのはズルイいわ」
「……同情じゃないと思うし、ズルで具合悪くなってるんじゃ、」
「うるさいわね。あんた」
「うるさいって、こんなとこまで連れてこさせておいて」
「あんただって、この二人が分かれた方がいいんでしょ!?」
「そりゃあ」
「じゃあ、少しは協力しなさいよ!」
……なに?
どこかで聞いたことがあるような、ないような、甲高い女の子の声と、耳に馴染んだ男の子の声。
……一ヶ谷くん?
まるで鉄でできた布団をかぶっているかのように、身体が重くて仕方なかった。指一本動かせない。それでも歯を食いしばってグッと力を込めると、ようやく、まぶたを押し開くことができた。
思った以上の至近距離に見たことがない女の子の顔。あまりに近すぎて面食らう。わたしの顔から五十センチも離れていなかった。
驚いて、反射的に後ろに下がろうとしたけど、ベッドに横になっていたのだから、下がる場所などどこにもない。
「あら、起きたの?」
慌てるわたしを見て、その女の子は身体をまっすぐに起こしながら、そう言った。
うちの学校の制服を着ている。でも、まったく見覚えがない女の子だった。
彼女の斜め後ろには、一ヶ谷くんが立っていた。目が合うと、ばつの悪そうな顔をして、一ヶ谷くんは視線をそらせた。
「時間もないし、単刀直入に言うわ」
……なにを?
その女の子は、婉然とほほ笑んだ。
どちらかと言えば美人の部類に入る人。甲高い声が、大人びた容姿と少し合っていない……なんて、どうでもいいことを考えていると、その子は、冷たく言い放った。
「叶太くんと別れてちょうだい」
……………え?
あまりに思いがけない言葉に、まだ起き抜けの頭はまったくついていけなかった。
半分夢の中で聞いた、保健室に入ってきてすぐの一ヶ谷くんとこの子の会話……。
何を話していた?
はっきり覚えてはいない。
でも、けっして好意的ではなかった。と言うより、悪意すら感じられた気がした。
「聞こえてる? 叶太くんと別れてって言ったんだけど」
まるで、そうすることが当然かのように、その子は言った。
わたしは何を言われたのか、聞き返すこともできず、ベッドに横になったまま、ぽかんと彼女の顔を見るしかできなかった。
「ねえ、聞いてるの?」
どれくらいの時間、呆然としていたんだろう?
その子は、呆れたように言ってきた。
「………聞こえ…ました」
そう応えるだけで、精一杯だった。
あまりに威圧的な物言いに、年上なのか分からなかったけど、思わず丁寧語で返事をしていた。
「そう。……で?」
「え?」
「聞こえてたんでしょう?」
またしても、人をバカにしたような言いよう。
彼女は数秒の後、呆れたようにわたしを見て、ふうっとため息を吐いた。
「だから、叶太くんと別れてって言ったの」
……カナと? わたしが?
……………なんで?
一体、この人は何を言ってるんだろう?
大体、この人は誰?
なんで、突然、寝込みをおそうようにやって来て、そんなことを要求してくるの?
頭の中を様々な疑問が渦巻いた。
後ろにいる一ヶ谷くんに視線を向けても、気まずそうに、目をそらすばかりだった。
渦巻く疑問にわたしが答えを出す前に、彼女は続く言葉を語り出した。
「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」
わたしが言い返せずにいる間に、その子は好きなように、思うままに言葉を綴った。
胸をえぐるような言葉だった。
「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」
「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」
「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」
「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」
「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」
わたしが反論しないのを良いことに、彼女は、わざとらしいため息までも吐いた。
「あーあ。叶太くん、かわいそう」
その子の口から出た、
「叶太くん、かわいそう」
という言葉に、吐き捨てるように言われた言葉に、去年の苦い思い出が、一気に身体中に蘇った。
わたしと話すために、わざわざカナのいない時間を選んで、ここ……保健室にやって来た田尻さん。その姿を見た時、背筋が凍った。
わたしを呼び出す冷たい笑顔が脳裏に浮かぶ。
笑顔なのに、笑っていない目。
呼び出された校舎裏。
空は青く澄み、輝くような緑に縁取られていた。
自分が、今、どこにいるのかを忘れそうになる。
違う。
あれは、過去のこと。
あれは、一年も前のこと。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
「ごめんね」
硬い表情で、謝りに来た田尻さんを思い浮かべる。
「……心配してるの、これでも、一応」
そう言った田尻さんの、ぶっきらぼうな横顔を思い浮かべる。
ようやく、意識が目の前の彼女にまで戻ってきた。
だけど、ホッとして握りしめた拳をゆるめた瞬間、わたしの動揺をじっくり観察していたらしい彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、さっきよりもゆっくりと、一語一語区切るように、同じ言葉を繰り返した。
「叶太くん、かわいそう」
やめて! やめてよ!!
