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14年目の永遠の誓い
20.思いがけない懺悔2
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「結局ね、幹人は響子さんを正明さんに会わせて、
『親父は医者だし、その意義も忙しさも十分に分かっている。子どもができても、ベビーシッターやヘルパーを雇うくらいの稼ぎはある。だから、そんな事を理由に断らないでくれ。俺を嫌いだから結婚できないって言うならまだしも、そうでないなら検討してくれ』
って。
響子さんは迷っていたと思うわ。その時どんなに調子のいい事を言っていても、実際に結婚したら、子どもができたら、手のひらを返す人だって、いくらでもいるでしょう? けどね……」
おばあちゃんはそこで愉しげに笑った。
「そんな響子さんを、正明さんがすっかり気に入ってしまったの。そこから、熱烈アピールよ?
医者として……とか言いながら招待しておいて、実際には、ただの『ぜひ嫁に来てくれ』だし。言外に『将来、牧村総合病院を継いでくれ』って、匂わせてもいたわ。
医者としての生涯をまっとうできるよう、全力でサポートする、とか何とか熱く語って。医者は素晴らしい職業だ。女性は妊娠や出産で職場を離れるし、成長にもブレーキがかかりがちだけど、幹人ならそこをカバーできる財力があるし、自分もサポートするからって。
その上、幹人は海外仕込みのストレートさで、全力アピール。
一ヶ月後くらいかしら? とうとう、響子さんもプロポーズを受けてくれたの」
初めて聞いたパパとママの馴れ初め。とっても微笑ましくて、思わず笑顔がこぼれ落ちる。
いつの間にか、涙はすっかり止まっていた。
パパは約束通り、ママのお仕事をしっかり認めて拘束することはない。
ママも忙しく働きながらも、そんなパパを心から愛している。
二人は今でもとても仲が良い。大好きな両親の話に心をほっこりと温めていると、なぜか、おばあちゃんの表情がスッと曇った。
「だから……、そんな背景もあって、陽菜のために響子さんが仕事を辞めようかと悩んでいる時、わたくしたちは止めたわ。
外科医は手術することで腕を上げていく。一番腕を磨きたい中堅での何年ものブランクは、響子さんの将来を随分と狭いものにしてしまう。
その時は、牧村総合病院に来てもらうには、まだ少し早かったの。脳外科もなく、響子さんの腕も後一歩だった。だから、大学病院での厳しい勤務を続ける事を進めてしまった……」
おばあちゃんはわたしの頰に手を伸ばした。
「ごめんね、陽菜」
「え?」
「あの時、やっぱり子どもにはママが一番……と言っていたら、きっと陽菜はこんなに寂しい思いをしないで済んだわ」
「え? 寂しいって?」
「明仁が家を出てから、週の半分以上を一人で夕飯を食べているのだと聞いたわ」
ああ、なるほど。
「おばあちゃん、気にすることないわ。わたしだって、たくさんのお医者さまにお世話になっているもの。誰にでもできる訳ではない、大切な大切なお仕事だって、分かっているわ」
おばあちゃんは更に痛ましげな表情をした。
おばあちゃんの目は潤んでいた。
「……ごめんなさい、陽菜」
「おばあちゃん?」
もう一度、おばあちゃんはごめんと謝る。
いったい何に謝ると言うのだろう?
