12年目の恋物語

真矢すみれ

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15年目の小さな試練

1.ピアノレッスン

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 叶太が空手部に入部した翌週、二度目の水曜日も俺は叶太に頼まれて、ハルちゃんと並んで見学していた。
 どうやら、叶太は本当に空手が上手いらしい。型は思わず見とれるくらいに綺麗だし、何より指導に慣れていた。同じ年頃の相手に対して臆する事なく手本を見せて、丁寧に一つ一つの動きを説明し、直していく。
 ハルちゃんの世話を焼きたがる(と言うか、かまいたがる?)のは昔からだったけど、叶太はどちらかと言えば甘え上手な弟というイメージだったのに。意外な一面を見た気がする、と言ったら失礼なのかな。きっと、道場では長年に渡ってやってきた事なのだろう。

 って訳で、これはこれで面白いし別に良いんだけど、俺は一体いつまで付き合えばいいんだろう?
 もしかして卒業までずっと?
 ……まさか、なぁ。
 最初は物珍しいしけっこう面白い思う。だけど、試合でも何でもないただの練習をパイプ椅子に座ってジーッと見ているだけというのは、健康な俺でも結構疲れるものだ。ましてや、ハルちゃんには重労働じゃなかろうか?
 そんなことを考えていると気になって、思わず、

「ハルちゃん、疲れてない?」

 と聞いてしまった。

「え? ううん、そんなことないよ?」

 ハルちゃんは叶太に向かっていた視線をちゃんとこちらに向けて答えてくれる。
 確かに、顔色は悪くない……と思う。そもそも、少しでも体調に不安があったら、叶太がここに連れて来るはずもないだろうし。

「晃太くん、疲れた?」

 逆に聞き返されて、そのまま雑談へ移る。

「特に疲れたって訳じゃないんだけど、水曜日って週の真ん中だし、何となく気だるくない?」

「確かに」

 ハルちゃんはなるほどと笑う。

「火曜日は一週間が始まったばかりって感じで、木曜日には後少しって感じだけど、水曜日だと、まだやっと半分かって思うよね」

「そうそう」

 俺はハルちゃんににこりと笑いかけた。
 で、その気だるい水曜日に、ハルちゃんは来週からも見学するのだろうか?
 って、俺が聞いてもいいもの?
 まあ、俺が心配しなくても叶太が考えるか。
 それに、もう1~2ヶ月もすると、ハルちゃんが苦手な夏が始まる。夏前でも体調が悪くて見学しない日もあるだろうし、そう考えたら、もしかしたら、この見学会も四~五回程度で終わるのかも知れない。

「ハルちゃん、楽しんでる?」

 気持ちを切り替えて、問うと、

「うん!」

 ハルちゃんはとても嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
 そして、そのままスッと笑顔を消して真顔になると、申し訳なさそうな表情になって口を開いた。

「付き合わせてしまって、ごめんね」

「いや、大丈夫だよ。空手って初めてで、見てると面白いし」

「ありがとう。えっと、……晃太くん、あのね、」

 ハルちゃんはそこで言葉を一度切る。言うべきか止めるべきか迷っているようで、視線が宙をさまよう。

「どうした?」

 促すと、とても申し訳なさそうな表情を浮かべて、ハルちゃんは言った。

「あのね、晃太くん、後一回か二回だけ、付き合ってくれる?」

「ああ、もちろん。でも、後一回か二回だけでいいの?」

 むしろ、このまま夏に入るまでと言われるくらいは覚悟していたくらいだから、後一、二回なら何の問題もない。

「うん。カナが……空手部に行くのが普通って状態になったら、わたしがいなくても通ってくれるかなって」

「……ん?」

 なんか不思議な言葉を聞いた気がする。
 それは、どういう意味だろう。
 俺の困惑を感じてか、ハルちゃんは慌てて先を続けた。

「あ、あのね。わたしが、カナが空手をするところを見たかったのも、本当だよ?」

「ああ、うん」

 そうだよね。先週の嬉しそうな、興奮して喜ぶ姿が嘘だったら驚くよ。

「えっとね……カナの生活を、わたし以外で埋めたくて」

「ん?」

 ハルちゃんからは、また不思議な言葉が飛び出す。

「カナ、この前、インフルエンザにかかったでしょう? 全然、熱が引かなくて」

「うん。こんな時期に拾ってくるとか、ある意味すごいよね?」

 ホント、あの丈夫な叶太がインフルエンザにかかったことより、こんな時期にどこで拾ったんだって方が気になるよな。
 ハルちゃんは真顔で話を続けた。

「カナって、いつだって……寝てる時まで、わたしのことを気にしてて、何て言うか、気が休まる時間がないみたいで……」

「ああ~」

 熱があるって実家に戻って来たと思ったら季節外れのインフルエンザだと言うし。大丈夫かと様子を見に行ったら部屋にも入れてもらえないし。
 あいつ、寝ても覚めても、熱があろうと関係なしに、ハルちゃんの事ばっかり言ってたよな。
 で、結局、お袋にスマホとパソコン取り上げられてたっけ。