そんな言葉、聞きたくない!!
……どうして? どうして、わざわざ人の弱みをついてくるの!?
今すぐ、この場から立ち去りたかった。言い争ってまで、何かを押し通そうとなんて思わない。
自分勝手に、言いたいことを言っているだけだって分かっているから、真面目に取り合う必要なんてないって分かっているから、ただ、この声を聞かずに済む場所に行きたかった。
だけど、わたしには走って逃げる術がない。追いかけられたら逃げようがない。
息が苦しくて仕方なかった。
それが、精神的に追いつめられているせいだと気づいて、ゆっくりと時間をかけて息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
上から見下ろされている姿勢。それが不快で、ようやく、ゆっくりとベッドに身体を起こした。
向き合って、彼女の目を見返す。そうすることで、やっと、対等な場に立てた気がした。
その子は、何事かという顔をして、ほんの少しだけ身を引いた。一ヶ谷くんの戸惑った顔が、視界の中に入ってくる。
心が痛い。
胃がキリキリと音を立ててきしんでいるようだった。
悔しい。
それ以外に、この感情につける名前を見つけられなかった。
言い返す言葉を持たない自分が悔しかった。
ふつふつと、ふつふつと、そしてゆっくりと、次第に心の奥の方から、怒りがわき上がってきた。
「……にして」
うつむいて、手を固く握りしめ、噛みしめるように言ったわたしの言葉に、その子は傲然と返してきた。
「は? なに?」
顔を上げ、その子をまっすぐと見据えて、繰り返した。
「いい加減にして!!」
憤りと怒りに、握りしめた手が震えていた。
こんな暗い気持ちに蝕まれたのは、初めての経験で、この感情をどう処理していいのか、検討もつかなかった。
熟考することなく、言葉が身体の奥底からわき上がって、独りでに飛び出していった。
思わぬ事態に興奮したのか、心拍数が一気に跳ね上がった。
息苦しい。
続けて、何か言わなきゃと思うのに、それ以上の言葉は何も出てこなかった。
わたしに、かまわないで。
ほうっておいてよ。
そう言いたかったけど、何か違う気がしてならなくて……。
息が上がってしまい、肩が大きく揺れる。
「な、なによ!!」
彼女は、今にもわたしに掴みかからんばかりの形相。でも、わたしは、彼女をじっと見返すしかできなかった。
「言いたいことがあるのなら、言いなさいよ! 言えるのなら、ねっ!!」
あくまで強気な発言を繰り返すその子。
わたしには、何も言えないのだと決めつける、その子。
どうして、そんなに強気なの?
なんで、わたしは言い返さないと思うの?
大体、カナが好きなのなら、なんで、カナに直接言わないの!?
なんで、わたしに言ってくるの!?
聞きたいのに、声にならなかった。
出て行って!
そう言いたいのに、ここは保健室で、本当は誰が来てもいい場所だから、言えなかった。
心の中をぐるぐると、どす黒くて嫌な感情が飛び交う。
その感情は、彼女がわたしにぶつけてくる言葉と同じように、わたしを蝕む。わたしの精神を蝕んでいく。
誰とも、争いたくなんてないのに。
誰とも、ケンカなんてしたくないのに。
ただ、静かに暮らせるだけで十分なのに。
わたしは、ただ、カナと一緒に笑って過ごしたいだけなのに。
カナとの時間を大切にしたいだけなのに……。
こんな黒い感情はいらない。
誰かを恨んだりなんてしたくない。誰かを嫌ったりなんてしたくない。
ただ、この場から逃げ出したいだけだった。
なのに、目の前の彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、ほら、何も言えないでしょうとばかりに、わたしをにらみつけてきた。
「叶太くんと別れてちょうだい」
起き抜けの頭に飛び込んできた冷たい声が、再び脳裏に蘇ってきた。
彼女の要求を受け入れるなんて、考えられない。彼女の言葉は、けっして受け入れられるようなものじゃない。
続く言葉も、次々に脳裏に浮かんでは消えていった。
「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」
「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」
「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」
「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」
「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」
