桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

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あなたを呪う

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 記憶喪失になった私の恋人――今は『元』恋人と呼ぶべきだろうか――神無かみなしキキョウを家に連れ帰って一ヶ月が経った。二十年の人生で極めて辛い一ヶ月だった。自分の家のはずなのに、風呂トイレ共用の安いドミトリーにでも泊まっているような居心地の悪さがある。むしろ、全くの他人と共同生活を送る方がまだマシなのではないだろうか。
 記憶をなくした本人が一番不安だろうから寄り添うようにと医者には言われたものの、正直私だって日常生活のルーティーンをこなすので精一杯で、寄り添えるだけの余裕なんてなかった。
 愛している相手なら外見が醜かろうが愛せるなんて話ならいくらでも見たことがあるし自分もきっと愛せるという自信があったが、中身が変わってしまってはどうすればいいのだろう。見慣れた姿ですっかり別人になってしまった場合は。もはやラブロマンスというよりホラーの方が近そうなもので、心から愛おしかったはずの姿を見かけるたびに背骨が凍ったような感覚が走る。
 男はキキョウの部屋から出てこない。私に気を遣っているのか、ただ単に見知らぬ女がいる場所は居心地が悪いのか。一応私が大学へ行っている間はその限りでもないようで、洗い終わった食器が水切りラックに残されていたり、代わりに乾かしていた食器が棚に戻されていたり、干していた洗濯物が取り込まれていたりなど、何も言わず家事をこなしてくれている。彼なりに日常を取り戻そうとしているらしい。――申し訳ないことに、そういった行動ですら今は気味が悪くて仕方がなかった。
長月ながつきちゃん、大丈夫?」
 バイト先の休憩室でため息を漏らした私に声を掛けてくれたのは、社員である睦月二葉むつきふたばさんだった。最初こそ色の薄い金髪と華やかな顔立ちに少々近寄り難さを感じていたが、彼のくるくると変わる表情や柔らかな物腰ですぐに打ち解けて以降、仕事の話に限らずいろいろなことをお互いに話す仲になっている。キキョウのことも前々から恋人として紹介していたため、現状を相談してからは何かと気にかけてくれていた。
「すみません、大丈夫じゃないです……」
「そりゃそうだよな。相変わらずな感じ?」
「はい。直視しなくて済むのはいいんですけどね……」
 別人のような彼に嫌悪感すら持ってしまっていると話しても睦月さんは一切咎めない。記憶がなくなったくらいで恋人を愛せなくなったのかと言われそうで怖かったが、そういったことも含めて理解を示してくれて、ただ話を聞いてくれるとてもありがたい存在だ。従業員やお客さんなど、全方面に評判が良いのが頷ける。
「別居したりはしないんだろ?」
「それは、流石に」
 私には実家に帰るという選択肢がある。不便にはなるが大学やバイトにだって実家から通えるし、気持ちの整理がつくまでは物理的に離れられる。彼も自分ひとりの家なら多少気が楽だろう。
 しかし、右も左もわからず自分のことすらも覚えていない人を見知らぬ地に置いてけぼりにするのは気が引ける。そうしてしまうと自分をもっと嫌いになると確信しているからだ。どこまでも自分のことしか考えられない今で十分、消えてなくなりたいほどなのに。
 彼のことは愛している。大人っぽくて落ち着いているけれどいつも笑顔で、時折子どものような顔ではしゃぐキキョウが隣にいてくれると幸せだった。珍しく疲れた顔をした彼が私を呼び寄せては長い腕で包んで、倒れてしまわない程度に体重を預けてくるあの時間。少し高めの体温が服を通り抜けてじんわり沁みてくる感覚。溺れるように甘い数分が何よりも好きだった。
 それは決して、虚ろを宿したあの男ではない。
「出来ればでいいんだけどさ……あと、長月ちゃんが良ければ。困ったら俺に連絡するように言っといて。連絡先は神無さんのスマホに入ってるはずだし、男同士だから話せることもあるかもだし」
 そういえば、そんなこともあったか。
 彼を紹介したとき、睦月さんの方から切り出していたはずだ。私に何かあればキキョウに連絡させてもらうと。それから、『バイト先にいる仲の良い男』の素性は知っていた方が安心できるだろうとも。なんだかんだでメッセージのやり取りはしていたようだけれど、何を話していたのだろう。彼の口ぶりから好感を抱いていたことはわかったが、具体的に共通点があったとかいう話は聞いていない。
「ありがとうございます。伝えておきますね」
「よろしく。……まだ、直接話したりはしてない?」
 実は話していないどころか挨拶すらもろくに交わしていない。未だにあの存在を生活の一部として認識したくなくて、何を喋らない日の方が圧倒的に多いくらいだ。
「ほとんど。……やっぱり、元通りに接した方がいいんですかね」
 何が引き金になって記憶を取り戻すかわからないから、できるだけいろいろなことを試してみてほしいと言われてはいる。ふたりでよくしていたことをする、思い出の場所に行く、ごく普通に接する。全て、今の私にはとてつもなくハードルが高い。人として接することも難しいのに、恋人らしく振る舞うなんてできるわけがない。
 昔は二十歳になれば立派な大人だと思っていたのに、いざ二十歳になっても想像よりずっと子どもと変わらない。所詮は保身と自己愛ばかりで、記憶をなくしただけの恋人を受け入れられない浅はかな人間にしかなれなかった。
「いや、長月ちゃんの負担になるなら無理にしなくていいと思う。神無さんだって自分のことは自分でできるようだし、つつがなく生活できてるなら今は十分じゃないかな。よく頑張ってるよ」
 認めてもらえた嬉しさと他人に許された安堵感、そして自分への嫌悪。全てが混ぜこぜになって胸が苦しい。ひとりで暗闇に座り込んでいる彼の抜け殻を見ながら、私は灯りがあるというのに情けなく必死に他人の助けを求めている。あの愛おしい体には温もりの記憶すら残っていないのに。……誰よりも心細いのは他ならない彼なのに。
「……助けになれることがあったら言って。シフト入れなさそうだったら俺が分身でもして埋めるから」
「……そんなことになったら意地でも分身してる睦月さんを見に来ますけどね」
 鼻をすすって私が少し笑い混じりに言うと、彼は満足気に微笑んで去っていった。これ以上居座るのは良くないと判断したのだろう。本当に、良い人だと思う。私がアパレル店員なんてあまり向いていないバイトを続けられているのも二葉さんがいるからだ。
 メイクが崩れないように指の腹でそっと涙を拭い、忘れないうちに連絡しようとスマホを開く。メッセージを送るたびに気が重いが、対面で話すよりはずっといい。彼とのトーク画面を開くと、ここ一ヶ月の履歴がほんの少し、業務連絡のように簡潔な文章だけが並んでいる。変に恋人らしくしては迷惑だろうと考えた末の言葉たちなのだが、拒絶を隠しきれていない気もした。
 ほんの少しだけでも柔らかい印象を伝えられる文章はないかと考えてもなかなか良い案は出ない。文字だけで伝えるということはなんと難しいのだろう。こんなことを生業にしていた彼の頭の中はどうなっているのかと、何度も浮かべたことのある疑問にまた行き着いてしまった。
 頭を悩ます私を追い立てるように、手の中が微かに震える。
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