「本当に、陽菜は良い子ね」
おばあちゃんは泣きそうな顔でわたしを見た。
「あなたは、響子さんから預かった大切な命だったの。
小さい頃は、本当によく体調を崩していたから、少しでも陽菜の身体が良くなるように、楽に過ごせるようにと、そればかりを考えていた。けどね、越えられないと言われていた三歳の壁を越えて、将来のことを考えなくてはいけなくなった。
我が子に病気があると、とにかく甘やかして我が儘に育ててしまう人も多い。だけど、そんな子にはしたくなかった。わたくしは必要以上に、陽菜を厳しく育ててしまった気がするのよ……」
「おばあちゃん、そんなことをないわよ? わたし、十分に幸せだし……。おばあちゃんがいつも言ってくれていたこと、どれも大切だと思うし……」
それでも……とおばあちゃんは続けた。
「もしも、陽菜がわたくしの子どもとして生まれていたなら、こんなに厳しく育てられたか分からないのよ。きっと……響子さんから預かった大切な子どもだから、きちんと育てなくちゃと思ってしまったの」
おばあちゃんの目から溢れた涙が、つーっと頬を伝った。
「おばあちゃん、もし甘やかされて育っていたら、きっと、わたし、こんなにみんなから愛されていないよ?」
自分で言うのも気恥ずかしいけど、わたしはたくさんの愛情に包まれて生きていると思う。
病院では、ワガママ放題の暴君も珍しくない。
親にだけワガママというのなら、まだ良い。だけど、誰に対してもいつも文句ばかりで感謝一つしない子どもも多くて、そういう子たちは、気の毒にと、可哀想だから許してやるかと同情はされても好かれることは決してない。
もし、自分がそちら側に行ってしまったら? 考えただけで怖くなる。
「おばあちゃんに、生きていく上で、人として大切なことを教われて、わたし、本当に幸せだよ?」
言葉だけでは足りない気がして、ゆっくりと身体を起こした。
「陽菜?」
「おばあちゃん、大好きよ。……いつも、いっぱいいっぱい、ありがとう」
枕元の椅子に座るおばあちゃんを、ギュッと抱きしめる。
「……陽菜」
「これからも、いっぱい迷惑をかけると思うのだけど、……よろしくね」
「迷惑だなんて! 一度だって、そんなことを思ったことはありませんよ」
おばあちゃんはわたしをギュッと抱きしめ返しながら、そう言った。
それから、わたしをまた寝かせると、おばあちゃんはカナのことを話し出した。
「叶太さんとのことは、世間の常識や世間の目は気にしなくても良いのよ。常識なんて、ただの多数派なことも多いし、時代が変われば常識も変わるわ。人に合わせるのが必要なことももちろんあるけど、結婚に関しては大切なのは誰かじゃなく二人の気持ちよ」
おばあちゃんは諭すように、そんな話をしてくれた。
そして、続けた。
「陽菜、いつも物事を色んな方向から見てみなさいと言ってきたわね。今回も同じよ。叶太さんの方からも見てみなさい。きっと、見えなかった何かが見えるから」
そう言って、おばあちゃんはわたしの頭を優しくなでた。
「そしてね、見えたものを素直に感じて、あなたの心が求めるままに動きなさい。誰に遠慮する必要もないのよ。気持ちを抑えたり我慢をしたりする必要はないのよ?」
おばあちゃんは、そこまで話すと、
「長話をしてしまったわね。顔色が良くないわ。……ごめんなさいね。少し眠りなさい。目をつむって?」
と、優しくわたしの頭をなでた。
言われて反射的に目をつむる。
おばあちゃんはそのまましばらく、トントンと掛け布団の上からリズミカルに胸元を叩いてくれた。
幼い頃を思い出す。よく、こんな風に寝かしつけてもらった。
初めて聞く話ばかりだった。
どれもこれもが新鮮で、牧村総合病院はおじいちゃんの夢で……、パパにもママにも若い時があって……。
今まで見えなかった世界の一端を知り、どこか視界が広がったような気すらする。
おばあちゃんは謝ってくれたけど、どこにも、わたしに謝るような要素はない。
いつだって、大切に大切に育ててもらったもの。ママの手料理なんて、過去何回食べただろうってくらいだけど、おばあちゃんの手料理なら何度も食べさせてもらった。
子どもの頃は、体調が悪い時の看病から、病院の付き添い、入院中のお世話だって、ほとんどおばあちゃんがしてくれた。
だからって、過度におばあちゃん子にならなかったのは、きっと、いつだって、どんなにかパパやママが頑張っているか、わたしを愛してくれているかを聞かされて育ったから……。
うつらうつらと目を閉じてそんなことを考えていると、おばあちゃんの手がふっと離れていき、しばらくしてドアがパタンと閉まる音がした。
その音で、また目が少し覚めた。
おばあちゃんの言葉が何度も頭に浮かぶ。
「見えたものを素直に感じて、あなたの心が求めるままに動きなさい。誰に遠慮する必要もないのよ。気持ちを抑えたり我慢をしたりする必要はないのよ?」
いつだったか、ママにも似たようなことを言われた気がする。
だけどね、おばあちゃん。
……だけど、わたし、分からないよ。
自分がどうしたいかなんて、分からないよ。
今だって、誰にも遠慮なんてしていないし、我慢だってしてなんかいない……。
