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夢から醒める
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青天の霹靂。彼から発せられた言葉にはその表現がよく似合う。絡まった糸玉のような脳内は上手く思考を言語化できず、それでいてガンガンと警報を鳴らしているにも関わらず指一本動かすことすらできなかった。嫌な冷や汗が背中を伝う感触がやけに生々しく、不気味なほど静かな室内に大型バイクのエンジン音が微かに届く。柔らかな微笑を浮かべたままの男に、覚えのある嫌悪感が湧き上がった。
耳を疑った。彼がそんな物言いをしたことはなかった。
目を疑った。あの表情は全く発言に似つかわしくない。
神経を疑った。これは夢ではないのか?
全てを、疑った。そうするしかなかった。受け入れることなどできなかった。幻聴だと、そう思いたかった。頭の中にべったり染み付いた彼の声がなければ。
血の気が引いていくのがわかる。今の私は酷い顔をしているだろう。胸を殴る気持ち悪い心拍が頭まで響いて指先から体温が零れ落ちて耳鳴りがして変に緊張した体が痛くて呼吸が浅くなって苦しくて焦点も上手く合わなくて声も出なくてそして。
――何もない。
男の微笑は変わらない。ただ、私を見ている。
何か言いたかった。でも声は出ないし何を言えばいいのかわからなかった。やがて少しずつこちらに向かってくる彼から逃げることもできず、角張った指先が頬に触れた。
「大丈夫?」
優しい声色が心臓を凍らせる。奇妙で不快だ。しかし、触れた瞬間に肩が跳ねたことで体が動くのだと気づき、震える唇を開いた。
「……なんで、そんなこと、いうの」
痙攣する喉からまともな音が出るわけもなく、自分でも恥ずかしいくらい情けなく震えて掠れ、この距離でなければ届きもしなかっただろう。彼の指は私の髪束をするりと梳いて耳にかけた。まるで恋人にするみたいに、愛おしげに。
「知っていた方がいいかと思って」
「……でも、そんなこと、わからな」
「わかるよ」
食い気味に被ってきた彼の言葉は強かった。声のトーンは普段と変わらないのに、重くて潰れそうだ。鼻の奥にツンとした感覚が込み上げてきて目が滲み始める。今泣いてはいけないってことだけはわかるのに。泣いてしまったら、この男に一生勝つことができないのだと予感している。
「そもそも記憶が戻ったとして、そのまま彼の人格に戻ると思うか? 彼の記憶を持った俺が出来上がるだけだと考えたことは? そうなったとき、あなたは俺をかつての恋人だと認められるのか。なぁ」
柔らかく目を細めたまま、口角を緩やかに上げたまま、彼は私の心を抉る。私が祈っていた小さな星を撃ち落として足蹴にする。美しい顔で、彼の顔で。
彼は、死んだ。
子どもを庇って車と衝突、強く頭を打って。
「気づいてただろ。そんなに都合良く物事は進まないって。もう一度教えてあげようか」
やめろ、聞きたくない、言うな、口を閉じて、言わないで、やめて。その声を聞かせないで。
「お前の大好きな彼はもうとっくに死んだよ」
自分でもなぜ泣いているかわからない。彼が死んだことを認めてしまった悲しさなのか虚しさなのか、この男に現実を突きつけられた怒りなのか悔しさなのか。最初こそ彼は私の頬を指で拭っていたが、やがて手が濡れてしまうと、どういうわけか私を横抱きにしてリビングを離れる。いっそフローリングに体を打っても構わないから一秒だって早くこの腕から逃れたい。離してくれ、あなたにこんなことされたくない。今はその顔も見たくない。もがきながら震えた声で訴えるが、しっかりと力が込められた逞しい男の腕には勝てず、彼の足はどんどん前へ進んでいった。
私の抵抗の一切を意に介さず、目的地であろう彼の部屋に連れ込まれたかと思えば大きなベッドに投げ出される。キキョウに抱かれてここへ来ること自体は何度もあったものの、こんなに乱暴に扱われたのは初めてだ。よく彼と一緒に眠った布団の上。今ではこの男が毎日寝ている場所。香る匂いは全く変わっていない。ここにいてはいけないと警戒で強ばる体を無理やり起こそうとした瞬間、彼の手が首に絡みつく。
「酷い女だ。ついに俺を呼び違えたくせに被害者ヅラをしている。お前が名付けたというのに、忘れたか? 俺を恋人だと認めたくなかったんだろう。だから別の名前を与えたというのに、自分にとって好ましい存在になると今度は元の名前を口にする。そんな残酷なことがあるか? 俺をなんだと思っている。俺はキキョウじゃない」
呼吸が止まるのほどの力はない。しかしその指は吸い付くように私の首へ密着していて、多少の息苦しさと命を握られている恐怖に呼吸が浅くなるのが自分でもわかる。初めて見る怒りの滲んだ目は真っ直ぐに私を見下ろし、それでいて上がった口の端がまるでこちらの反応を楽しんでいるような、侮辱しているような、とにかく不愉快で仕方がなかった。
「お前にとって都合のいい男を演じるのは疲れた。もういい。とんだ茶番だ。代わりに教えてやる。お前の空虚な妄想がどれだけ幼稚なのか」
耳を疑った。彼がそんな物言いをしたことはなかった。
目を疑った。あの表情は全く発言に似つかわしくない。
神経を疑った。これは夢ではないのか?
