【虹ノ船】

山本かずき

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序章

序章

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「なぁ、彩。起きてくれよ」
 真っ白な壁と小さなベッドが一つ、それと少しの機材以外には何も無い無機質な部屋で一人の少年は語りかける。

「なぁ、頼むから。もう一度お兄ちゃんって呼んでくれ」
 独り言のように発せられた今にも消え入りそうな声だったが、それはベッドに横たわる1人の少女に向けられたものだった。

 だが彼女から何か反応を示すことは一切なかった。まるで描かれた一枚の絵画のように、ただ静かにそこに横たわっていた。
 それもそのはず、彼女は植物状態、いわゆる脳死に近い状態であるからだ。

 だがそれでも、少年は語りかける。
「彩…、俺が寮に入ってから、結局一度も一緒に遊んでやれなかったな……」
「あの時寂しがるお前を見て、帰ったらたくさん構ってやるってあんなに強く約束したのに」

 少年はそっと少女ーー彩の手を握った。その暖かい手を胸に抱いて、泣きながらも彼は叫ぶ。
「あや、兄ちゃんだ!!」
「これからはずっと一緒にいてやる。彩のしたいことはなんだって叶えてやる。だから……」

 だが、どんなに叫んでも、少年の望む返事が返ってくることはない。
 ……それでも、彼は諦められない。
「お願いだから、もう一度目を開けてくれ……」
「ーーオクトさん」

その時、帰ってくるはずの無い返事が部屋から鳴り響く。
「…………え?」

 少年ーーオクトは一瞬驚いたが、すぐにその声の主が自分の望んでいる者の声では無いと知った。
「蓮川 オクトさん。お気持ちは分かりますが、病室内ですので出来るだけ静かにお願いします」

 気がつくと、病室の前に一人の医者が立っていた。
 頭髪は既に白くなっているものの、その険しい顔は未だ威厳に満ち溢れており、使い込まれた年月物の白衣と度数の高い丸底眼鏡から経歴の長さを伺い知ることができる。
「……一ノ瀬院長」
 オクトの顔が暗くなる。
 あの多忙な院長がわざわざ自分の病室に来た理由など一つしか思い浮かばなかったためだ。

 事実、彼の予想は的中していた。
「非常に申し上げにくいのですが……」
 一ノ瀬院長の言葉が冷たい病室響く。
「貴方の妹、蓮川 彩はほとんど脳死状態であり、これから意識が戻ることは……恐らく無いと思われます」

(あぁ、知ってるさ。そんなこと……)
 オクトの視線が病室の冷たい床に落ちる。
(そんなこと、幾度も彼女を呼びかけてきた俺が一番よくわかってる)
 彼の目から一筋の涙が流れ落ちる。
(だけど……、だけどそれでも、そうだとしても、そう簡単に彼女を諦められるはずないだろ……)
 彼の唇は強く噛まれ、血が滲んでいた。
(……手を握ってやると、こんなにも暖かいんだぞ)
(……まるで、ただ寝ているだけのようだ)
 だからこそ、彼は諦められない。
 …………例えそれが、ただの現実逃避だとしても。

「この病院のベッドも無限にあるわけでは無いのです」
 一ノ瀬院長の無機質な言葉が病室内を鳴り響く。
「それにオクトさん、ここ二ヶ月妹さんの入院費すらまともに払えていませんよね」
「…………」

 別に一ノ瀬院長が冷酷だという訳では無い。
 むしろ彼はこの、まだ幼いのに未来を無くした妹と、唯一の家族を諦められずに必死にもがく兄に憐れみさえ感じている。
 だからこそ、忙しくとも時間を割いてこうしてたまに様子を見に来ているのだ。
 だが、病院だって慈善事業では無い。
 彼らは確かに憐れではあるが、病院では憐れだと感じさせる患者やその親族は別に珍しく無い。
 そんな人々の面倒を全て見てあげれるほど、院長も万能では無い。

「言ってはなんですが……」
 床を見つめるオクトの頭上に、冷たい言葉が降り注ぐ。
「素直に諦めた方が、ご自身にも妹さんにも幸せでは無いでしょうか」

 オクトは強く拳を握り締める。
「それに、妹さんも貴方が早く立ち直って、未来に向かって歩き出すことを望んでいるのだと思いますよ」
「………………」
(……だからって、諦められるかよ)
 オクトは心の中で苦笑する。
「金は、俺が何とかします」
 それだけ言い残し、オクトは病室を出た。

 異様なほど硬く感じる病棟の床を踏み締めながら、オクトは思い耽る。
 正直に言って彼にはもう、妹の入院代を払える余裕はない。
 両親が死んだ時、彼の両親の残した決して多くはない遺産も、『保護者』である親戚供に流水の速さで『預け』られた。
 齢15歳のオクトにそれを取り戻す術はなかった。