ううん。違う。多分、そうじゃなくて……。
思い通りに動かない身体。思考能力さえ奪われることの多い、わたしの身体。
気分が悪くなり苦しさに意識を手放し、気がついたら別の場所にいることも多い。そんな身体と生まれた時から付き合ってきたからか、流されるままに生きることにもうすっかり慣れてしまった。
この身体にだって、不満もない。
いつからか、目が覚めた時、どこにいても動揺しないようになっていた。ただ、今どこにいるのかを確認して、納得するだけ。
諦めたとか、そう言うのとは違うと思う。
いつからか、これ以上に何かを望むのは贅沢だと思うようになっていた。
わたしは、生かされている……のだと思う。
この家に生まれたのでなければ、もうずっと前に命を落としているのじゃないかと思うから。
おじいちゃんは、わたしのために牧村総合病院に小児循環器科を設立した。相当に良い条件で腕の良いお医者さまを……権威と呼ばれるようなお医者さまを集めた。
わたしの手術には、日本どころか世界でも注目される神の手と言われるようなお医者さまが招聘される。研修も兼ねてとたくさんの院内のお医者さまが見学に入る。とても勉強になるのだと聞かされた。興奮がちに術技のすごさを讃える声を何度も聞いた。だから、申し訳なく思う必要はないのかも知れない。
だけど、他の患者さんには、当然のようにこんな特別扱いはない。
そして、それだけ手を尽くしてもらって、なお、わたしは手術のたびに死にかけて、助けられる。
そして、自由に動けるほどに良くなることもない。
自分の力で生きているのではなく、大きな力で、たくさんの人の力で、生かされているのだとしか思えなかった。
そのせいか死を怖いと思うこともなく、心の底からの死にたくないという想いを持つこともなかった。
そして、生きたいという強い想いを持つことすらなかった。
きっと、流れるままに流されていたらどこかに行き着くから。
わたしは素直にその流れに乗っていれば良いのだと、そう思っていた。
カナがすべてのお膳立てを整えた結婚。カナが望み、誰もが許してくれた。
だけど、……流されるままに、流れに乗ることはできなかった。
どうしてか、お腹の辺りに真っ黒な重しがのしかかっているような気がしてならない。なぜか分からないけど、もやもや、もやもやと……。
高校生、十七歳での結婚。
しかも、わたしには持病があって、学校にすらまともに通えていない。
普通に考えて、常識的に見て、結婚なんて考えられる状況じゃないと思う。
求められる理由も、許される理由もない。
だけど……例えば、残り時間が後三年……二十歳までだとしたら?
普通は結婚なんてしていない大学生。元気に学生生活を謳歌しているはずの年頃。
だけど、もし、そこまでで命が途絶えると分かっていたら、少しでも長い時間を共にいたいと思う?
結婚を許さなくてはと思う?
別に三年とは限らない。例えば、後一年でも、後五年でも良い。もし、未来の限られた命だったとしたら?
カナはなんで、わたしと結婚なんて考えたの?
一緒にいられる時間が、残り少ないと思ったから?
……いわゆる適齢期まで、わたしが待てないと思ったから?
パパは、ママは、おじいちゃんは、お兄ちゃんは、おじさまは、おばさまは……、なんで、わたしたちの結婚を許可したの?
残り少ない時間を大切に?
最期に好きなことを?
思い残すことがないように?
それは、同情? 憐憫? 思いやり?
なんでかな……。
自分で思い浮かべた言葉が悲しくて、涙が溢れ出した。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出して、止まらなかった。
わたし、今の自分が可哀想だとか、そんなこと何も思っていないのに。
わたし、自分が誰かに、……ううん、わたしの大切にな人たちに、『可哀想な子』だって思われるのが、嫌なんだ。
知らない人に、可哀想にとか大変だねとか言われても、気にしない。気にしても仕方がないって分かってる。
だけど……。
パパやママには言われたくない。
お兄ちゃんには言われたくない。
おじいちゃんやおばあちゃんにも、
おじさまやおばさまにも、晃太くんにも、可哀想な子……だなんて言われたくない。
誰より、カナにはそんな風に思って欲しくない。
決して、カナにだけはそんな風に思って欲しくなかった……。
心にぽっかりと穴が空いたみたいで、なにも考えられなかった。
わたしは声も立てずに、ただ静かに涙を流した。
ただ、静かに涙を流し続けた。
『親父は医者だし、その意義も忙しさも十分に分かっている。子どもができても、ベビーシッターやヘルパーを雇うくらいの稼ぎはある。だから、そんな事を理由に断らないでくれ。俺を嫌いだから結婚できないって言うならまだしも、そうでないなら検討してくれ』
って。
響子さんは迷っていたと思うわ。その時どんなに調子のいい事を言っていても、実際に結婚したら、子どもができたら、手のひらを返す人だって、いくらでもいるでしょう? けどね……」
おばあちゃんはそこで愉しげに笑った。
「そんな響子さんを、正明さんがすっかり気に入ってしまったの。そこから、熱烈アピールよ?