「だから、カナにわたしのことを考えないでって言ったのだけど、なんかできないみたいで……」

 その言葉に思わず吹き出す。
 それ、叶太に言ったんだね、ハルちゃん!
 でもって、叶太、お前やっぱりできないんだ!

「まあ、あいつには無理かもな」

 笑いながら言うと、ハルちゃんは困ったように眉を下げた。

「だから、ね。わたしのことを考えない時間を増やして欲しくて」

 ああ、なるほどだ。それでこの時間か。
 他のどこにいても、多分、授業中も移動の車の中でも食事中でも、寝ている時まで、叶太は一緒にいてもいなくても、ハルちゃんのことで頭がいっぱいなのだろう。
 だけど、確かに空手をしている時だけは、そこにハルちゃんが入り込む隙はないように見える。叶太がちゃんと空手に向き合えているのが分かる。
 すぐ側に、同じ空間にいるのに、俺を呼び出してハルちゃんの隣に配置するくらいには、叶太はハルちゃんを気にかけられないのだろうと、ようやく自分が呼ばれた本当の意味に気付く。叶太のではなく、俺の同席を断らなかったハルちゃんの気持ちに。
 俺が同席を断ったら、叶太はハルちゃんがどう言おうと、多分、ここには来ていない。
 休憩時間に意識を向ける事くらいはあるのだろうけど、途中でハルちゃんの顔色が悪くなっても、多分、叶太は気付けないのだと思う。それくらいには集中しているのだろう。
 そして、ハルちゃんは叶太にそんな時間……自分の事を忘れる時間を増やしたいと。

「なるほど」

 俺に意図が通じたのが分かったみたいで、ハルちゃんはにこりと笑った。

「カナにね、少しでも、自分のことだけ考える時間を増やして欲しいなって思うの。せっかくだから練習だって、最後まで参加してって欲しいし。夜だって、そのままお友だちとご飯食べに行ってきてもいいと思うし」

 独占欲の塊のような女なら見たことがあるけど、ハルちゃんはその真逆。なんだか、すごく新鮮だった。
 まあ、その根っこには元々、叶太がハルちゃんに張り付いて離れないという事情があるのだろうけど。
 そして、ふと浮かんだ言葉を俺は思わず口にしてしまった。

「ハルちゃんはさ、叶太が鬱陶しいと思うこととかあるの? あいつ、四六時中、ハルちゃから離れないけど」

 最初、ハルちゃんは何を聞かれたのか分からないという顔をし、次の瞬間、俺の言葉の意味を理解して、大きな目をまん丸に見開いた。

「まさか!」

 ハルちゃんは何度か瞬きしてから、とても困ったような顔をして言った。

「……あのね、カナがイヤで言ってるんじゃないんだよ?」

「ごめんごめん。大丈夫。分かってるから」

 笑いながら答えると、ハルちゃんはホッとしたように表情をゆるめた。

「ただ、普通に考えて、あいつのあれは行き過ぎと言うか、やり過ぎと言うか……うん、もしオレがハルちゃんの立場だったら、逃げ出したいって言うか……あ、いや、」

 ごめん、叶太。
 なんか言葉を選び間違えた! ってか、口が滑った!
 けどホント、付き合ってる女の子が叶太みたいな感じだったら……正直、耐えられない。
 いや、そうじゃなくて、ここはフォローだろ、俺!
 困った、どう収めようと思っていると、ハルちゃんがクスクス笑いだした。