 それから彼は高校を中退し、アルバイトに明け暮れた。
 最低限の睡眠時間を除いた全ての時間を彩の治療費を稼ぐために費やした。
 強盗と殺人以外はなんだって試した。
 それでも、充分な治療費は集まらなかった。

 病院から出た彼は、澱んだ空を見上げながら思う。
 ……この世界が、憎いと。
 妹を、両親を弄んだこの世界を、オクトはたまらなく憎いと感じた。
 「…………くそ」



…………………
  オクトが家から離れてニヶ月後のことだった。
 梅雨も明け、蝉の鳴き声が聞こえるようになった頃、流れ星にお祈りをしたいと言う彩を連れて、両親は星のよく見える地元の山上に向かって車を走らせた。

 「どうだった? 彩、お願いはちゃんとできたか?」
 帰り道に、父親が彩に聞いた。
 「うん、3つもお願いができたよ」
 少女は窓からキラキラ映る星を、キラキラした目で覗きながらはつぶやく。
 「お願いごと、叶うといいな」
 「ああ、叶うとも。彩はこんなにもいい子なんだからな」
 「…うん!」
 彩は嬉しそうにはにかむ。
 「彩はどんなお願いをしたの?」
 助手席から覗く母親の質問に、無垢な少女は少しだけ気恥ずかしそうに笑いながら答えた。
 「えっとね…、お兄ちゃんに、早く帰ってきてほしいのと……」
 「彩は本当にお兄ちゃんが好きなんだね」
 「うん、帰ってきたらいっぱい遊んでくれるって約束したから」
 「そっか」

 前を向き直した母親は、バックミラーに映る自分の娘を眺めながら優しく微笑む。
 「他には、どんなお願いをしたの?」
 「二つ目は……、お兄ちゃんと、お母さんと、お父さんと、ずっと一緒に幸せに暮らせること」
 どこまでも無垢な自分達の娘の願いを聞いて、両親は見つめ合って笑った。
 「三つ目はね……」

 最後の願い事を口にしようとした時、彩は父親の突然かけたブレーキによって前の座席に頭を強くぶつけた。
 彼女が頭を押さえながら前を覗くと、そこには地面があった。

 「なっ……!!」
 「あなた………っ!!」

 ……そして、少女の三つ目の願いは、最後まで口にすることはできなかった。

 なぜなら、車が山の麓の橋を渡る時、歩道から飛び出した酔っ払いを避けようと、彼女を乗せた車はガードレールを突き破り、川下へと消えていったからだ。
 街灯も少なく、暗い夜道だったため彼らは、直前になるまでその酔っ払いの存在に気づくことができなかった。

 ……前部座席に座っていた両親は即死だった。
 彩も、それから二度と目を開けることはなかった。
………………


………………
 曇天を睨みつけながら、オクトは思う。
 ……憎い、と。

 彼は、何も悪いことをしていない自分の大切な家族を殺めた、その酔っ払いが憎かった。
 ソイツに何の罪も下せないこの法社会が憎かった。
 更には、自分達の出来事を知りもせずのうのうと暮らしている人々も、全て憎かった。

 …………だけどやはり、何もできない自分自身が、一番憎かった。

 仕事場に向かいながら、彼は思う。
 もし神がいるのなら、きっと今頃は俺の惨めさを嘲笑って楽しんでいるんだろうな、と。


………………
 気がつけば、オクトは駅に着いていた。
 彼が思い耽っていた間も、自らの足は己が使命を果たしていたようだ。

 元々午後は、体を使うが高収入である湯灌や特殊清掃、いわゆる遺体を扱う仕事などを主に働いていたが、体力が無くなった今は家庭教師が彼の主な午後の仕事となった。
 周りには大学生だと名乗っていたが、幸いにも彼の大人びた性格と、16歳とは思えない頭脳によって年齢を疑われたことはほとんどなかった。

 今日も、彼は足を運ぶ。
 自分には持つことを許されなかった、幸せな家庭に…………。

 電車が来るまで少しでも休もうと、オクトは駅のベンチに腰をかける。
 毎日2時間弱の睡眠時間を除いてほとんど休息のない彼にとって、この僅かな待ち時間も体を休められる貴重な時間である。

 「離せっ、このっ、くそ……っ!!」
 だが、彼のこの数分にも及ばない休息を邪魔する者たちがいた。
 「離すもんかよ。お前、さっき線路に飛び出そうとしてただろ!」
 顔を上げると、数メートル先で二人の男が掴み合っていた。
 必死に掴まれている手を払い除けようとするスーツを着た初老の男と、その男を掴んで離そうとしない大学生風の若い男だった。