医者として……とか言いながら招待しておいて、実際には、ただの『ぜひ嫁に来てくれ』だし。言外に『将来、牧村総合病院を継いでくれ』って、匂わせてもいたわ。
医者としての生涯をまっとうできるよう、全力でサポートする、とか何とか熱く語って。医者は素晴らしい職業だ。女性は妊娠や出産で職場を離れるし、成長にもブレーキがかかりがちだけど、幹人ならそこをカバーできる財力があるし、自分もサポートするからって。
その上、幹人は海外仕込みのストレートさで、全力アピール。
一ヶ月後くらいかしら? とうとう、響子さんもプロポーズを受けてくれたの」
初めて聞いたパパとママの馴れ初め。とっても微笑ましくて、思わず笑顔がこぼれ落ちる。
いつの間にか、涙はすっかり止まっていた。
パパは約束通り、ママのお仕事をしっかり認めて拘束することはない。
ママも忙しく働きながらも、そんなパパを心から愛している。
二人は今でもとても仲が良い。大好きな両親の話に心をほっこりと温めていると、なぜか、おばあちゃんの表情がスッと曇った。
「だから……、そんな背景もあって、陽菜のために響子さんが仕事を辞めようかと悩んでいる時、わたくしたちは止めたわ。
外科医は手術することで腕を上げていく。一番腕を磨きたい中堅での何年ものブランクは、響子さんの将来を随分と狭いものにしてしまう。
その時は、牧村総合病院に来てもらうには、まだ少し早かったの。脳外科もなく、響子さんの腕も後一歩だった。だから、大学病院での厳しい勤務を続ける事を進めてしまった……」
おばあちゃんはわたしの頰に手を伸ばした。
「ごめんね、陽菜」
「え?」
「あの時、やっぱり子どもにはママが一番……と言っていたら、きっと陽菜はこんなに寂しい思いをしないで済んだわ」
「え? 寂しいって?」
「明仁が家を出てから、週の半分以上を一人で夕飯を食べているのだと聞いたわ」
ああ、なるほど。
「おばあちゃん、気にすることないわ。わたしだって、たくさんのお医者さまにお世話になっているもの。誰にでもできる訳ではない、大切な大切なお仕事だって、分かっているわ」
おばあちゃんは更に痛ましげな表情をした。
おばあちゃんの目は潤んでいた。
「……ごめんなさい、陽菜」
「おばあちゃん?」
もう一度、おばあちゃんはごめんと謝る。
いったい何に謝ると言うのだろう?