「ありがとう、晃太くん。わたし、カナの気持ち、ちゃんと分かってるよ。鬱陶しいとか思っている訳じゃないの」

「えーっと。……そっか、それなら良かった」

 楽しそうにひとしきり笑った後、ハルちゃんは静かにほほ笑んだ。

「ただ、申し訳ないなって思ってるだけなの。……晃太くん、巻き込んじゃってごめんね」

「いや、俺のことは気にしないでいいよ」

 そこでふと思いついた。
 ポッと降ってきたものを頭の中で反芻する。
 うん。悪くない。

「ね、ハルちゃん、ピアノ弾いてみる?」

「え?」

 突然、脈絡もなく飛び出した言葉に、ハルちゃんは小首を傾げた。

「ピアノ。教えてあげようか、毎週水曜日」

「……晃太くん?」

 ハルちゃんはやっぱり、俺の言った言葉の意味が分からないみたいで、大きな目を瞬いた。
 だけど、俺が、

「この前、楽しくなかった?」

 と聞くと、パアッと表情を明るくして、

「楽しかった! すっごく楽しかった!」

 と両手を合わせて笑顔を見せてくれる。

「ハルちゃん、ピアノ、好きだよね」

 カエルの歌の輪唱、あんな簡単な曲でも音楽を楽しむという目的は十分に果たせるのだから、面白い。

「うん。好き! 晃太くんのピアノを始めて聴かせてもらった日から、大好き!」

 目を輝かせてそう言ってくれるハルちゃんに、なんだか胸が熱くなる。

「ありがとう」

 お礼を言いつつ、もう一度、伝える。

「ピアノ、よかったら教えるよ? 叶太がいない水曜日の夜」

 そうすれば、多分、叶太も素直に空手に行くんじゃないかな?
 そう思っての提案だったけど、ハルちゃんは表情を曇らせた。

「でも、わたし、小さい頃に一度、ピアノ習わせてもらったけど、体力なくて練習もできなくて続かなくて……」

 その言葉に、十年以上昔、出会ったばかりの頃の幼いハルちゃんを思い出した。


   ◇   ◇   ◇


 ハルちゃんたち一家は年中さんになる年に、うちの隣に引っ越してきた。牧村総合病院の院長であるおじいさん達夫婦は元々うちの隣人で、その裏手にあった大きな駐車場をつぶして、ハルちゃんたちの家が建てられたんだ。

 5月の運動会の練習で叶太に誘われて走ってしまったハルちゃん。心臓病をひどく悪化させたハルちゃんは長い長い入院生活を送ることになった。その間、病院に日参した叶太は、気が付くとすっかりハルちゃんと仲良くなっていた。
 そして、子どもの年齢が上も下も同じだったのもあってか、うちと牧村家は自然と家族ぐるみのお付き合いをするようになっていった。

 当時、俺は小学四年生。幼稚部から同じとはいえ顔見知り程度だった明仁と話すようになったのも、その引っ越し以来。
 当時から、勉強も運動も完ぺきにこなす明仁は、まるで子どもらしくない子どもだった。顔は笑っているのに目が笑っていない。ケチのつけようがないくらい人当たりがいいのに、明仁への俺の印象は、得体が知れないヤツ。……だったのに、ハルちゃんと一緒にいる明仁を見た瞬間、あいつへの印象は一変した。

 明仁に連れられてうちに初めて遊びに来た時のハルちゃんの事、よく覚えている。
 春に入院したハルちゃんが退院したのは秋。幼稚園に行けるようになったのは冬に入った頃だった。その頃、叶太が執拗に誘ったらしく、ハルちゃんは初めてうちに遊びに来た。
 すぐ隣の家なのに、ローズピンクのコートにおそろいの帽子、もこもこブーツで完全装備のハルちゃんは、明仁に抱っこされていた。
 何事もそつなくこなし、何事にも興味の薄そうな明仁が、妹の付き添いにやって来るというのにも驚いたけど、それより何より、ハルちゃんに向ける優しい視線に驚いた。

「こんにちは。お邪魔します」

 礼儀正しくお辞儀をした明仁。その腕の中のハルちゃんも、明仁と同じように、

「こんにちは」

 と笑顔を見せると、ぺこりと頭を下げた。

「いらっしゃい! さあ、上がって上がって」

 お袋が明仁からハルちゃんを受け取り、玄関に座らせると、明仁がブーツや帽子を脱がせる。決して嫌々ではなく、心の底からの笑顔を見せながら、ハルちゃんの世話をする明仁の姿を見て、俺は衝撃を受けた。学校で見る明仁とは、まるで別人だったから。