「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」
わたしの胸をえぐるような言葉。
でも、ぜんぶ……ぜんぶ、この子がそう思っているってだけだ。
カナがどう思っているかなんて、カナにしか分からない。
わたしは、カナと別れたくない。そう、わたしはただ、自分の気持ちだけを考えればいい。
後に続く、彼女の主張に答えるのは、それは、カナの仕事……。
もし、本当にカナが、わたしを重荷に思っていて、わたしと別れたいと思うのなら……。……その時、別れれば良い。
考えただけで、心が切り裂かれるような気がした。
想像しただけで、目が潤み出すのがわかった。
だけど、カナがわたしと別れたいと思うはずなんてない、そこだけは確信があった。
そして、こんなところまで来て、カナと別れろって言う彼女が、わたしが断ったくらいで諦めるはずがない……なぜか、そんな確信もあった。
この子とカナの間に何があったかなんて、わたしは知らない。
そして、わたしが何を言ったって、カナから直接言われたんじゃなきゃ、この子は絶対に諦めない。
……カナじゃなきゃ、断れない。
でも、カナと話す気なんて、この子にはない。そうでなきゃ、わたしにカナと別れろなんて言わない。カナに、わたしと別れてって言って、カナがOKすれば、それで済む話なのに、カナではなくわたしに言いに来たんだから……。
こんな思いは二度としたくない。
今日で、今で、終わりにしたい。
もし、この子が逃げたら追いかけられない。わたしには、彼女を引き止める術がない。
反射的に、わたしは枕元に手を伸ばした。
手に触れた携帯電話のボタンを二つ、何も言わずに、後ろ手に押した。
そんなことが、そんな小細工が、自分に出来るなんて思ったこともなかった。
カナの声が聞こえ、手のひらには、カナのぬくもりを感じていた。
「……ん」
小さく返事はしたものの、まぶたは重くて、目を開けることはできない。
「ハル、大丈夫?」
冷たいタオルでカナが汗を拭いてくれた。
額、頬、首元……気持ちいい。
「……ごめ…、ねむ……」
「ん。いいよ。眠いなら、好きなだけ眠ればいいから」
「……りが…と」
ずっと思い出すことのなかった瑞希ちゃんとの会話を夢に見て、自分の心の奥底を覗き込みながら、カナの優しさを感じた。
同時に、自分の無力さも……。
気がつくと、また眠っていた。
ガラガラッと保健室のドアが開く音を聞き、自分が眠っていたことに気がついた。
聴覚だけが先に目を覚まし、身体は未だ眠ったままだった。
……カナ?
でも、続いて耳に届いた足音は複数だし、近づいてくるのは、カナとは違う声。
保健室なんだから、誰かが入ってきてもおかしくない。そう思いながらも、どこかで感じる違和感。
身体は眠ったままで、ただ意識だけが急激に覚醒した。
まるで金縛りだった。
息苦しくて仕方なかった。
近くにけっして、好意的ではない視線と人の気配が感じられた。
「ふーん。顔は、まずまずなのね。でも、顔色悪すぎ」
「具合悪くて保健室で寝てるんだ。仕方ないだろ?」
「だからって、同情引くのはズルイいわ」
「……同情じゃないと思うし、ズルで具合悪くなってるんじゃ、」
「うるさいわね。あんた」
「うるさいって、こんなとこまで連れてこさせておいて」
「あんただって、この二人が分かれた方がいいんでしょ!?」
「そりゃあ」
「じゃあ、少しは協力しなさいよ!」
……なに?
どこかで聞いたことがあるような、ないような、甲高い女の子の声と、耳に馴染んだ男の子の声。
……一ヶ谷くん?
まるで鉄でできた布団をかぶっているかのように、身体が重くて仕方なかった。指一本動かせない。それでも歯を食いしばってグッと力を込めると、ようやく、まぶたを押し開くことができた。
思った以上の至近距離に見たことがない女の子の顔。あまりに近すぎて面食らう。わたしの顔から五十センチも離れていなかった。
驚いて、反射的に後ろに下がろうとしたけど、ベッドに横になっていたのだから、下がる場所などどこにもない。
「あら、起きたの?」
慌てるわたしを見て、その女の子は身体をまっすぐに起こしながら、そう言った。
うちの学校の制服を着ている。でも、まったく見覚えがない女の子だった。
彼女の斜め後ろには、一ヶ谷くんが立っていた。目が合うと、ばつの悪そうな顔をして、一ヶ谷くんは視線をそらせた。
「時間もないし、単刀直入に言うわ」
……なにを?
その女の子は、婉然とほほ笑んだ。
どちらかと言えば美人の部類に入る人。甲高い声が、大人びた容姿と少し合っていない……なんて、どうでもいいことを考えていると、その子は、冷たく言い放った。
「叶太くんと別れてちょうだい」
……………え?
