12年目の恋物語

真矢すみれ

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15年目の小さな試練

17.試練の終わり

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 久保田教授に手を引かれ、山野先生の研究室を出る。背後には、わたしを守るように晃太くんがいた。
 直接話さなきゃと思った。そうしなきゃ、先生が何を考えているかなんて分からないと思っていた。逆に言えば、話せば分かってもらえるとも……。
 甘かったな。
 苦い思いが胸を満たす。

「ハル!」

 部屋を出た瞬間、カナが駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

 心配そうな、いつもと変わらないカナの顔を見ると不思議なくらいホッとした。
 カナが来ると同時に久保田教授がわたしの手をそっと放した。

「とりあえず、うちの部屋に来るかい?」

 久保田教授の言葉に晃太くんが

「いえ、山野先生が訪ねてくる気がしますし、今日は失礼します」

「ああそうか、確かに……」

 久保田教授は眉をひそめて、山野先生の部屋の方を振り返った。

「本当にお手間をおかけしました」

「いや、どう考えてもこっちの問題だ。巻き込んでもらえて、むしろ助かったよ」

 晃太くんの言葉に久保田教授は苦い表情で逆にお礼を言った。

「じゃあ、ハル、帰ろうか。車はもう来てるから」

 カナに肩を抱かれて、そのまま連れて行かれそうになって慌てて止める。

「ちょっと待って?」

 カナの腕から抜け出し、助けに入ってくれた久保田教授の方に向き直って

「ありがとうございました」

 と、深く頭を下げる。
 山野先生とは会話にすらならなかった。
 だけど、今、心の中が絶望でいっぱいではないのは、久保田教授のおかげだ。
 話せば分かってくれる人もいるのだと思えたのは、本当にありがたかった。そうでなければ、今頃、どんな気持ちだっただろう? 晃太くんに連れ出されて、会話も終わらないままに研究室から出ていたのだったら……。
 もしかしたら、こんな風に対応してもらえたのはパパとカナが出したという寄付金のおかげかも知れないと思ったら、やっぱり心が晴れるにはほど遠かったけど……。

「牧村さん、あなたが頭を下げる必要はないんですよ」

 久保田教授はわたしの肩に手を置いた。

「本当に申し訳なかった。
 山野先生を許して欲しいとは言いません。あれは、あなたの誠意を踏みにじる行為だと思います。
 ただ、山野先生の行為を正当化する訳ではありませんが、あなたの実力を示す良い機会になったとも思います」

 久保田教授は真っ直ぐにわたしを見て、言った。

「レポートの内容を改めて確認させてもらってもいいですか?」

「え?」

 何を言われているか分からずに首を傾げると、久保田教授は隣のカナに視線を移した。

「えーっと、ハルの課題、見せちゃったんだ。ごめんね?」

「……わたしの課題? 山野先生の?」

「うん」

 カナがデイパックからバインダーを取り出すと、

「それそれ」

 と久保田教授が手を伸ばす。

「二、三日、借りてもいいかな?」

「こんなもので良ければ」

 何に使うのか分からないけど、断る理由もない。
 ああ、もしかして、山野先生が出した課題がどんなものか検証する必要があるのかも知れない。
 そんなことを考えていると、久保田教授がニコッと笑って言った。

「さっきザッとですが、あなたの書いたレポートを見せてもらいました。深い考察と思いもかけない視点がとても興味深かった」

 ……え?
 何か、とても不思議な言葉を聞いた気がする。
 意味を取れずに呆然としている間に、久保田先生は言葉を続けた。

「これに懲りずに、これからも学びを楽しんでください。そして、いずれは、私のゼミに入ってくれたら嬉しいです」

 笑顔で告げられたその言葉が、じわじわとわたしの胸に響いていく。
 深い考察と思いもかけない視点。
 いずれは、私のゼミへ。
 言葉の断片が頭の中で何度もリフレインする。
 目頭がきゅうっと熱くなって、ダメだと思うのに涙がこみ上げる。

「牧村さん!?」

 久保田教授が驚いたように目を見開いて、わたしに手を伸ばす。
 あふれ出した涙は、頬を伝い、床へと落ちる。

「辛かったですよね。山野先生のやりようは教育者の片隅にも……」

 わたしを慰めようと久保田教授は言葉を紡ぐ。だけど……

「……違うんです。あの、ただ、嬉しくて」

 誤解を解くために慌てて口を挟んだ。

「久保田…先生の、言葉が……」

 ちゃんと話したいのに、ポロポロとあふれ続ける涙が邪魔をする。
 分かってくれる人がいたことに、それを言葉にしてもらえたことに、心が震える。
 出された課題を一生懸命解いた。だけど、頑張れば頑張るほど、山野先生との距離は開いていく気がしていた。
 自分は何を求められているのだろう? 仮に失敗を求められているのだとしても、わざと間違えるなんてできるはずもなくて……。
 先生は表面上はいつもほめてくれたから。だから、更にどうすればいいのか分からなくなった。
 この数ヶ月間で、いつの間にか心の奥が凍りついていた事に今更気付く。
 それが久保田先生の言葉で静かに溶けはじめていた。
 頑張ったことをただ誉められただけ、暖かな言葉をかけてもらっただけなのに……。
 自分がしたことを認められるというのは、どうしてこんな心を満たすのだろう?

