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番外編3 結婚記念日
1.
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ふと目が覚めると夜中だった。
ドアの隙間から漏れ入る光もなく、生活音も聞こえてこない。とても静かだった。
そして、フットライトの薄明かりに照らされるのは、いつもと違う天井や壁だった。
……ああ、別荘だ。
「ハル? どうした、大丈夫?」
隣のベッドからカナの声がした。
今、目が覚めたばっかりなのに、どうしてカナは気が付くのかな?
いつもの事だけど本当に不思議で、そして、わたしを気に掛け過ぎて、また春のインフルエンザの時のようにカナが体調を崩さないかが心配になる。
思わずカナの方に手を伸ばすと、カナはスッと起き上って、ベッドの上をわたしの方ににじり寄る。
「気分悪い?」
ここ数日、体調が今一つだったので、カナは気を使って隣のベッドに寝ていた。
隣と言っても、二台のベッドは隙間なくくっつけてあるけど。
「ううん。大丈夫。なんか目が覚めただけ」
別荘に着いたのは3日前で、夏の暑さや試験疲れから元々体調が良くなかったのもあり、到着と同時にすっかり寝込んでしまった。例年、寝込むのは到着した日と次の日くらいだったのに、今年はいつも以上に回復に時間がかかってしまい、カナには心配をかけたと思う。
それでも、昨日には起きて、食堂でご飯を食べられるくらいにはなった。
連日猛暑の自宅とは違い、この別荘の辺りは春や秋くらいの気候で涼しくて過ごしやすいから。
「本当?」
カナはわたしの前髪をそっと手でよけると、コツンとおでこを合わせた。
「熱はないね」
「ん。大丈夫だよ。……昼間、寝過ぎたからかな?」
本当のところ寝過ぎなんて可愛いものじゃない。体調の悪い時のわたしは、コアラやナマケモノと勝負できるくらい眠ってばかりの気がする。
そんな事を想像してクスッと笑うと、カナは布団越しにギュッと抱きしめてくれた。
「元気そうで良かった。でも、ハル、まだ夜中だよ。もう一眠りしよ?」
夜中……今、何時だろう?
もう、夜の十二時を過ぎたかな?
「どうした? 何か気になる?」
「……今、何時かな?」
「ちょっと待ってね」
カナは自分のベッドに戻り、枕元に置いてあったスマホに手を伸ばす。
青白い灯りにカナの顔が浮かび上がった。
「一時三十五分」
カナはそう言うと、スマホを伏せてわたしの方にまた戻って来る。
日付が変わった。
今日、今、この瞬間、元気で良かった。
そう思いながら、私はベッドに起き上る。
「ハル? トイレ行く?」
カナは今日もわたしの事ばかり考えている。
気遣わし気にわたしの顔を覗き込むカナに、わたしは精いっぱいの笑顔を見せた。
だけど、フットライトの薄明かりでは表情までは見えないかな?
「カナ、大好き」
向かいにいるカナをギュッと抱きしめる。
一瞬、カナは驚いたように息をのみ、それから、嬉しそうに笑ってわたしを抱きしめ返してくれた。
「ありがとう。オレも大好きだよ」
カナがわたしを抱きしめながら、優しい手つきで髪をなでる。
「カナ、……お誕生日おめでとう」
そう。
今日は、カナの十九回目のお誕生日。そして、わたしたちの初めての結婚記念日。
「……あ、そっか。もう、今日か」
カナは感慨深そうにそう言って、
「ありがとう、ハル」
と、わたしの頬にキスを落とした。
それから、カナはついばむようにわたしの唇にもキスを落とし……。
そうして、気が付くと、久しぶりの大人のキスになり……。
どれくらい時間が過ぎただろう?