あまりに思いがけない言葉に、まだ起き抜けの頭はまったくついていけなかった。
半分夢の中で聞いた、保健室に入ってきてすぐの一ヶ谷くんとこの子の会話……。
何を話していた?
はっきり覚えてはいない。
でも、けっして好意的ではなかった。と言うより、悪意すら感じられた気がした。
「聞こえてる? 叶太くんと別れてって言ったんだけど」
まるで、そうすることが当然かのように、その子は言った。
わたしは何を言われたのか、聞き返すこともできず、ベッドに横になったまま、ぽかんと彼女の顔を見るしかできなかった。
「ねえ、聞いてるの?」
どれくらいの時間、呆然としていたんだろう?
その子は、呆れたように言ってきた。
「………聞こえ…ました」
そう応えるだけで、精一杯だった。
あまりに威圧的な物言いに、年上なのか分からなかったけど、思わず丁寧語で返事をしていた。
「そう。……で?」
「え?」
「聞こえてたんでしょう?」
またしても、人をバカにしたような言いよう。
彼女は数秒の後、呆れたようにわたしを見て、ふうっとため息を吐いた。
「だから、叶太くんと別れてって言ったの」
……カナと? わたしが?
……………なんで?
一体、この人は何を言ってるんだろう?
大体、この人は誰?
なんで、突然、寝込みをおそうようにやって来て、そんなことを要求してくるの?
頭の中を様々な疑問が渦巻いた。
後ろにいる一ヶ谷くんに視線を向けても、気まずそうに、目をそらすばかりだった。
渦巻く疑問にわたしが答えを出す前に、彼女は続く言葉を語り出した。
「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」
わたしが言い返せずにいる間に、その子は好きなように、思うままに言葉を綴った。
胸をえぐるような言葉だった。
「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」
「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」
「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」
「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」
「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」
わたしが反論しないのを良いことに、彼女は、わざとらしいため息までも吐いた。
「あーあ。叶太くん、かわいそう」
その子の口から出た、
「叶太くん、かわいそう」
という言葉に、吐き捨てるように言われた言葉に、去年の苦い思い出が、一気に身体中に蘇った。
わたしと話すために、わざわざカナのいない時間を選んで、ここ……保健室にやって来た田尻さん。その姿を見た時、背筋が凍った。
わたしを呼び出す冷たい笑顔が脳裏に浮かぶ。
笑顔なのに、笑っていない目。
呼び出された校舎裏。
空は青く澄み、輝くような緑に縁取られていた。
自分が、今、どこにいるのかを忘れそうになる。
違う。
あれは、過去のこと。
あれは、一年も前のこと。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
「ごめんね」
硬い表情で、謝りに来た田尻さんを思い浮かべる。
「……心配してるの、これでも、一応」
そう言った田尻さんの、ぶっきらぼうな横顔を思い浮かべる。
ようやく、意識が目の前の彼女にまで戻ってきた。
だけど、ホッとして握りしめた拳をゆるめた瞬間、わたしの動揺をじっくり観察していたらしい彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、さっきよりもゆっくりと、一語一語区切るように、同じ言葉を繰り返した。
「叶太くん、かわいそう」
やめて! やめてよ!!
そんな言葉、聞きたくない!!
……どうして? どうして、わざわざ人の弱みをついてくるの!?
今すぐ、この場から立ち去りたかった。言い争ってまで、何かを押し通そうとなんて思わない。
自分勝手に、言いたいことを言っているだけだって分かっているから、真面目に取り合う必要なんてないって分かっているから、ただ、この声を聞かずに済む場所に行きたかった。
だけど、わたしには走って逃げる術がない。追いかけられたら逃げようがない。
息が苦しくて仕方なかった。
それが、精神的に追いつめられているせいだと気づいて、ゆっくりと時間をかけて息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
上から見下ろされている姿勢。それが不快で、ようやく、ゆっくりとベッドに身体を起こした。
向き合って、彼女の目を見返す。そうすることで、やっと、対等な場に立てた気がした。
その子は、何事かという顔をして、ほんの少しだけ身を引いた。一ヶ谷くんの戸惑った顔が、視界の中に入ってくる。
心が痛い。
胃がキリキリと音を立ててきしんでいるようだった。
悔しい。
それ以外に、この感情につける名前を見つけられなかった。
言い返す言葉を持たない自分が悔しかった。
ふつふつと、ふつふつと、そしてゆっくりと、次第に心の奥の方から、怒りがわき上がってきた。
「……にして」
うつむいて、手を固く握りしめ、噛みしめるように言ったわたしの言葉に、その子は傲然と返してきた。
「は? なに?」
顔を上げ、その子をまっすぐと見据えて、繰り返した。
「いい加減にして!!」
憤りと怒りに、握りしめた手が震えていた。
こんな暗い気持ちに蝕まれたのは、初めての経験で、この感情をどう処理していいのか、検討もつかなかった。
熟考することなく、言葉が身体の奥底からわき上がって、独りでに飛び出していった。
思わぬ事態に興奮したのか、心拍数が一気に跳ね上がった。
息苦しい。
続けて、何か言わなきゃと思うのに、それ以上の言葉は何も出てこなかった。
わたしに、かまわないで。
ほうっておいてよ。
そう言いたかったけど、何か違う気がしてならなくて……。
息が上がってしまい、肩が大きく揺れる。
「な、なによ!!」
彼女は、今にもわたしに掴みかからんばかりの形相。でも、わたしは、彼女をじっと見返すしかできなかった。
「言いたいことがあるのなら、言いなさいよ! 言えるのなら、ねっ!!」
あくまで強気な発言を繰り返すその子。
わたしには、何も言えないのだと決めつける、その子。
どうして、そんなに強気なの?
