12年目の恋物語

真矢すみれ

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季節外れのインフルエンザ

9.ハルちゃんの病気1

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 金曜日、お昼を一緒に食べ、三限の教室まで送っていった時には元気だったハルちゃんが、三限の終わりに迎えに行くと、具合が悪くなって医務室へ行ったと言われて驚いた。

「そうですか、広瀬くんの妹さんでしたか。それは心配ですね」

 俺自身も一年生の時に同じ授業を受けていた。先生には、今でもたまに英文の読解でお世話になっている関係で顔見知りだ。

「本当に。今から様子を見に行ってきます」

 先生も俺も心配だと言いつつも、自分の足で歩いていたと言うので、そこまで深刻には捉えていなかった。
 その考えがとんでもなく甘かったと思い知るのは、それからすぐ後のことだった。



「ハルちゃん!?」

 医務室のドアを開けると、ベッドの上で医者と看護師の二人がかりで介抱されるハルちゃんがいた。

「大丈夫!?」

 ハルちゃんは真っ青な顔で、看護師さんに背中をさすられ、横になったまま激しく吐き戻していた。
 嘔吐が治まった瞬間、先生がハルちゃんの口元に酸素マスクを当てて呼吸を助ける。それだけとっても、ハルちゃんの体調がとても悪いのは見て取れた。

「君は?」

 ハルちゃんから目を離さないまま、先生が俺に聞いた。

「あ、大学院二年の広瀬晃太です。陽菜ちゃんの義理の兄です。医務室にいると聞いて、迎えに来ました」

「そうか。それは良かった。……この状態だと、今はまだ動かせないけど、治まったら病院に連れて行くか、早めに帰った方がいいと思う。家に電話してくれるかな?」

「はい、分かりました」

 激しく調子の悪そうなハルちゃんの様子は気にかかるけど、先生と看護師さんが付いている今、俺の出る幕はない。
 ここには電波を嫌うほどの医療機器はないと思いつつ、窓際へ移動し、ハルちゃんの家に電話をかける。

「はい、牧村でございます」

「沙代さん? 晃太です」

「あら、晃太さん、……お嬢さまがどうかされましたか?」

 さすが沙代さん、鋭い。
 と言うか、沙代さんのこの反応、今のハルちゃんの様子を考えると、叶太が心配症なのでも過保護なのでもなく、必要な心遣いだったのだと思えてくる。

「ハルちゃん、具合を悪くして、今、医務室にいます。それで、迎えをお願いしたくて」

「どんな様子ですか?」

 言われて、ハルちゃんに目を向ける。

「ひどく…戻していて、かなり辛そうです」

「分かりました。すぐ向かいますね」

「お願いします」

 電話を切り、ハルちゃんに目を向けると、また苦しそうに嘔吐していた。

「ハルを一人にしないでね? 絶対だよ、兄貴。本当に頼むよ?」

 不意に脳裏に、叶太の言葉が浮かんでは消えた。

「ハルの顔色、ちゃんと見てあげてね? 絶対無理させないでね?」

 ごめん、ハルちゃん。
 もしかして昼休み、もう調子悪かった?



