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未来の林へ
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【1】
夏が終わりかけた頃、直人のもとに、一本の電話がかかってきた。
それは、かつて自分が勤めていた大学の、昆虫学研究室からだった。
「榊原先生、今度の公開講座で特別講演をお願いできませんか? “昆虫と記憶の関係”というテーマなんですが……先生の話を聞きたいという声が多くて」
一瞬、戸惑いが胸をよぎった。
あの頃の自分は、どこか冷めていた。昆虫を“対象”として見ていたにすぎなかった。
だが今の自分は──虫の中に、自分や他人の人生を見ている。
「……喜んで、お受けします」
________________________________________
講演当日。大学の大講義室は、学生だけでなく、地域の親子連れも招かれ、思いのほか賑やかだった。
直人は、壇上に立つと、まず一枚のスライドを映し出した。
それは、一匹のオオムラサキの写真だった。
「このチョウは、ぼくの“人生を変えた昆虫”です。見た人にとってはただの標本かもしれない。けれど、ぼくにはこの羽の一枚一枚に、匂いがあり、声があり、誰かの笑い声が聞こえるんです」
静まり返る会場に、遠くで蝉の声が重なって聞こえた気がした。
「虫は、人の記憶をつなぎます。とくに子ども時代に出会った昆虫は、一生残る“記憶の標本”になることがあるんです」
スライドが切り替わり、子どもたちが夢中で虫を追いかけている写真が映る。
「ぼくは、いま“昆虫教室”を通して、未来のだれかの記憶を作るお手伝いをしています。もしかすると、それは学問としては不完全かもしれません。でも、心に残る“何か”はきっとある。それを信じています」
最後に、スタンプ帳の画像を映した。
「これは、ぼくの“生きている標本箱”です。出会った子どもたちの記録が、ここに全部ある。中には、昔亡くなった友だちと再会した記憶まであるんです。信じてもらえるかわかりませんが……」
その瞬間、スライドの端に、なぜか“もう一冊のスタンプ帳”の影が映ったように見えた。
(……だいちゃん?)
だれかが、そっとページをめくった音がした気がした。
________________________________________
講演が終わったあと、ひとりの学生がそっと近づいてきた。
「先生……ぼく、小さいころ虫が怖かったんです。でも今日、初めて、虫が“誰かの記憶を運んでる”って知って……。なんか、少しだけ好きになれそうです」
直人は、にっこりと笑った。
「それで十分。きっと、君にも“好き”の芽がある。育てるかどうかは、自分次第だよ」
________________________________________
その晩。帰りの電車の窓に映った自分の顔は、どこか子どものころに似ていた。
「なあ、だいちゃん……聞こえるか? 俺さ、あのときのお前との約束、まだ続けてるよ」
耳を澄ませたその瞬間、電車の窓に、小さな手のひらが触れたように見えた。
反射か、記憶か、それとも奇跡か──
直人は静かに目を閉じた。
記憶の標本箱には、今日もまた、新しい“羽音”が加えられていく。
そして、それを誰かがまた、未来で開く日が来るだろう。
【2】
季節は巡り、山の木々が赤や黄色に染まり始めたころ。
直人はふとした思いつきで、幼い頃過ごした故郷の町を再び訪れてみることにした。
駅前の商店街は静まり返っていたが、どこか懐かしいぬくもりがあった。自転車で走った道、だいちゃんと虫網を持って駆けた坂道、どこも少しずつ姿を変えながら、今もそこにあった。
そして、例の“ひみつの林”の入り口に立ったとき、直人の胸が音を立てて高鳴った。
(ここは……変わってない)
風に揺れる葉の音、乾いた土の匂い。全身に蘇る、あの夏の記憶。
ゆっくりと足を踏み入れると、林の奥にぽっかりと陽の差す小さな空間があった。かつて、ふたりが昆虫を追いかけ、夢を語り合った“約束の場所”。
その中心に、なぜか古びた木の標識が立っていた。
風化して読みにくくなっていたが、そこにはこう彫られていた。
「だいちゃんと、なおとの ひみつのばしょ」
直人はしゃがみこみ、思わず笑った。
本当に……あのときのままだ。