「ハルちゃん、こっちおいでよ!」

 叶太がコートまで脱がされたハルちゃんの手を引こうとすると、明仁が

「陽菜は、まだあんまり歩けないから」

 と遮り、またハルちゃんを抱き上げた。

「じゃあ、こっち来て!」

 叶太は臆することなく、明仁の服の裾を引いた。
 それから、俺を振り返って言った。

「兄ちゃん、ピアノ弾いてね!」

「……え?」

「ハルちゃんに、兄ちゃんのピアノ聴かせるって約束したんだ!」

 聞いてないぞ!
 と目を丸くした俺は悪くないと思う。

「ハルちゃん、うちの兄ちゃん、すごっく上手いんだよ。ミナ先生なんか、目じゃないんだぞ」

 叶太の言葉に頭が痛くなる。
 だけど、明仁の腕の中のハルちゃんは期待に目を輝かせていて、明仁はと言うと、同情の混じった視線を向けてきた。その視線が何だか悔しくて、叶太の無邪気な

「兄ちゃん、リビングのピアノでいいよね?」

 という言葉に、思わず言ってしまった。

「ピアノ室の方に案内して」

 その言葉に明仁が目を見張った。

「分かった! こっちだよ!」

 そうして、その前年、増築して作ってもらったピアノ室へと二人を案内して、秋のコンクールで弾いた曲を披露した。
 ハルちゃんは俺の演奏に頬を上気させて小さな手で力いっぱいの拍手をくれた。音楽なんてまだ分からないはずの幼児からの称賛も嬉しかったけど、それよりも、何事にも冷めている明仁の

「お前……すごいな。正直、驚いた」

 という本気の称賛が何より嬉しかった。
 その後、叶太や明仁に連れられて、ハルちゃんが遊びに来るようになり、何度かに一度はねだられてピアノを弾いた。
 ハルちゃんが家に出入りするようになってから、一年が経った頃、

「はるなもね、一年生になったら、ピアノ、習うんだ」

 そう言って、嬉しそうに笑っていたハルちゃんの幼い笑顔を思い出す。
 小学校入学前のお誕生日プレゼントはピアノだった。

「はるなのピアノだよ」

 と嬉しそうに見せてくれた時のキラキラ輝く瞳を思い出す。
 そして、それからわずか数ヶ月後の明仁の言葉。

「陽菜、ピアノやめたんだ」

 入学式の後、新しい環境のせいか体調が今一つ良くないと、ハルちゃんはしばらくうちに来なかった。
 学年が上がり明仁とも違うクラスで、しばらく会わない間の事だった。

「……そっか」

 あんなに喜んでたのに。
 小さなハルちゃんの胸の内を思うと、心が重くなった。


   ◇   ◇   ◇


「一年生の時だっけね?」

「うん。パパにピアノまで買ってもらったのに、ね」

 ハルちゃんは少し遠い目をした。



 元々小さかったハルちゃんは、小学校に入学した時にもまだまだ小さくて、幼稚園の年中さんくらいの大きさしかなかった。
(年中さんの時には制服を着ても年少さんに見えるかどうかくらいの大きさで、叶太と並んだら、二歳違いの兄妹に見えたくらいだった)
 毎週、車でピアノの先生のところまで行っていたらしいけど、乗り物酔いもあったみたいで、結構大変だったと聞いた。
 ちゃんとした先生に習わせる以前に、音楽に親しむくらいの気持ちで近所の教室に通わせてあげれば良かったのだろうと思う。だけど、その頃は俺も小学生だったし、口を出せる立場になかった。
 明仁はあの頃からハルちゃんを溺愛していたと思うけど、ハルちゃんの話をぺらぺら話すようなタイプでもない。
 そもそも、小五の三月にピアノを見せてもらい、小六になった四月、

「陽菜がピアノ、習い始めたよ」

 と聞いた後、次に聞いたのがピアノは止めたという話だったくらいで、口を出すタイミングもなかった。
 何より、心臓が悪いハルちゃんは、小学校に通うのすら体力的にも体調的にも厳しいみたいで、早退とお休みを繰り返していると叶太から聞いていた。そんな状態では、習い事に手が回らないのは仕方ないと思った。

「それは残念だったね」

 あんなに楽しみにしていたのに。
 そう思いながら言った俺の言葉に、明仁は

「よかったら、また聴かせてやって」

 と言った。

「ああ、いつでも連れてきてあげて」

 その後もハルちゃんは、明仁に連れられてよく遊びに来て、叶太と遊び、ピアノも聞いていっていた。だけど、俺が中学に入り部活が始まると時間も合わず、少しずつハルちゃんが遊びに来る回数も減って行った。
 気が付くと、この春の誕生日までの何年もハルちゃんにピアノを聴かせていなかった。