 沙代さんが来るのかと思って、七号棟の前で待っていたら、黒塗りの大きな車の中から出てきたのはハルちゃんのお母さんだった。

「おばさん! 今日、お休みだったんですね」

「昨日、夜勤だったから。連絡ありがとうね。案内してくれる?」

「はい。こっちです」

「陽菜、吐いてるって?」

「はい、苦しそうに何回も……」

「そっか」

 難しい顔をしているおばさんを先導して医務室へと向かう。その固い表情が気にかかる。

「こんにちは。娘がお世話になってます。陽菜の母です」

 おばさんは軽くノックすると返事を待たずに医務室に入っていった。

「え、響子先生?」

「あれ? もしかして、村瀬くん? 久しぶりだね!」

 なんと、医務室の先生はおばさんと知り合いらしかった。
 だけど、おばさんはすぐに我に返ると、先生とそれ以上話すこともなく、ハルちゃんの元へと足早に移動した。

「陽菜、お待たせ」

 先生がスッと場所を譲った。

「……え? ……ママ?」

 ハルちゃんはおばさんの声を聞くと、肩で息をしながらも、目を開けておばさんを見た。

「しゃべらなくていいよ。苦しかったね」

 それから、おばさんは先生に声をかける。

「嘔吐は?」

「胃液まで吐ききって、少し前に治まりました」

 ああ、だから、酸素マスクが固定されているのか。あのヒドい状態が治まったのなら、本当に良かった。

「なら、移動させても良いかな」

 おばさんはハルちゃんに言う。

「陽菜、病院行こうか?」

「……大、丈夫」

 ハルちゃんの言葉におばさんは眉根を潜めた。さっきよりは良さそうに見えるけど、俺にだって、全く大丈夫には思えない。

「も…ダルいだけ、だから」

 ハルちゃんは、はあはあと息苦しそうにしながらも言葉を紡ぐ。

「寝て…たら、治る…から」

「よく、夜にあるやつみたいな感じ?」

「……ん」

 もしかして、あれか!?
 叶太がハルちゃんと結婚するための材料にしてた、ハルちゃんが夜中に具合が悪くなっても誰にも言わないで我慢してるっていう……。
 いくら、自然に治まると言っても、あの状態を黙っていちゃダメじゃないかな、ハルちゃん!?
 思わず、ハルちゃんを凝視してしまうくらいには驚いた。我慢強いなんてものじゃない気がする。
 なるほど、叶太が結婚を強行するはずだ。まあ、あいつの場合、それだけじゃなく、ハルちゃんの側にいたい想いが強いだけかも知れないけど。

「……じゃあ、取りあえず、家に帰ろうか。点滴くらいなら、家でもできるし」

「…あり…がと」

「もうしゃべらなくていいよ。しんどいでしょ」

 おばさんはハルちゃんの頭をそっとなでると、先生に向き直った。

「一応、状況だけ教えてもらっても良いかな。……あ、それと、晃太くん、悪いけど車行って、毛布取ってきてくれる?」

「あ、はい。すぐに!」

 つい勢いよく答えると、おばさんは笑いながら、

「慌てなくてもいいよ」

 と言った。



 運転手さんから毛布をもらって医務室に戻ると、ハルちゃんは眠ってしまっていた。顔色は決して良くはないけど、さっき、激しく戻していた時よりはずっと良くなっていた。

「じゃ、行こうか。……えっと、車椅子ってある?」

「あ、僕が抱いていきますよ、車、すぐ外ですよね?」

 先生がそう言ったが、それは俺の仕事だろう。

「いえ、俺が抱いていくんで、大丈夫です」

 そう言うと、おばさんは面白そうに俺の顔を見た。

「陽菜、かなり細っこいけど、寝てるから結構重いよ?」

 うーん。叶太が軽々とハルちゃんを抱いて歩いているところなら、何度も見た。
 こんな風に具合が悪くてってのは、あんまり記憶にないけど、例えば、別荘のリビングで眠ってしまったハルちゃんを抱き上げて、とか。
 叶太にできて、俺にはまったく無理とか、さすがにないだろ。

「叶太ほど軽々とは行かないかも知れないけど、一応、俺も男ですよ?」

「……じゃ、お願い。だけど、念のため、村瀬くんも付いてきてくれる? 落としはしないと思うけど」

 さりげなく失礼な事を言われてしまった。
 だけど、万が一を考えたら、おばさんの言う事も分かる。
 先生が、

「もちろん」

 とハルちゃんの移動の準備をするのに合わせて、俺も毛布を持って、ベッドサイドに移動した。
 おばさんがハルちゃんの荷物と俺のデイバッグを持ち、オレは毛布にくるまれたハルちゃんを抱き上げる。先生はハルちゃんの靴を手にした。
 おばさんの言葉を受けて、かなりの負担を覚悟していたのだけど、思ったよりもスッと上がる。医務室のベッドが普通より高めだからかも知れない。
 だけど、それより何より、ハルちゃんは本当に細くて軽かった。
 ふわふわした柔らかい毛布越しに触れて尚、骨の感触を強く感じる。いわゆる、女の子らしい丸みとか一部で嫌われる脂肪の感触がほとんどない。