なんで、わたしは言い返さないと思うの?
大体、カナが好きなのなら、なんで、カナに直接言わないの!?
なんで、わたしに言ってくるの!?
聞きたいのに、声にならなかった。
出て行って!
そう言いたいのに、ここは保健室で、本当は誰が来てもいい場所だから、言えなかった。
心の中をぐるぐると、どす黒くて嫌な感情が飛び交う。
その感情は、彼女がわたしにぶつけてくる言葉と同じように、わたしを蝕む。わたしの精神を蝕んでいく。
誰とも、争いたくなんてないのに。
誰とも、ケンカなんてしたくないのに。
ただ、静かに暮らせるだけで十分なのに。
わたしは、ただ、カナと一緒に笑って過ごしたいだけなのに。
カナとの時間を大切にしたいだけなのに……。
こんな黒い感情はいらない。
誰かを恨んだりなんてしたくない。誰かを嫌ったりなんてしたくない。
ただ、この場から逃げ出したいだけだった。
なのに、目の前の彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、ほら、何も言えないでしょうとばかりに、わたしをにらみつけてきた。
「叶太くんと別れてちょうだい」
起き抜けの頭に飛び込んできた冷たい声が、再び脳裏に蘇ってきた。
彼女の要求を受け入れるなんて、考えられない。彼女の言葉は、けっして受け入れられるようなものじゃない。
続く言葉も、次々に脳裏に浮かんでは消えていった。
「聞くとあなたって、完全に叶太くんの重荷じゃない」
「あなたみたいな子が、なんで叶太くんの彼女なのか、分からない」
「いくら幼なじみだからって、甘えすぎじゃないの?」
「一方的に、頼るだけの関係って、カレカノの関係じゃないよね?」
「あなたって、大切にしてもらうばっかりじゃない」
「あなたとつき合ったって、叶太くんに良いことなんて、何一つないでしょ?」
わたしの胸をえぐるような言葉。
でも、ぜんぶ……ぜんぶ、この子がそう思っているってだけだ。
カナがどう思っているかなんて、カナにしか分からない。
わたしは、カナと別れたくない。そう、わたしはただ、自分の気持ちだけを考えればいい。
後に続く、彼女の主張に答えるのは、それは、カナの仕事……。
もし、本当にカナが、わたしを重荷に思っていて、わたしと別れたいと思うのなら……。……その時、別れれば良い。
考えただけで、心が切り裂かれるような気がした。
想像しただけで、目が潤み出すのがわかった。
だけど、カナがわたしと別れたいと思うはずなんてない、そこだけは確信があった。
そして、こんなところまで来て、カナと別れろって言う彼女が、わたしが断ったくらいで諦めるはずがない……なぜか、そんな確信もあった。
この子とカナの間に何があったかなんて、わたしは知らない。
そして、わたしが何を言ったって、カナから直接言われたんじゃなきゃ、この子は絶対に諦めない。
……カナじゃなきゃ、断れない。
でも、カナと話す気なんて、この子にはない。そうでなきゃ、わたしにカナと別れろなんて言わない。カナに、わたしと別れてって言って、カナがOKすれば、それで済む話なのに、カナではなくわたしに言いに来たんだから……。
こんな思いは二度としたくない。
今日で、今で、終わりにしたい。
もし、この子が逃げたら追いかけられない。わたしには、彼女を引き止める術がない。
反射的に、わたしは枕元に手を伸ばした。
手に触れた携帯電話のボタンを二つ、何も言わずに、後ろ手に押した。
そんなことが、そんな小細工が、自分に出来るなんて思ったこともなかった。
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