カナは静かに息を吐いて、それから、わたしをそっと慈しむように抱きしめて、背中を優しく何度もなでさすり、そうして、
「何もしないから、こっちのベッドで一緒に寝ても良い?」
と言った。
頷くと、今度は頬を合わせて、
「ありがとう」
と囁くように言った。
◇ ◇ ◇
あたたかなぬくもりに包まれて、何だかとても気持ちいい。
いつまでも、このままたゆたっていたいと思いながら、ぼんやりしていたら、耳元で優しい声がした。
「ハル、おはよう」
……カナ。
ゆっくりと目を開けると、自宅と違い遮光ではないカーテンは日の光が透け、寝室は薄っすらと柔らかな朝の光に満たされていた。
二度目の目覚めは、今度こそ朝だった。
「……おはよう」
ふわあっと小さくあくびをすると、目尻に涙が浮かぶ。
「もう少し寝る?」
とカナがゆっくり、わたしの頭をなでた。
……もう少し?
後、少しだけ。
そう。後、少しだけ、カナのぬくもりを感じていたい。
そう思って、カナの大きな背中に手を回すと、カナは嬉しそうに笑った。
「ハル、大好きだよ。愛してる」
カナの胸の中に抱きしめられ、そのぬくもりに包まれる。
わたしも。わたしも、愛してる。
……ああ、幸せだ。
幸せって、こういう事を言うんだろうな。
自然とそんな気持ちが沸き起こる。
カナの胸に頬を押し当て、幸せを噛み締めていると眠気に襲われた。
……寝ちゃダメ。
だって、今日は、もし元気だったなら、やりたいことがいっぱいあるんだから。
だけど、このままだと、一分と経たずに寝てしまう自信がある。
自然と身体の力が抜けていく。
「もう少し寝よっか。ゆっくりしよう」
カナに言われて、気力で首を左右に振ると、カナはくすりと笑った。
「じゃあ寝ないで、もう少し、こうしていよっか?」
カナはわたしを抱きしめて、優しく頬をなでた。
ぬくもりが心地よくて、本当に心地よくて……。
「……ん」
そう答えたのに、もう起きようと思っていたのに、わたしはまた眠ってしまい、いつの間にか薬も飲まされていて(何故か全く記憶にない)、次に気が付いた時には、すっかり日は登りきっていた。
◇ ◇ ◇
「お出かけしたかったのに」
ぽつりと呟くと、カナは笑いながらわたしを見た。
「昼ご飯、外に食べに行こうか? で、食べたら、遊びに行く?」
「いいの?」
「もちろん」
カナは笑う。
「ただし、お昼食べても、出かけられるくらい元気だったらね」
「ん」
顔を洗ってから、今日のために用意した(と言うかママがプレゼントしてくれた)レースをあしらったシフォンのサマードレスに着替える。
カナはわたしの隣をついて歩き、顔を洗えばタオルを手渡してくれ、着替をクローゼットから取り出し、脱いだパジャマをたたみもする。更に、今日の服にぴったりのカーディガンまで着せかけられた。
本当にマメだなと思う。
今日はカナのお誕生日なんだから、わたしの方が色々やってあげたいと思うのに、手を出す隙がない。……わたしがノロマなだけかも知れないけど。
「お嬢さま、おはようございます」
食堂に行くと一緒に別荘に来てくれた沙夜さんが、出迎えてくれた。
「おはよう。……お寝坊でごめんね」
「いえいえ、少しは疲れは取れましたか?」
「うん。すごくスッキリした」
「それはよかったです。……ちょっとお待ち下さいね」
そう言うと、沙代さんはキッチンに入っていった。
外で食べるんじゃなかったの?
