桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

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あなたを呪う

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 ぐるぐると頭の中で膨張し続ける思考の中、不意に真澄さんの声が私に向いたのを感じて顔を上げた。真剣な色を宿した切れ長の目に見据えられ反射的に姿勢を正す。そうするべきだと直感が告げたからだ。これは今後の人生に関わる重大な話。第三者が切り込んでくれるこのチャンスを逃せば、私と彼の共存の道は早々に断たれてしまう。
「いわゆる家庭内別居状態から復縁する可能性がゼロとは言いませんが、少なくともそれは積み上げた関係性があってのものだと考えます。しかし、今のふたりは恋人というよりは他人の方が精神的には近いように思う」
「……そうですね」
 同じように背筋を伸ばした彼はしっかりと話を聞きながら相槌を打つ。こんなに喋ったり反応を示したりするのは初めて見た。…………私が見ようとしていなかっただけか。
「ですから、落とし所をつけておかなければ近いうちに共同生活が崩壊する危険性がある。神無さんからすれば、つい最近初対面の相手とルームシェアを始めたかのようにこれから関係性を築くこともできるでしょう。ただ、……これは仕方のないことではありますが」
 今日初めて、僅かに彼女の表情が曇った。
「自分のことを覚えていない恋人と話すのは堪える」
 沈黙。
 伏せられた目をマスカラに覆われた睫毛が隠していた。視界の端で彼は口を噤む。覚えていない側の彼にも想像できたのだろうと思うほどに、その一言は重苦しい厚みを持っていた。まるで彼女も全く同じ状況を経験したかのように。
「…………そこで、ひとつ提案をしたい」
 すっと上がった瞼の下に苦しみの色など一切見受けられず、少し面食らってしまう。真っ直ぐな視線はすっかり見知ったものだった。先程の憂いなど溶けて消えてしまっている。
「これは状況を悪化させる恐れを否定できないし、神無キキョウという人間を傷つけるものかもしれない。なので、聞くかも実行するかもふたりの判断に委ねる」
「聞かせてください」
 即答したのは彼だった。自分が傷つく可能性があると言われたのに、その声には一切の揺らぎもない。キキョウによく似たところを見つけるたびに体の内側がザワついて仕方がなかった。
 迷った末に遅れて私も同じ言葉を繰り返すと、真澄さんは細く深い息を吐き出して背中をソファの背もたれへ預ける。
「……彼は神無キキョウではないということにしてしまうのはどうだろう」
「……え?」
「簡単ではないと百も承知なのだが、彼を恋人だと思うから辛いんだ。双子のお兄さんとでも思い込めれば、他人として円滑なコミュニケーションを築けるかもしれない。神無先生は取材のために外国に旅行中ってことで。今の神無さんには申し訳ないが……」
 そんなの、アリなのだろうか。現実逃避になるんじゃないか。キキョウを裏切っているのではないか。まるで帰ってくるのを諦めているようではないか。もしそんなことをしてしまったら、そんなことが許されるのであれば。
 どんなに、楽になることだろう。
「俺は構いません。どうせ記憶がなければ他人のようなものです。……あなたが望むなら、思い出すまでその名を口にしない。それで少しでも救いになるなら」
 初めて彼と目が合った。底の見えない枯れ井戸だとばかり思っていたが、柔らかいブラウンの瞳は照明の光を反射して煌めき、薄らと私の姿を映し出していた。これでは本当の人間ではないか。いっそ愛しい姿すら忘れて狐や毒虫にでもなってしまえば良かったのに。少し前まで確かに自分であった存在と決別して、空っぽな今だけが自分だと認めてしまえる強さなんかあって欲しくなかった。希望が完膚なきまでに潰えるほど別人であるほうが良かった。
 日焼けしやすい肌は冬といえど健康的な色をしていて、高い鼻は気持ちよく筋が通っている。清潔に整えられた眉毛の下では大きな目が覗いていた。細部に至るまで美しいこの顔は寸分違わず恋人だった男と同じ造形をしているのに、やはり同じ人間とは思えない。別人なのにこの姿をしていることが許せない。
「…………私も、賛成です。その方がきっと上手くいく」
 全てを思い出した彼は何を思うだろうか。記憶を失った自分を自分と思わず拒絶していた恋人を。
「ではそういうことにしよう。……となれば、次に必要なのは新たな彼の名前だ。やはり本人が気に入るものがいいと思うのですが、何かありますか?」
「いえ、自分では特に思いつかなくて。願わくば、恋人だったあなたに名前をつけてもらいたい」
 少しも動かない顔から感情は読み取れない。全く記憶のない間に恋人だったという女に名前を与えてほしいなんて、どういう考えをしているのだろう。仮の名前とはいえ、そんなに簡単に他人に委ねていいものだろうか。
 私に期待されてもこのふたりのように人に名前をつけたことなんてないものだから唸るほどに悩んでしまった。真澄さんに名付けのコツを聞いたりもしながら、頭の中で彼を中心に連想ゲームを発展させていく。適当な名前をつけても困りはしないだろうが、何か意味があった方がいいように思う。犬や猫も体の特徴や性格から名前をつけたくなるものだし。
 キキョウに因んで植物の名前にしようかと思い当たり、画面が彼から見えないようにしながら花言葉を検索した。目当てのものを見つけ、それが人の名前としても違和感が少ないことに安堵しながら心を落ち着ける。今から記憶をなくした恋人を他人と割り切り、今の彼の存在を否定し、そして。
 この人に呪いをかける。
「カガチ。神無カガチさん」
 名前を呼んで、初めてその顔が微笑んだのを見た。
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