12年目の恋物語

真矢すみれ

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15年目の小さな試練

5.予兆

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 日々、まだまだ慣れない講義で頭をもまれ、渡される課題を何とかこなしている間に、気が付くと六月に入っていた。梅雨はまだだけどジワジワと気温が上がりつつある、そんな火曜日の朝。

「ハル、じゃあ行ってくるね?」

「いってらっしゃい。……ごめんね、課題、お願いします」

 昨日の夜から微熱が下がらないハルは、ベッドの中からオレに手を伸ばした。
 その手をキュッと握って、ハルの額に唇を寄せる。
 熱こそ高くないけど、顔色は良くないしとてもだるそうで心配になる。

「大丈夫、ちゃんと渡しておくから。ハルはゆっくり休んでね? 具合悪くなったら、沙代さんに言わなきゃダメだよ?」

「ん。ちゃんと言うから心配しないで?」

 ハルは笑みを浮かべてオレを見る。

「それに、おじいちゃんが出勤前に寄ってくれるのでしょう?」

「そうだった」

 朝イチでじいちゃんに電話したのは自分だというのに、ハルに言われてようやく思い出す。お義母さんは残念ながら学会とやらで昨日から出張中。明日にならないと帰らない。

「だからね、心配しなくても本当に大丈夫。これくらいなら、今日一日寝ていたら治るから」

「うん」

 そうは言っても、心配はするのだけど。
 だけど、これ以上はハルに要らぬ気遣いをさせるだけだから、何も言わず、オレはそっとハルの頭をなでた。ふわふわ柔らかいハルの髪は今日も気持ちいい。

「行ってらっしゃい。頑張ってね」

「ん。ノートもちゃんと取ってくるな」

「ありがとう」

 ハルはニコリと笑い、オレは後ろ髪を引かれながら部屋を出た。



「沙代さん、ハルをよろしくね?」

「ええ、もちろんですとも」

 家を出る前に、わざわざキッチンに顔を出したオレの言葉を聞くと、沙代さんはクスリと笑った。

「言われなくても気にかけてますよ。心配しなくても大丈夫ですから、お勉強頑張ってきて下さいね」

「はーい」

「お嬢さまがいないと不要かもと思いましたが、お弁当です。いらなかったら、お昼に私がいただくので置いていって下さいな」

「いるいる。ありがとう」

 弁当を受け取り、背中にかけたデイパックを下ろして底にしまう。

「沙代さんのご飯、本当に美味しいよね。今度、あれ教えてよ」

「どれですか?」

「蓮根入りのつくね。すごく美味しかった」

 シャキシャキしてるのにふっくらしてて、薄味なのにしっかりうま味が出ていて、小さなつくね団子はハルもすごく美味しそうに食べていた。

「ありがとうございます」

 沙代さんは嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「では、今度のお休みにでも作りましょうか?」

「うん。ハルの昼寝時間に!」

 オレの言葉に沙代さんはまた笑う。

「はい、そうしましょう。材料、用意しておきますね」

「お願いします! じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ。……今日は自転車ですか?」

「うん」

 高校の奥にあって若干遠くなったとは言え、ハルがいなきゃ当然自転車通学だ。

「お気をつけて」

「はーい」



 家を出てガレージから自転車を出していると、じいちゃんが裏の家から歩いてくるのが見えた。

「じいちゃん、おはよう!」

「おはよう、カナくん」

 手を振って挨拶すると、じいちゃんはニッコリ笑って、オレのところにやって来た。

「今日は自転車か」

「うん。天気もいいし、一人なら自転車の距離だよね」

「大学の方は坂がきつくないかい?」

「ちょうどいいトレーニング!」

 と言うと、じいちゃんは声を上げて笑った。

「カナくんは元気だね。まあ若い時に身体を鍛えておくのはいいことだ。でも、くれぐれも車には気を付けるんだよ?」

「了解!」

 じいちゃんは家には入らず、オレを見送ってくれるつもりらしい。

「じゃあ行ってきます。ハルのこと、よろしくね?」

「ああ、任せなさい。気を付けて行っておいで」

 門を開けて外へ出ると、じいちゃんが「閉めておくから」と門に手をかけた。

「ありがとう!」

 オレはじいちゃんに手を振って、自転車のペダルを踏み込んだ。


   ◇   ◇   ◇


「あれ、奥さん、休み?」

 火曜日の二限目はハルが好きな山野先生の演習の授業。
 5月からグループワークが始まっていて、席は班ごとに分かれている。オレ一人で自分の班の島に行くと、すでに来ていた海堂達己かいどうたつきに声をかけられた。
 海堂はハル本人がいるところでは「ハルちゃん」と呼ぶけど、オレしかいないところでは「奥さん」と言う。グループワークが始まった最初の頃、「奥さん」という言葉にオレはムチャクチャ嬉しそうな顔をしていたらしく、それ以来、半分からかいを込めて言われている。からかい半分と言っても、オレが嫌がるどころか喜んでるので、全くからかいになっていないのは、お互いに承知の上。