「……ごめ…なさ」

 止まらない涙で息が荒れる。
 言葉にならないなら、せめてと笑顔を浮かべて、わたしはゆっくりと頭を下げた。
 心からの感謝の気持ちを込めて。
 顔を上げると、久保田教授がきれいにアイロンを当てたハンカチで、わたしの涙を拭ってくれた。
 そして、にこりと笑う。

「来年、待ってますよ」

「はい」

 わたしの答えに満足そうにうなずくと、久保田教授はカナに目を向けた。

「旦那さんの方は、もう少し頑張ってね。私のゼミは倍率が高いよ」

 面白そうに笑いながら、教授はポンポンとカナの肩を叩く。

「はい! 精進します!」

 カナが瞬時に姿勢を正し真顔で返事をする。
 それを見た晃太くんが、クスッと笑いをこぼした。


   ◇   ◇   ◇


「ハル、大丈夫?」

 帰りの車の中で、カナがとても心配そうにわたしを見た。

「大丈夫だよ」

 正直、ダメージがないと言ったらウソだ。だって、勇気を振り絞って話した結果があれだったから。
 それについては、虚しさしかない。

「……話しても、分かりあえない相手って、いるんだね」

 思わず、ため息がこぼれる。
 もしかしたら、わたしの話し方が悪かったのかも知れない。でも……。
 ヒステリックに叫ぶ山野先生の姿が脳裏に浮かぶ。

「あなたみたいに身体が悪くて、だけど、為すすべもなく死んでいく子だって、世の中にはいくらでもいるでしょう! すべてを持っているあなたが、偉そうに言わないで!」

 分かってる。
 自分がとても恵まれているって。
 ズルいと言われたら、否定できない。
 もし、別の家に生まれていたら、わたしは今、生きていないかも知れないと、痛いほど分かるから。
 小さい頃から特別室にしか入院していないからか、わたしには同じように病気を抱えた友だちと言うのが、ほとんどいない。
 ほとんどと言うか、十八年生きてきて、お互いの病室を訪ねあうほど仲良くなったのは、七つ上の瑞希ちゃん一人だった。
 十七で突然の急変で亡くなった瑞希ちゃんが、何か特別な治療をしたら助かったとは思えない。
 お金があればすべてを解決できると思うほど、わたしはもう子どもではない。
 それでも、お金さえあれば助かる人がいるのも、多分事実で。わたしが今、休み休みでも大学に通えているのは、きっと過去にわたしの手術をしてくれた名医の先生方のおかげだから……。

 だけど……。
 それでも、自分がすべてを持っているとは思えない。
 すべてを持っている人なんて、本当はどこにもいないんだと思うから。
 ううん。この広い世界のどこかには、もしかしたらいるのかも知れない。
 でも、それは、わたしではない、そう思うのだ。
 もし、わたしがすべてを持っているのなら……。
 わたしは、自分が死んだ後のカナを心配したりしない。
 そんな未来に備えようなんて、きっと思わないから……。

 気が付くと、そんなことを考えながら、うとうとしていたみたい。
 車のドアが開く音で現実に引き戻される。
 だけど、閉じた目は重くて、起きなきゃと思うだけで目を開けることはできず、いつの間にかカナに抱き上げられていた。

「……ナ、……ぶん……」

 自分で歩くと言おうとしたけど、まともな言葉にならなかった。

「いいよ、ハル、寝ておいで。疲れただろ?」

 いたわるような優しい声と、カナのぬくもりに包み込まれて、そのまま意識はふわふわとまどろむ。

「お帰りなさいませ」

「ただいま」

「お嬢さま、具合が……?」

「んー、眠いだけだと思うけど、疲れがたまってるから、ちょっと心配」

 もやのかかった頭の中に、沙代さんとカナの会話が響いてくる。
 そのままベッドに寝かされ布団を掛けられる。
 ……ああ、そうだ。
 カナにお礼を言っていなかった、とふと思い出す。
 だけど、目を開けようと気合いを入れる前に、わたしの意識が半分覚醒しているのに気付いたのか、カナは

「夕飯まで寝ておいで」

 と言う。

「もう全部終わったから。安心して身体を休めよう」

 そして、優しく頭をなでられた。
 ……そうか。
 もう、あの課題を出されることはないんだ。
 終わったという言葉で、ふっと身体の力が抜ける。

「よく頑張ったね」

 ……もう、山野先生の言葉と歪んだ笑顔の意味を考え、密かに胸を痛めることはないんだ。

「お疲れさま」

 カナの大きな手がわたしの頭を、そして頬をなでる。
 カナの言葉に、そのぬくもりに、まだどこかに残っていた張り詰めた心が少しずつゆるむ。
 ……ああ、終わったんだ。
 ゆっくりと何度も行き来する手の暖かさに包まれながら、気が付くとわたしは本格的な眠りに落ちていった。
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