思わずカナを見上げると、カナはにこりと笑い、わたしの肩にポンと手を置いた。
「お待たせしました」
沙代さんは両手に大きなバスケットを抱えて戻ってきた。
そう。まるで、赤毛のアンの世界のような、籐で編んだ可愛らしいバスケット。
「ありがとう」
カナは笑顔でそれを受け取ると、左手に持ち、
「じゃあ、行こうか」
と右手でわたしの背をそっと押した。
「と言っても、行き先は庭なんだけどね」
驚くわたしの頬に、カナはサッとキスを落とした。
◇ ◇ ◇
庭に出ると、空を縁取る青々とした樹々や色とりどりの花が目に飛び込んできた。
青く澄んだ空には雲一つなく、夏の日差しは強いけど湿度も気温も低く、高原の空気はとても澄んで綺麗だった。
ああ、去年と同じ空の色だ。
あの花壇に咲き乱れる花も、たくさんの樹々も……。
不意に、この庭で立ち働く制服を着た人たちが、庭に並べられたたくさんのテーブルが、銀色の蓋に隠された山のようなお料理が、テーブルを飾る色鮮やかな花々が脳裏に浮かんだ。
この庭に披露宴の準備がされているのを見て本当に驚いた、あの日の気持ちも静かによみがえる。
家族だけで行う予定だった教会でのお式に、あんなにたくさんの人が参列してくれただけでも驚いたのに、別荘に戻ったら披露宴の準備までされていた。
沙代さんと庭に出て、三人で写真を撮ってもらった。
カナはお色直しのドレスまで用意してくれていた。
お式と披露宴で、本当にいっぱいもらった心からの「おめでとう」。そして、たくさんの笑顔。
大切な人たちの幸せそうな、底抜けに明るい笑顔が浮かんでは消える。
……あれから、もう一年。
二度の手術も乗り越えて、二人一緒に初めての結婚記念日を無事迎えることができた。
「……懐かしいね」
「うん。……もう、一年か」
カナも感慨深そうにそう言った。
自然と、本当に自然と言葉が溢れ出た。
「ありがとう」
「ん?」
「プロポーズしてくれて、ありがとう」
気が付くと、わたしは前を向いたまま、カナの手を握っていた。
今日もカナの手はとてもあたたかい。
「わたしを選んでくれて、ありがとう」
隣に立つカナを見上げて、そう言うと、
「え? ハル?」
カナはわたしの方を向いて、目を見開いたまま固まっていた。
「わたし、カナと結婚できて、本当に幸せ……」
そのままカナに抱き付くと、カナは膝を折ってバスケットを地面に下ろし、わたしを両腕で力いっぱい抱きしめてくれた。
「……ハル、それ、全部オレのセリフだよ。結婚してくれて、ありがとう。プロポーズ受けてくれて、本当にありがとう」
しみじみと、噛み締めるように、カナが言った。
「オレさ、改めて考えると、結構ムチャなことしてたよな? 十七歳でプロポーズして、十八の誕生日に結婚してくれって、普通やんないよな」
その言葉に思わず吹き出す。
「……自覚あったの?」
「……ハル、ひどい」
「ひどいかな? でも、あの時のカナは、そんな事、まったく考えてなかったと思う」
「……否定はしない」
ほら。
くすくす笑うと、カナは
「ごめんね」
と言ってから、違うな、と言い直した。
「改めて、ありがとう。……オレと結婚してくれて、本当にありがとう」
……こんなところで。
そう思いながら、……確かに、そう思っていたのに、何故かわたしは抵抗する事もなく、木漏れ日の下、カナに抱きしめられながら、カナと長い長いキスをした。
すっかり力の抜けてしまったわたしは、カナに手を引かれて庭の奥に置かれたテーブルセットまで連れて行かれた。
「準備するから、ハルは座ってて」
テーブルにバスケットを置くと、カナはイスを引いてわたしを座らせて、バスケットを開け中身を並べていく。
ワイングラス、ワインボトル、お皿、それから、サンドイッチ、サラダ、スープポット、そして、果物がいっぱい乗った小ぶりのホールケーキ。
日差しを避けて木陰に置かれたテーブルの上で、ワイングラスに木漏れ日が当たってキラキラと光る。
まるで物語のワンシーンのようだったのに、ワインボトルから注がれたのは、なんと麦茶。思わず笑うと、カナは
「ワインのが良かった?」
と言った。その悪戯っ子のような目つきに、不意に去年の失態を思い出す。