「うん。少し熱があって。ごめんね、今日はオレだけで」

「あ、いや。それは全然平気」

 別の島でおしゃべりに興じていた今井美香も戻ってくる。

「ハルちゃん、今日お休み? 大丈夫?」

 山野先生の授業も他の授業もちょくちょく欠席や早退をしているハルは、既に身体が弱いらしいと認識されていた。

「熱出したんだけど、そんな高くないから大丈夫。心配してくれてありがとね」

 班のメンバーは前期固定で、後期にまた新しいメンバーになるらしい。男女三人ずつの六人班。
 ちなみに自由に班を決められる訳じゃなかったけど、夫婦関係にあるオレがハルと一緒の班にいるのには、もちろん理由がある。
 ハルには持病があるから、オレが側にいた方がいいとか、休みが多くなるだろうから内容を共有しやすいようにとか、大学に伝えた建前は色々あるけど、早い話、今年のお願い事項がそれだった訳だ。

 結婚までしておいて、いつまでも親父やお義父さんに頼っている訳にはいかないだろうと、今年はオレ名義でも結構な額の寄付をさせてもらった。
 ハルは嫌がるだろうけど、強行した。と言うか、ハルには事後承諾。
 担任がいない、決まった教室がない、そんな状態でハードな課題がたくさん出て、更に放課後にもグループでの活動が出てくるかも知れないとか。そんな心身に大きな負担がありそうな状況に、ハルを一人で放り込める訳がない。
 と言う訳で、班活動が中心となるこの授業で、約束通り学校側はさり気なく(はないかも知れないけど)オレたちを同じ班にしてくれていた。

「ハルちゃんいないと、今日の課題、結構大変かも?」

「何気に、ハルちゃんすごいよな」

「そうそう。自己主張とか全然しないのに、不意に核心を突いた一言が出てきて、一瞬で場の空気変わるよね」

 今井が心底感心しているという感じで海堂に話しかける。
 そうなんだ。
 これまでも常々、ハルは頭がいいと思っていた。だけど、どうやらハルの頭脳は、ただ成績がいいというような頭の良さだけじゃないらしい。大学入学以来、それをまざまざと見せつけられている。

「あれ、ハルちゃんは?」

 本城柚希ほんじょうゆずきと河野亮也かわのりょうやが連れ立って到着。ハルを除いた全員が集合した。

「ハルは熱出ちゃって、今日はお休み」

「そっか、一人で大丈夫?」

「……ん? ああ、家に人いるから大丈夫」

 そう言えば、プライベートな話はほぼしていない事を思い出す。
 仮にハル以外、家に誰もいないような状態だったら、オレは絶対、学校になんて来ていない。大学から一緒になったヤツらが、そんなことを知るはずもないけど。

「お母さんか誰かに来てもらってるの?」

 ……ん?

 ああ、ハルとオレの二人で暮らしてると思ってるのか。

「いや、」

 と続けようとしたところで、先生が助手数名伴って入室し、オレたちの雑談も終了した。


   ◇   ◇   ◇


 夕方、急いで家に帰ると、ハルが玄関まで出てきてくれた。

「お帰りなさい」

 にっこり笑ってオレを出迎えてくれたハルは、思ったより元気そうだった。

「ただいま。ハル、起きてて大丈夫?」

「うん。お昼過ぎには熱、下がったよ」

 その情報は沙代さんからもらっていたけど、ハルの顔を見るまで安心は出来なかった。
 だけど、この様子なら、明日は学校にも行けるかも知れない。
 その場でハルを抱きしめようと手を伸ばしてから、手洗いうがいの後の方が良いだろうと思い出し、しぶしぶ腕を引っ込めた。
 それを見て、ハルはくすりと笑った。
 だけど、ハル、笑い事じゃないからね?