「本当に、陽菜は良い子ね」
おばあちゃんは泣きそうな顔でわたしを見た。
「あなたは、響子さんから預かった大切な命だったの。
小さい頃は、本当によく体調を崩していたから、少しでも陽菜の身体が良くなるように、楽に過ごせるようにと、そればかりを考えていた。けどね、越えられないと言われていた三歳の壁を越えて、将来のことを考えなくてはいけなくなった。
我が子に病気があると、とにかく甘やかして我が儘に育ててしまう人も多い。だけど、そんな子にはしたくなかった。わたくしは必要以上に、陽菜を厳しく育ててしまった気がするのよ……」
「おばあちゃん、そんなことをないわよ? わたし、十分に幸せだし……。おばあちゃんがいつも言ってくれていたこと、どれも大切だと思うし……」
それでも……とおばあちゃんは続けた。
「もしも、陽菜がわたくしの子どもとして生まれていたなら、こんなに厳しく育てられたか分からないのよ。きっと……響子さんから預かった大切な子どもだから、きちんと育てなくちゃと思ってしまったの」
おばあちゃんの目から溢れた涙が、つーっと頬を伝った。
「おばあちゃん、もし甘やかされて育っていたら、きっと、わたし、こんなにみんなから愛されていないよ?」
自分で言うのも気恥ずかしいけど、わたしはたくさんの愛情に包まれて生きていると思う。
病院では、ワガママ放題の暴君も珍しくない。
親にだけワガママというのなら、まだ良い。だけど、誰に対してもいつも文句ばかりで感謝一つしない子どもも多くて、そういう子たちは、気の毒にと、可哀想だから許してやるかと同情はされても好かれることは決してない。
もし、自分がそちら側に行ってしまったら? 考えただけで怖くなる。
「おばあちゃんに、生きていく上で、人として大切なことを教われて、わたし、本当に幸せだよ?」
言葉だけでは足りない気がして、ゆっくりと身体を起こした。
「陽菜?」
「おばあちゃん、大好きよ。……いつも、いっぱいいっぱい、ありがとう」
枕元の椅子に座るおばあちゃんを、ギュッと抱きしめる。
「……陽菜」
「これからも、いっぱい迷惑をかけると思うのだけど、……よろしくね」
「迷惑だなんて! 一度だって、そんなことを思ったことはありませんよ」
おばあちゃんはわたしをギュッと抱きしめ返しながら、そう言った。
それから、わたしをまた寝かせると、おばあちゃんはカナのことを話し出した。
「叶太さんとのことは、世間の常識や世間の目は気にしなくても良いのよ。常識なんて、ただの多数派なことも多いし、時代が変われば常識も変わるわ。人に合わせるのが必要なことももちろんあるけど、結婚に関しては大切なのは誰かじゃなく二人の気持ちよ」
おばあちゃんは諭すように、そんな話をしてくれた。
そして、続けた。
「陽菜、いつも物事を色んな方向から見てみなさいと言ってきたわね。今回も同じよ。叶太さんの方からも見てみなさい。きっと、見えなかった何かが見えるから」
そう言って、おばあちゃんはわたしの頭を優しくなでた。
「そしてね、見えたものを素直に感じて、あなたの心が求めるままに動きなさい。誰に遠慮する必要もないのよ。気持ちを抑えたり我慢をしたりする必要はないのよ?」
おばあちゃんは、そこまで話すと、
「長話をしてしまったわね。顔色が良くないわ。……ごめんなさいね。少し眠りなさい。目をつむって?」
と、優しくわたしの頭をなでた。
言われて反射的に目をつむる。
おばあちゃんはそのまましばらく、トントンと掛け布団の上からリズミカルに胸元を叩いてくれた。
幼い頃を思い出す。よく、こんな風に寝かしつけてもらった。
初めて聞く話ばかりだった。
どれもこれもが新鮮で、牧村総合病院はおじいちゃんの夢で……、パパにもママにも若い時があって……。
今まで見えなかった世界の一端を知り、どこか視界が広がったような気すらする。
おばあちゃんは謝ってくれたけど、どこにも、わたしに謝るような要素はない。
いつだって、大切に大切に育ててもらったもの。ママの手料理なんて、過去何回食べただろうってくらいだけど、おばあちゃんの手料理なら何度も食べさせてもらった。
子どもの頃は、体調が悪い時の看病から、病院の付き添い、入院中のお世話だって、ほとんどおばあちゃんがしてくれた。
だからって、過度におばあちゃん子にならなかったのは、きっと、いつだって、どんなにかパパやママが頑張っているか、わたしを愛してくれているかを聞かされて育ったから……。
うつらうつらと目を閉じてそんなことを考えていると、おばあちゃんの手がふっと離れていき、しばらくしてドアがパタンと閉まる音がした。
その音で、また目が少し覚めた。
おばあちゃんの言葉が何度も頭に浮かぶ。
「見えたものを素直に感じて、あなたの心が求めるままに動きなさい。誰に遠慮する必要もないのよ。気持ちを抑えたり我慢をしたりする必要はないのよ?」