知らずに、葡萄ジュースだと思ってワインを飲んでしまい、いつもの自分なら絶対に口にしないような事を言ってしまった……気がする。
本当のところ、あまりよく覚えていない。だけど、後から、自分が何を言っていたかを教えてもらって、穴があったら入りたいと思った、あのどうにも身の置き所のない気持ちは忘れられない。
恥ずかしさに真っ赤になって俯くと、
「ごめんごめん」
とカナは慌てて言う。なのに、次の瞬間、
「でも、あの時のハル、ものすごく可愛かった!」
なんて力説するものだから、もう、どんな顔をしたら良いのか分からなくなる。
「あの時みたいに、もっと遠慮なく色々言ってくれたら良いのに」
「……色々、って?」
俯いたまま聞くと、カナは嬉しそうに笑いながら、わたしの横に移動してきた。それから、しゃがみ込んでわたしの顔を下から見上げた。
身長差が三十センチ近くあるから、いつも見上げるのはわたしの方。だから、カナに見上げられて何だかとても変な感じがした。
「寂しいとか、一緒にいてとか、さ。あの時、拗ねて口を尖らせたハル、ムチャクチャ可愛かったよ」
もうダメ。
……穴があったら入りたい。
二度と、お酒なんて飲まないんだから。(あの時だって、お酒を飲もうなんて思ってなかったけど……)
わたしは涙目になりながら、テーブルに突っ伏した。
そんなわたしのお向かいで、カナが昼食の準備を再開したのが音で分かる。カチャカチャとカトラリーが並べられる音がする。
じき、カナは
「ハル、用意できたよ。食べよ?」
と言って、よしよしとわたしの頭をなでた。
「ごめんね。もう、からかわないから」
その声が、あまりに申し訳なさそうに聞こえて、その瞬間、今日がカナの誕生日なのを思い出した。思い出すと、逆に申し訳なくなってくる。
今日くらい、何を言われても我慢しなきゃダメ?
ううん。でも、我慢はムリ。だって、恥ずかしくて身の置き所がない気持ちは、自分ではどうしようもないんだもの。
「……もう、言わない?」
顔を上げると、カナがホッとしたように頬を緩めた。
「言わない、言わない」
「ホント?」
「うん」
「約束よ?」
「ん。……いつか、一緒にお酒を飲む日の楽しみにとっとく」
カナは楽し気にニコッとものすごく良い笑顔を見せた。
「……お、お酒なんて、絶対に飲まないもん」
わたしがそう言うと、カナはまたクスクスと楽しそうに笑った。
ドアの隙間から漏れ入る光もなく、生活音も聞こえてこない。とても静かだった。
そして、フットライトの薄明かりに照らされるのは、いつもと違う天井や壁だった。
……ああ、別荘だ。
「ハル? どうした、大丈夫?」
隣のベッドからカナの声がした。
今、目が覚めたばっかりなのに、どうしてカナは気が付くのかな?
いつもの事だけど本当に不思議で、そして、わたしを気に掛け過ぎて、また春のインフルエンザの時のようにカナが体調を崩さないかが心配になる。
思わずカナの方に手を伸ばすと、カナはスッと起き上って、ベッドの上をわたしの方ににじり寄る。
「気分悪い?」
ここ数日、体調が今一つだったので、カナは気を使って隣のベッドに寝ていた。
隣と言っても、二台のベッドは隙間なくくっつけてあるけど。
「ううん。大丈夫。なんか目が覚めただけ」
別荘に着いたのは3日前で、夏の暑さや試験疲れから元々体調が良くなかったのもあり、到着と同時にすっかり寝込んでしまった。例年、寝込むのは到着した日と次の日くらいだったのに、今年はいつも以上に回復に時間がかかってしまい、カナには心配をかけたと思う。
それでも、昨日には起きて、食堂でご飯を食べられるくらいにはなった。
連日猛暑の自宅とは違い、この別荘の辺りは春や秋くらいの気候で涼しくて過ごしやすいから。
「本当?」
カナはわたしの前髪をそっと手でよけると、コツンとおでこを合わせた。
「熱はないね」
「ん。大丈夫だよ。……昼間、寝過ぎたからかな?」
本当のところ寝過ぎなんて可愛いものじゃない。体調の悪い時のわたしは、コアラやナマケモノと勝負できるくらい眠ってばかりの気がする。
そんな事を想像してクスッと笑うと、カナは布団越しにギュッと抱きしめてくれた。
「元気そうで良かった。でも、ハル、まだ夜中だよ。もう一眠りしよ?」
夜中……今、何時だろう?