「あれ? 意外と力あるんだね」

「……おばさん、俺を何だと思ってるんですか」

 思わず、苦笑いしながら言うと、

「いやだって、ねえ? 晃太くんの趣味って、ピアノでしょ?」

「そりゃそうですけど、身体のために、週一で一応、ジム行ってますよ」

「え!? 本当に!?」

 おばさんが本気で驚いた顔をする。
 ってか、その珍獣を見るような目、やめて欲しいんだけど。

「まあ、軽く泳ぐのが中心ですけど」

 経営者たるもの、健康第一。親父はそう言って、昔から運動にも食事にも気をつけている。そして、俺も叶太も子どもの頃から、自分の健康は自分で管理しろと、言い聞かされ続けている。
 多分、牧村のおじさんも何かしらやってるんじゃないかな? 均整のとれたいい身体してるし。
 明仁だって、運動部は面倒だしジムも時間取られるから嫌だと言いつつ、自室での筋トレは欠かさないと言っていたし、スポーツだって何やらせても、それなりに上手くこなす。身体が資本だと言って、一人暮らしのくせに食べるものにも気を使っていた。
 ただ、おばさんは仕事柄、生活が不規則かつ忙しすぎて、とても運動するような時間は取れなさそうだけど。

「いや、ごめん。あんまりビックリして」

 おばさんは笑いながら、先生の方を見た。

「大丈夫そうだから、村瀬くんはやっぱりいいよ」

「え? でもまあ、せっかくなのでついてきますよ」

 先生はそう言って医務室のドアを開ける。

「井村さん、少し出て来るね。すぐ戻るから」

「はい。こっちは誰も患者さんいないんで大丈夫です。……陽菜ちゃん、お大事に」

「ありがとうございました。お世話になりました」

 おばさんは、急にハルちゃんの保護者らしい声を出し、井村さんに向かって丁寧に頭を下げた。



 その後、おばさんと一緒に後部座席に乗ったハルちゃんは、家に着いても目を覚まさなかった。
 約十分後に到着した牧村家で、俺はハルちゃんを抱き上げて寝室のベッドまで運んだ。
 そこから先は、おばさんと沙代さんが動き回り、俺は沙代さんが出してきた点滴台をベッドサイドに運んだり、ハルちゃんの荷物を机の上に移動してみたり、せめて邪魔にならないようにと動くだけ。

 おばさんが聴診器でハルちゃんの胸の音を聴き、脈を測るのを見るのも初めてだった。
 まるで入院している時のように、ハルちゃんは酸素マスクと点滴、それから酸素濃度計を着けられて静かに眠っていた。念のためにと、枕元には嘔吐に備えて容器が置かれている。
 改めて、ハルちゃんが結構な重病人なのだと実感する。
 一段落したところで、おばさんは俺に向き直って言った。

「晃太くん、今日は本当にありがとう。すごく助かった」

「あ、いえ、何も大したことはしてないです」

 本当に、俺は何もしていない。
 ハルちゃんを医務室に運んでくれたのは、ハルちゃんの同級生だし。何より、具合が悪くなる直前の昼休み、一緒にいたのに、俺はハルちゃんの体調不良に全く気が付かなかった。
 俺がやったのは、ハルちゃんの様子を見に行き、沙代さんに電話をした事と、ハルちゃんを抱いて運んだ事だけだ。それだって、俺がいなければ医務室の先生がやってくれたのだろう。

「むしろ、叶太に頼まれていたのに、ハルちゃんが調子悪いことに全然気付けなくて、本当に済みませんでした」

「晃太くん、何、それ気にしてたの?」

 おばさんは呆気にとられたように目を丸くして俺を見た。

「ムリムリ。そんなの分かるの、叶太くんだけだから!」

「……え?」

「今回は昼間だったけど、こういう不調は疲れがたまる夜に出る事が多いみたい。だけどね、具合が悪くなる前にそれに気付ける人なんていないから。沙代さんだって分からないんだよ?」

 叶太が婿に来るまで、家では沙代さんが一番ハルちゃんの近くにいた。その沙代さんが気付けないってことは、おばさんにもおじさんにも分からないって事だろう。

「てか、叶太くんの場合、疲れてるなって思って早めにストップかけるって感じなんだよね。だから、そのまま無理させてたらどうなったかは分からない。何事もなかったかも知れないし、叶太くんのおかげで具合が悪くならなかったのかも知れない。こればっかりは、分からないんだよね」

 おばさんはハルちゃんの頭を優しく、愛おし気になでると、よいしょ、と枕元の椅子から立ち上がった。

「よかったら、お茶でもどう? 入れるのは沙代さんだから味の保証はするよ?」

 その言葉に思わず吹き出しつつ、俺は

「ぜひ」

 と答え、おばさんと一緒にハルちゃんと叶太の寝室を後にした。
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