「先に、手洗うね」

 特に風邪も変な病気も流行ってないけど、オレはちょうど一ヶ月前、感染源が分からない季節はずれのインフルエンザを拾ったばっかりなんだから。
 世の中には、どんな病原菌が潜んでいるか分かったものじゃない。

「ん。待ってるね?」

 ハルは洗面所に向かうオレの後を付いてきながら、嬉しそうに微笑んでくれた。
 およそ八時間ぶりのハル。
 穏やかな笑みを浮かべるハルは、相変わらず文句なしに可愛かった。
 ああ、今すぐ抱きしめてキスしたい!
 はやる心を押し殺しながら、丁寧に手洗いとうがいを済ませ、ハルを抱きしめハルの感触をしっかり堪能した後、荷物を置きに寝室に入ったところで思い出した。

「あ、そうだ。山野先生にハルの課題、提出してきたよ」

「ありがとう!」

「で、さ、……次の課題を預かったんだけど」

「ホント?」

 嬉しそうにそう言って、ハルはオレがデイパックを開けるのを待つ。
 ってかさ、やっぱり嬉しいんだよな?
 正直、体調崩して休んでるって伝えてるのに次の課題を渡されて、オレは少し驚いたんだ。ハルに結構重い持病があるのは事前に話が通っている訳だし。
 だけど、ハルが嬉しそうに課題が出てくるのを待っているのを見ると、そんな言葉は言いにくい訳で……。

「はい、これ」

 結局、オレは何も言わずに預かった課題をハルに渡した。

「今日渡したのも、その場でザッと見てくれたんだけど、よく書けてるって言ってたよ」

「よかったぁ」

 ハルはホッととしたように胸に手を当て、ふわりと微笑んだ。

「で、先生から伝言。無理はしなくていいけど、できたらやってみてって。期待してるわね……だって」

「うん。頑張るね」

 ハルは早速、課題のプリントをめくり始めた。
 そもそも、渡される課題の量が違う。オレを含めた他の学生が渡されるのが三、四枚つづりだとしたら、ハルのは十二枚つづりだ。枚数だけが問題じゃないとは思うけど、3~4倍ってのは、やっぱり普通じゃないと思う。
 だけど、ハルはその課題を読むのすら面白いようで、今渡したばかりの課題も、もう二ページ目を読んでいる。
 何て言うか、すごいスピード。全く付いて行けない。これは、ハルの趣味が元々読書だからかも知れないけど。

「ハル、読むなら座ろう?」

「……ん」

 デスクの椅子を引き、促すと、ハルは半ば上の空のまま、オレに背を押されて椅子に腰を下ろした。
 結局、夕飯の時間が来るまで、ハルがデスクを離れることはなく、仕方なく、オレも隣でもらってきたばかりの課題を片付けることにしたのだった。



 今日の夕飯は、沙代さんお手製の肉じゃがコロッケ。それから、たっぷりの千切りキャベツと具だくさんのお味噌汁。付け合わせはひじきの煮物。
 だけど、ハルは食欲がないみたいで、卵雑炊を食べていた。コロッケを食べられるほどではないけど、雑炊なら躊躇なく口にできている。体調もそこまで悪くはなさそうでホッと胸をなでおろした。

「あ、そうだ」

「ん? なあに?」

「あのさ、山野先生の授業、来週から二週連続のワークになるって」

「二週連続?」

 ハルは雑炊をすくうレンゲを止めて、オレ顔を見て小首を傾げた。

「うん。今、九十分の授業の中で、軽く説明聞いて、ディスカッションして答えを出して、どこか1~2グループが発表するでしょ?」

 ハルは小さく頷いた。

「来週から、最初の週はディスカッションだけで、二週目に発表準備と全グループ発表と講評になるんだって」

 ハルは驚いたように数度瞬きした。

「……ディスカッションの時間が長くなるのかな?」

「ああ、うん。それがさ、なかなか一日目だけでは終わらなくて、結局、放課後に集まって話すことになるっぽい」

 先生の、終わらなければ集まってでも片付けるように、というような言葉に、ちょっと教室がざわついた。うちの班はけっこう仲がいいと思うけど、そうでもない班もあるみたいだから、放課後に集まってと言うのは複雑な学生もいるだろう。

「放課後かぁ」

 ハルは小さくため息を吐いた。
 みっちり一日講義を受けた後での課外活動。ハルには重荷だよな。

「無理のない程度に参加しよう」

 そっとハルを抱き寄せると、腕の中のハルは小さな声で、

「頑張るね」

 と言った。

「頑張り過ぎちゃダメだよ」

「……うん」
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