もう、夜の十二時を過ぎたかな?
「どうした? 何か気になる?」
「……今、何時かな?」
「ちょっと待ってね」
カナは自分のベッドに戻り、枕元に置いてあったスマホに手を伸ばす。
青白い灯りにカナの顔が浮かび上がった。
「一時三十五分」
カナはそう言うと、スマホを伏せてわたしの方にまた戻って来る。
日付が変わった。
今日、今、この瞬間、元気で良かった。
そう思いながら、私はベッドに起き上る。
「ハル? トイレ行く?」
カナは今日もわたしの事ばかり考えている。
気遣わし気にわたしの顔を覗き込むカナに、わたしは精いっぱいの笑顔を見せた。
だけど、フットライトの薄明かりでは表情までは見えないかな?
「カナ、大好き」
向かいにいるカナをギュッと抱きしめる。
一瞬、カナは驚いたように息をのみ、それから、嬉しそうに笑ってわたしを抱きしめ返してくれた。
「ありがとう。オレも大好きだよ」
カナがわたしを抱きしめながら、優しい手つきで髪をなでる。
「カナ、……お誕生日おめでとう」
そう。
今日は、カナの十九回目のお誕生日。そして、わたしたちの初めての結婚記念日。
「……あ、そっか。もう、今日か」
カナは感慨深そうにそう言って、
「ありがとう、ハル」
と、わたしの頬にキスを落とした。
それから、カナはついばむようにわたしの唇にもキスを落とし……。
そうして、気が付くと、久しぶりの大人のキスになり……。
どれくらい時間が過ぎただろう?
カナは静かに息を吐いて、それから、わたしをそっと慈しむように抱きしめて、背中を優しく何度もなでさすり、そうして、
「何もしないから、こっちのベッドで一緒に寝ても良い?」
と言った。
頷くと、今度は頬を合わせて、
「ありがとう」
と囁くように言った。
◇ ◇ ◇
あたたかなぬくもりに包まれて、何だかとても気持ちいい。
いつまでも、このままたゆたっていたいと思いながら、ぼんやりしていたら、耳元で優しい声がした。
「ハル、おはよう」
……カナ。
ゆっくりと目を開けると、自宅と違い遮光ではないカーテンは日の光が透け、寝室は薄っすらと柔らかな朝の光に満たされていた。
二度目の目覚めは、今度こそ朝だった。
「……おはよう」
ふわあっと小さくあくびをすると、目尻に涙が浮かぶ。
「もう少し寝る?」
とカナがゆっくり、わたしの頭をなでた。
……もう少し?
後、少しだけ。
そう。後、少しだけ、カナのぬくもりを感じていたい。
そう思って、カナの大きな背中に手を回すと、カナは嬉しそうに笑った。
「ハル、大好きだよ。愛してる」
カナの胸の中に抱きしめられ、そのぬくもりに包まれる。
わたしも。わたしも、愛してる。
……ああ、幸せだ。
幸せって、こういう事を言うんだろうな。
自然とそんな気持ちが沸き起こる。
カナの胸に頬を押し当て、幸せを噛み締めていると眠気に襲われた。
……寝ちゃダメ。
だって、今日は、もし元気だったなら、やりたいことがいっぱいあるんだから。
だけど、このままだと、一分と経たずに寝てしまう自信がある。
自然と身体の力が抜けていく。
「もう少し寝よっか。ゆっくりしよう」
カナに言われて、気力で首を左右に振ると、カナはくすりと笑った。
「じゃあ寝ないで、もう少し、こうしていよっか?」
カナはわたしを抱きしめて、優しく頬をなでた。
ぬくもりが心地よくて、本当に心地よくて……。
「……ん」
そう答えたのに、もう起きようと思っていたのに、わたしはまた眠ってしまい、いつの間にか薬も飲まされていて(何故か全く記憶にない)、次に気が付いた時には、すっかり日は登りきっていた。
◇ ◇ ◇
「お出かけしたかったのに」
ぽつりと呟くと、カナは笑いながらわたしを見た。
「昼ご飯、外に食べに行こうか? で、食べたら、遊びに行く?」
「いいの?」
「もちろん」
カナは笑う。
「ただし、お昼食べても、出かけられるくらい元気だったらね」
「ん」
顔を洗ってから、今日のために用意した(と言うかママがプレゼントしてくれた)レースをあしらったシフォンのサマードレスに着替える。
カナはわたしの隣をついて歩き、顔を洗えばタオルを手渡してくれ、着替をクローゼットから取り出し、脱いだパジャマをたたみもする。更に、今日の服にぴったりのカーディガンまで着せかけられた。
本当にマメだなと思う。
今日はカナのお誕生日なんだから、わたしの方が色々やってあげたいと思うのに、手を出す隙がない。……わたしがノロマなだけかも知れないけど。
「お嬢さま、おはようございます」
食堂に行くと一緒に別荘に来てくれた沙夜さんが、出迎えてくれた。
「おはよう。……お寝坊でごめんね」
「いえいえ、少しは疲れは取れましたか?」
「うん。すごくスッキリした」
「それはよかったです。……ちょっとお待ち下さいね」
そう言うと、沙代さんはキッチンに入っていった。
外で食べるんじゃなかったの?