全てを、疑った。そうするしかなかった。受け入れることなどできなかった。幻聴だと、そう思いたかった。頭の中にべったり染み付いた彼の声がなければ。
血の気が引いていくのがわかる。今の私は酷い顔をしているだろう。胸を殴る気持ち悪い心拍が頭まで響いて指先から体温が零れ落ちて耳鳴りがして変に緊張した体が痛くて呼吸が浅くなって苦しくて焦点も上手く合わなくて声も出なくてそして。
――何もない。
男の微笑は変わらない。ただ、私を見ている。
何か言いたかった。でも声は出ないし何を言えばいいのかわからなかった。やがて少しずつこちらに向かってくる彼から逃げることもできず、角張った指先が頬に触れた。
「大丈夫?」
優しい声色が心臓を凍らせる。奇妙で不快だ。しかし、触れた瞬間に肩が跳ねたことで体が動くのだと気づき、震える唇を開いた。
「……なんで、そんなこと、いうの」
痙攣する喉からまともな音が出るわけもなく、自分でも恥ずかしいくらい情けなく震えて掠れ、この距離でなければ届きもしなかっただろう。彼の指は私の髪束をするりと梳いて耳にかけた。まるで恋人にするみたいに、愛おしげに。
「知っていた方がいいかと思って」
「……でも、そんなこと、わからな」
「わかるよ」
食い気味に被ってきた彼の言葉は強かった。声のトーンは普段と変わらないのに、重くて潰れそうだ。鼻の奥にツンとした感覚が込み上げてきて目が滲み始める。今泣いてはいけないってことだけはわかるのに。泣いてしまったら、この男に一生勝つことができないのだと予感している。
「そもそも記憶が戻ったとして、そのまま彼の人格に戻ると思うか? 彼の記憶を持った俺が出来上がるだけだと考えたことは? そうなったとき、あなたは俺をかつての恋人だと認められるのか。なぁ」
柔らかく目を細めたまま、口角を緩やかに上げたまま、彼は私の心を抉る。私が祈っていた小さな星を撃ち落として足蹴にする。美しい顔で、彼の顔で。
彼は、死んだ。
子どもを庇って車と衝突、強く頭を打って。
「気づいてただろ。そんなに都合良く物事は進まないって。もう一度教えてあげようか」
やめろ、聞きたくない、言うな、口を閉じて、言わないで、やめて。その声を聞かせないで。
「お前の大好きな彼はもうとっくに死んだよ」
自分でもなぜ泣いているかわからない。彼が死んだことを認めてしまった悲しさなのか虚しさなのか、この男に現実を突きつけられた怒りなのか悔しさなのか。最初こそ彼は私の頬を指で拭っていたが、やがて手が濡れてしまうと、どういうわけか私を横抱きにしてリビングを離れる。いっそフローリングに体を打っても構わないから一秒だって早くこの腕から逃れたい。離してくれ、あなたにこんなことされたくない。今はその顔も見たくない。もがきながら震えた声で訴えるが、しっかりと力が込められた逞しい男の腕には勝てず、彼の足はどんどん前へ進んでいった。
私の抵抗の一切を意に介さず、目的地であろう彼の部屋に連れ込まれたかと思えば大きなベッドに投げ出される。キキョウに抱かれてここへ来ること自体は何度もあったものの、こんなに乱暴に扱われたのは初めてだ。よく彼と一緒に眠った布団の上。今ではこの男が毎日寝ている場所。香る匂いは全く変わっていない。ここにいてはいけないと警戒で強ばる体を無理やり起こそうとした瞬間、彼の手が首に絡みつく。
「酷い女だ。ついに俺を呼び違えたくせに被害者ヅラをしている。お前が名付けたというのに、忘れたか? 俺を恋人だと認めたくなかったんだろう。だから別の名前を与えたというのに、自分にとって好ましい存在になると今度は元の名前を口にする。そんな残酷なことがあるか? 俺をなんだと思っている。俺はキキョウじゃない」
呼吸が止まるのほどの力はない。しかしその指は吸い付くように私の首へ密着していて、多少の息苦しさと命を握られている恐怖に呼吸が浅くなるのが自分でもわかる。初めて見る怒りの滲んだ目は真っ直ぐに私を見下ろし、それでいて上がった口の端がまるでこちらの反応を楽しんでいるような、侮辱しているような、とにかく不愉快で仕方がなかった。
「お前にとって都合のいい男を演じるのは疲れた。もういい。とんだ茶番だ。代わりに教えてやる。お前の空虚な妄想がどれだけ幼稚なのか」
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