いつだったか、ママにも似たようなことを言われた気がする。
だけどね、おばあちゃん。
……だけど、わたし、分からないよ。
自分がどうしたいかなんて、分からないよ。
今だって、誰にも遠慮なんてしていないし、我慢だってしてなんかいない……。
ううん。違う。多分、そうじゃなくて……。
思い通りに動かない身体。思考能力さえ奪われることの多い、わたしの身体。
気分が悪くなり苦しさに意識を手放し、気がついたら別の場所にいることも多い。そんな身体と生まれた時から付き合ってきたからか、流されるままに生きることにもうすっかり慣れてしまった。
この身体にだって、不満もない。
いつからか、目が覚めた時、どこにいても動揺しないようになっていた。ただ、今どこにいるのかを確認して、納得するだけ。
諦めたとか、そう言うのとは違うと思う。
いつからか、これ以上に何かを望むのは贅沢だと思うようになっていた。
わたしは、生かされている……のだと思う。
この家に生まれたのでなければ、もうずっと前に命を落としているのじゃないかと思うから。
おじいちゃんは、わたしのために牧村総合病院に小児循環器科を設立した。相当に良い条件で腕の良いお医者さまを……権威と呼ばれるようなお医者さまを集めた。
わたしの手術には、日本どころか世界でも注目される神の手と言われるようなお医者さまが招聘される。研修も兼ねてとたくさんの院内のお医者さまが見学に入る。とても勉強になるのだと聞かされた。興奮がちに術技のすごさを讃える声を何度も聞いた。だから、申し訳なく思う必要はないのかも知れない。
だけど、他の患者さんには、当然のようにこんな特別扱いはない。
そして、それだけ手を尽くしてもらって、なお、わたしは手術のたびに死にかけて、助けられる。
そして、自由に動けるほどに良くなることもない。
自分の力で生きているのではなく、大きな力で、たくさんの人の力で、生かされているのだとしか思えなかった。
そのせいか死を怖いと思うこともなく、心の底からの死にたくないという想いを持つこともなかった。
そして、生きたいという強い想いを持つことすらなかった。
きっと、流れるままに流されていたらどこかに行き着くから。
わたしは素直にその流れに乗っていれば良いのだと、そう思っていた。
カナがすべてのお膳立てを整えた結婚。カナが望み、誰もが許してくれた。
だけど、……流されるままに、流れに乗ることはできなかった。
どうしてか、お腹の辺りに真っ黒な重しがのしかかっているような気がしてならない。なぜか分からないけど、もやもや、もやもやと……。
高校生、十七歳での結婚。
しかも、わたしには持病があって、学校にすらまともに通えていない。
普通に考えて、常識的に見て、結婚なんて考えられる状況じゃないと思う。
求められる理由も、許される理由もない。
だけど……例えば、残り時間が後三年……二十歳までだとしたら?
普通は結婚なんてしていない大学生。元気に学生生活を謳歌しているはずの年頃。
だけど、もし、そこまでで命が途絶えると分かっていたら、少しでも長い時間を共にいたいと思う?
結婚を許さなくてはと思う?
別に三年とは限らない。例えば、後一年でも、後五年でも良い。もし、未来の限られた命だったとしたら?
カナはなんで、わたしと結婚なんて考えたの?
一緒にいられる時間が、残り少ないと思ったから?
……いわゆる適齢期まで、わたしが待てないと思ったから?
パパは、ママは、おじいちゃんは、お兄ちゃんは、おじさまは、おばさまは……、なんで、わたしたちの結婚を許可したの?
残り少ない時間を大切に?
最期に好きなことを?
思い残すことがないように?
それは、同情? 憐憫? 思いやり?
なんでかな……。
自分で思い浮かべた言葉が悲しくて、涙が溢れ出した。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出して、止まらなかった。
わたし、今の自分が可哀想だとか、そんなこと何も思っていないのに。
わたし、自分が誰かに、……ううん、わたしの大切にな人たちに、『可哀想な子』だって思われるのが、嫌なんだ。
知らない人に、可哀想にとか大変だねとか言われても、気にしない。気にしても仕方がないって分かってる。
だけど……。
パパやママには言われたくない。
お兄ちゃんには言われたくない。
おじいちゃんやおばあちゃんにも、
おじさまやおばさまにも、晃太くんにも、可哀想な子……だなんて言われたくない。
誰より、カナにはそんな風に思って欲しくない。
決して、カナにだけはそんな風に思って欲しくなかった……。
心にぽっかりと穴が空いたみたいで、なにも考えられなかった。
わたしは声も立てずに、ただ静かに涙を流した。
ただ、静かに涙を流し続けた。
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