思わずカナを見上げると、カナはにこりと笑い、わたしの肩にポンと手を置いた。
「お待たせしました」
沙代さんは両手に大きなバスケットを抱えて戻ってきた。
そう。まるで、赤毛のアンの世界のような、籐で編んだ可愛らしいバスケット。
「ありがとう」
カナは笑顔でそれを受け取ると、左手に持ち、
「じゃあ、行こうか」
と右手でわたしの背をそっと押した。
「と言っても、行き先は庭なんだけどね」
驚くわたしの頬に、カナはサッとキスを落とした。
◇ ◇ ◇
庭に出ると、空を縁取る青々とした樹々や色とりどりの花が目に飛び込んできた。
青く澄んだ空には雲一つなく、夏の日差しは強いけど湿度も気温も低く、高原の空気はとても澄んで綺麗だった。
ああ、去年と同じ空の色だ。
あの花壇に咲き乱れる花も、たくさんの樹々も……。
不意に、この庭で立ち働く制服を着た人たちが、庭に並べられたたくさんのテーブルが、銀色の蓋に隠された山のようなお料理が、テーブルを飾る色鮮やかな花々が脳裏に浮かんだ。
この庭に披露宴の準備がされているのを見て本当に驚いた、あの日の気持ちも静かによみがえる。
家族だけで行う予定だった教会でのお式に、あんなにたくさんの人が参列してくれただけでも驚いたのに、別荘に戻ったら披露宴の準備までされていた。
沙代さんと庭に出て、三人で写真を撮ってもらった。
カナはお色直しのドレスまで用意してくれていた。
お式と披露宴で、本当にいっぱいもらった心からの「おめでとう」。そして、たくさんの笑顔。
大切な人たちの幸せそうな、底抜けに明るい笑顔が浮かんでは消える。
……あれから、もう一年。
二度の手術も乗り越えて、二人一緒に初めての結婚記念日を無事迎えることができた。
「……懐かしいね」
「うん。……もう、一年か」
カナも感慨深そうにそう言った。
自然と、本当に自然と言葉が溢れ出た。
「ありがとう」
「ん?」
「プロポーズしてくれて、ありがとう」
気が付くと、わたしは前を向いたまま、カナの手を握っていた。
今日もカナの手はとてもあたたかい。
「わたしを選んでくれて、ありがとう」
隣に立つカナを見上げて、そう言うと、
「え? ハル?」
カナはわたしの方を向いて、目を見開いたまま固まっていた。
「わたし、カナと結婚できて、本当に幸せ……」
そのままカナに抱き付くと、カナは膝を折ってバスケットを地面に下ろし、わたしを両腕で力いっぱい抱きしめてくれた。
「……ハル、それ、全部オレのセリフだよ。結婚してくれて、ありがとう。プロポーズ受けてくれて、本当にありがとう」
しみじみと、噛み締めるように、カナが言った。
「オレさ、改めて考えると、結構ムチャなことしてたよな? 十七歳でプロポーズして、十八の誕生日に結婚してくれって、普通やんないよな」
その言葉に思わず吹き出す。
「……自覚あったの?」
「……ハル、ひどい」
「ひどいかな? でも、あの時のカナは、そんな事、まったく考えてなかったと思う」
「……否定はしない」
ほら。
くすくす笑うと、カナは
「ごめんね」
と言ってから、違うな、と言い直した。
「改めて、ありがとう。……オレと結婚してくれて、本当にありがとう」
……こんなところで。
そう思いながら、……確かに、そう思っていたのに、何故かわたしは抵抗する事もなく、木漏れ日の下、カナに抱きしめられながら、カナと長い長いキスをした。