 「あんたに何があったかは知らないけど、わざわざ死ぬことはないだろ…!」
 「うるせぇっ、見ず知らずのあんたに俺の何が分かるっ…!!」
 初老の男は叫ぶ。
 駅はそこそこ混み始めていたが、皆二人のいる場所を避け、まるで何も起きていない風を装っていた。
 そんな二人を横目で眺めながら、オクトはあくびをする。

 「離せって、……くそっ」
 いくら足掻いても、大学生風の男は離そうとしない。
 そして、どう足掻いても無駄だと分かると、初老の男は諦めたように地面に座り込んだ。
 「上司の奴め!俺はあのプロジェクトは無理があると再三忠告したんだ!」
 やがて、彼は地面を睨みつけながら、独り言のように言葉を吐き出した。
 「なのにアイツ!!いざ失敗すると、俺が予算オーバーしてしまう仕事を無理矢理引き受けたと社内で言いふらしやがって……!社長の前で自分の責任を全部押し付けやがって!!」
 男は泣きながら叫ぶ。
 「お陰で俺はクビだ!!」

 駅のホームはそこそこ混んでいたにも関わらず、気がつけば皆口を閉ざし、無関心を装いながらも男の声に耳を傾けている。
 大学生風の男も、ただ黙って男を見つめていた。
 「家のローンだってまだ残っているのに、妻も、娘も、これからどうやって養えばいい……」
 静まり返った駅のホームで、ただ、彼の声だけがこだましていた。
 「…………」

 やがて、叫び疲れて枯れてしまった男の声に応えるように、無機質な電車到着アナウンスが頭上で鳴り響いた。
 それを聞きながら、オクトは眠い目を擦ってベンチから立ち上がる。
 他人のことに一切関心を持たない彼は、ただ隣で起きた、自分の仮眠を妨げようとする騒音の原因を一瞥した。
 だが、電車がホームに入ってくると彼の視線は迫り来る電車に移り、再び自分の世界に入る。

 彼は考える。
 これからどうすれば妹の入院費を払い続けられるかを。
 どうすれば彩を失わずにすむのかを……。


 …………だが、隣で起きた騒音は、再び彼の邪魔をする。
 「やっぱり俺だけがこんなに辛い思いしてんのに、お前らはのうのうと暮らしてやがるのは許せねぇ……!!!」
 「あっ……、おい!!」
 「だったせめて少しでもお前らの迷惑になって、俺は死んでやる!!!」

 オクトが煩そうに騒音の鳴る方向に目をやると、今まさに線路に飛び込む男と、それを引き止めようとして一緒にホームから落ちる若い男が見えた。

 ……そして、二つの命を入れる容器は、混じり合って一つの肉塊となり、飛び散った。

 幾つもの悲鳴が、けたたましい電車のブレーキ音と共に鳴り響く。
 駅中に、血や肉片が飛び散るのを直視してしまった者からは驚きの声と悲鳴が、その他の何が起こったのか分からない者からは困惑した視線が発せられた。
 …………ただ、一人を除いては。

 「くそ……!! くそ!! くそ!!!」
 目の前に叩きつけられたドロリと広がる硝子体と、頬の肉だったと思わしき血だらけの肉塊をオクトは睨みつける。
 「お前らのせいで、電車が遅れて俺の仕事が遅れるだろ!!」
 怒りを吐き捨てながら、オクトは誰のとも分からなくなった肉片を踏みつける。
 「他人に迷惑をかけて、お前らだけ楽しやがって……!!!」

 確かに、いくら稼いでも入院費不足なオクトにとって、電車の遅延で1、2時間分の給料が貰えないだけでもかなりの損害である。
 だが、彼がここまで怒りを露わにした理由はそれだけではなかった。

 彼はただ、自分の意思で自由に命を手放すことができる人が…………羨ましかった。
 ただ……、目の前で目の前で無惨にも轢き潰された彼らに嫉妬していた。

 オクトは、例えどんなに辛かろうと、一度だって自らの命を絶ちたいと思ったことはない。
 なぜなら……彼は1分でも1秒でも、少しでも長く自分に残された唯一の家族に触れたいからだ。

 例え返事をしてくれなくても、妹の手に自分の手を重ねている時間が、彼にとって唯一の救いだった。
 だが、それを背負って生きていくのは、まだ14歳の少年には重過ぎたのも事実だった。

 唇を噛み締めながら、オクトは目の前の肉片に焦燥と羨望の眼差しを向ける。
 そして…………

 「ふむふむ、ここにもドロップシステムの試運転に使えそうな社会からの脱落者……社会のゴミが居るわよ」
 突如、オクトは後傾部に何か針で刺された痛みを覚える。
 彼はその正体を確認するために振り返ろうとして…………そのまま意識を手放した。
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