「せっかくだから、あのピアノを弾いてあげない?」

 ハルちゃんの家にあるのはスタインウェイのアップライト。初めての習い事に、おじさんが張り切って取り寄せた逸品だ。
 何にせよ、あれはもったいない。
 スタインウェイがまったく弾かれず、飾りと化しているなんて、もったいないと言うか、そう、ピアノが気の毒すぎる。
 調律は完璧だったし、埃一つ積もっていなかったし、ピアノに対する冒涜とまでは言わないけど……。
 でも、ピアノが好きだと嬉しそうにしていたハルちゃんはやっぱり遠慮する。

「とっても嬉しいの。でも……」

 ……だよな。
 たった一週間、叶太がインフルエンザにかかった間に俺が付き添うのさえ、相当遠慮してたもんな。
 だけどね、ハルちゃん、

「俺は、あのピアノ、弾いてあげて欲しい!」

 ん? 俺の声、そんなに気合い入ってた?
 ハルちゃんはとても不思議そうに俺を見た。

「……晃太くん?」

 俺はハルちゃんにピアノを弾かせてあげたいのか、あのピアノを弾いてもらいたいのか?
 ……うん、どっちもだよな。
 でもって、ハルちゃんは叶太を自分から引き離したい、と。
 そう考えたら、この話、悪い提案ではないと思う。

「えっとさ、別に運指の練習なんてしなくていいし、身体に負担がかかるような練習はさせないよ。それでも、ゆったりした簡単な曲を時間かけて弾けるようにするくらいなら、無理なくできると思うよ」

 ハルちゃんが気にしているのは、そこじゃないと知りつつ、あえて習うならの過程で話してしまう。

「……例えば?」

 お、いい感触。

「そうだな。例えば、アヴェ・マリアみたいな曲とか」

 ハルちゃんは俺の言葉に目を輝かせた。

「弾ける? 私にも弾けるかな?」

 やっぱり、ピアノ好きだよね、ハルちゃん。
 自然と俺も頬がゆるむ。

「うん。大丈夫。割と簡単な曲だし、ハルちゃん、リズム感も音感も悪くないと思うし」

 ハルちゃんと一緒に弾いたのはカエルの歌なんて簡単なものだけど、これはホント。幼稚園児のハルちゃんが叶太と一緒に歌っていたのも聞いた事があるけど、ちゃんと上手だったし、問題ないはず。
 だけど、俺の言葉をキラキラ輝く笑顔で嬉しそうに聞いていたハルちゃんは、不意に真顔に戻る。

「でも、晃太くん、迷惑じゃない?」

「え、なんで? 俺から言い出したんだよ? 迷惑なら言わないよ」

「だって、毎週、晃太くんの大事な時間をもらっちゃうなんて……」

「ああ、今年は修士論文書くくらいで、俺は就職活動もないし」

 そう。修士論文の内容はもう決まっているし、就職先も親父の意向で決定済み。長期でやってるバイトもないし、時間は割とある方だと思う。

「ピアノを教えるってのも、いい経験になりそうだし、むしろすごく嬉しいよ?」

「いい経験?」

「親父の跡を継がなきゃとか、そう言うのがなかったら多分、俺、ピアノの先生か、小学校の音楽の先生になってたと思うの」

 その言葉を聞くと、ハルちゃんの目が大きく見開かれ、満面の笑顔が広がった。

「すごい! 晃太くん、ぴったし!」

「そう?」

「うん。すごく優しい先生になってそう!」

「ありがとう。……でも、まあ、そう言う未来が来る予定はないから、一度くらいは経験したいなって」

 教職は一応取ったし、実習も行った。だけど、うちの学部で取れるのは社会の教員免許だから、俺が音楽の先生になる未来はない。音大ではなく杜蔵の経営学部を選んだ時から、それはもう決まっている。
 自分で決めたことだし後悔はないけど、教えてみたい気持ちがないわけではない。

「どう? 素人のくせにピアノを教えてあげるなんて、おこがましいけど」

「ううん! とんでもない。でも、わたしで、いいのかな?」

「もちろん」

 むしろ、ハルちゃんくらい素直な子じゃなきゃ面倒だ。

「じゃあ、来週からでいいかな? 6時くらいにハルちゃんちに行くね」

 ハルちゃんはもう遠慮することなく、嬉しそうに

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。
 その後は、また叶太の空手見学に戻る。
 結構長くおしゃべりしてしまったから、前半はほとんど終わりかけていた。
 ハルちゃんはその日、叶太が切り上げてくるまでの間、とても優しい視線を叶太に向け続けていた。
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