すっかり力の抜けてしまったわたしは、カナに手を引かれて庭の奥に置かれたテーブルセットまで連れて行かれた。
「準備するから、ハルは座ってて」
テーブルにバスケットを置くと、カナはイスを引いてわたしを座らせて、バスケットを開け中身を並べていく。
ワイングラス、ワインボトル、お皿、それから、サンドイッチ、サラダ、スープポット、そして、果物がいっぱい乗った小ぶりのホールケーキ。
日差しを避けて木陰に置かれたテーブルの上で、ワイングラスに木漏れ日が当たってキラキラと光る。
まるで物語のワンシーンのようだったのに、ワインボトルから注がれたのは、なんと麦茶。思わず笑うと、カナは
「ワインのが良かった?」
と言った。その悪戯っ子のような目つきに、不意に去年の失態を思い出す。
知らずに、葡萄ジュースだと思ってワインを飲んでしまい、いつもの自分なら絶対に口にしないような事を言ってしまった……気がする。
本当のところ、あまりよく覚えていない。だけど、後から、自分が何を言っていたかを教えてもらって、穴があったら入りたいと思った、あのどうにも身の置き所のない気持ちは忘れられない。
恥ずかしさに真っ赤になって俯くと、
「ごめんごめん」
とカナは慌てて言う。なのに、次の瞬間、
「でも、あの時のハル、ものすごく可愛かった!」
なんて力説するものだから、もう、どんな顔をしたら良いのか分からなくなる。
「あの時みたいに、もっと遠慮なく色々言ってくれたら良いのに」
「……色々、って?」
俯いたまま聞くと、カナは嬉しそうに笑いながら、わたしの横に移動してきた。それから、しゃがみ込んでわたしの顔を下から見上げた。
身長差が三十センチ近くあるから、いつも見上げるのはわたしの方。だから、カナに見上げられて何だかとても変な感じがした。
「寂しいとか、一緒にいてとか、さ。あの時、拗ねて口を尖らせたハル、ムチャクチャ可愛かったよ」
もうダメ。
……穴があったら入りたい。
二度と、お酒なんて飲まないんだから。(あの時だって、お酒を飲もうなんて思ってなかったけど……)
わたしは涙目になりながら、テーブルに突っ伏した。
そんなわたしのお向かいで、カナが昼食の準備を再開したのが音で分かる。カチャカチャとカトラリーが並べられる音がする。
じき、カナは
「ハル、用意できたよ。食べよ?」
と言って、よしよしとわたしの頭をなでた。
「ごめんね。もう、からかわないから」
その声が、あまりに申し訳なさそうに聞こえて、その瞬間、今日がカナの誕生日なのを思い出した。思い出すと、逆に申し訳なくなってくる。
今日くらい、何を言われても我慢しなきゃダメ?
ううん。でも、我慢はムリ。だって、恥ずかしくて身の置き所がない気持ちは、自分ではどうしようもないんだもの。
「……もう、言わない?」
顔を上げると、カナがホッとしたように頬を緩めた。
「言わない、言わない」
「ホント?」
「うん」
「約束よ?」
「ん。……いつか、一緒にお酒を飲む日の楽しみにとっとく」
カナは楽し気にニコッとものすごく良い笑顔を見せた。
「……お、お酒なんて、絶対に飲まないもん」
わたしがそう言うと、カナはまたクスクスと楽しそうに笑った。
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