ポケットから、いつも持ち歩いていたスタンプ帳を取り出し、そっと開いた。最終ページの空白に、鉛筆でゆっくり書き加える。
「202X年 秋――約束の林にて」
その瞬間、どこかで枝が揺れ、小さな羽音が聞こえた。
ふと見上げると、木の枝に止まった一匹のオオムラサキが、夕日に透けて羽を広げていた。
(……来てくれたのか)
直人はそっと立ち上がり、帽子をとって微笑む。
「だいちゃん。ありがとうな。お前がいてくれたから、今の俺がいる」
風が吹き、落ち葉が舞った。その中に、どこか懐かしい声が混じっていた気がした。
「なおと。まだ虫とり、終わってないだろ?」
________________________________________
帰り道、直人は何度も振り返った。
けれど林は、もう静かに沈み、元の静寂を取り戻していた。
それでも、彼の中には確かにあの時間が刻まれていた。
少年だったころの心と、虫たちと過ごした奇跡の季節。
________________________________________
その冬。直人の博物館では、新しい特別展が開催された。
タイトルは――
「ひみつの林の標本箱 ― 昆虫と、記憶と、約束と。」
展示の最奥には、小さな木の標識が再現されていた。
その隣には、スタンプ帳のレプリカ。
そして一枚の写真。満面の笑顔で網をかまえる二人の少年。
その展示を見たある来館者が、そっとノートにこう記した。
「ぼくも、だれかとこんな夏をすごしたい。
大人になっても、きっと忘れたくないです。」
直人はその文字を読み、目を閉じた。
そうしてまた、次の教室の準備に取りかかった。
彼の“虫とり”は、まだ終わらない。
【3】
春。
山桜が咲きはじめ、街全体が淡い色に包まれる頃。直人のもとに、ある一通の封書が届いた。差出人は、小学5年生の頃からずっと彼の昆虫教室に参加していた少女・水城遥(みずき はるか)だった。
彼女はかつて「図鑑をつくる人になりたい」と言った少女だ。
封筒の中には、一枚の手紙と、手づくりの昆虫図鑑の試作ページが入っていた。
________________________________________
直人先生へ
わたし、今春から東京の大学に行きます。
昆虫の研究ができる学部に合格しました。
最初に先生の教室でオオムラサキを見たときのこと、今でも覚えています。
あの光が、わたしの中の“最初の夏”でした。
先生みたいに、誰かの心に残る虫の先生になります。
だから見ていてくださいね。
ひみつの林、いつか案内してください。
水城遥
________________________________________
読み終わった直人は、手紙をそっと胸にしまい、しばらく動けなかった。
胸の奥で何かがじんわりと広がっていく。
これは誇りなのか、寂しさなのか、それとも──かつての自分に対する返歌のようなものか。
「……見てるよ、遥」
呟く声は静かで、けれど確かな響きをもっていた。
________________________________________
数日後、直人は博物館の地下保管室で、ひとつの標本箱を開けていた。
それは、かつて自分とだいちゃんが初めて一緒に作った、記念すべき箱。
中には古びたオオムラサキと、ふたりの名前が小さく記されたカードが添えられていた。
彼はそこに、そっと小さなラベルを加えた。
「202X年 春:第一の教え子、旅立ち」
これでいい。
だいちゃんとの夏が、誰かの未来になった証。
________________________________________
春の展示が始まり、来館者が再びにぎわう博物館の片隅に、小さな案内板が新しく設けられた。
《あなたの“ひみつの林”を探そう。》
その案内に誘われるように、今日もまた小さな子どもたちが虫かごを抱えてやってくる。
中には、何かを思い出したように涙ぐむ大人の姿もある。
記憶はめぐり、命は受け継がれ、“好き”はつながっていく。
________________________________________
直人は、その日も教室の準備をしていた。
新しく届いた虫あみを整えながら、心の中でつぶやく。
「だいちゃん……あのときの“約束”、俺はまだ守ってるよ。
きっとこれからも、ずっと──」
窓の外に、ふわりと一匹の蝶が舞った。
淡い光のような羽音を残して、春風に乗って消えていった。
【4】
ゴールデンウィーク明けのある朝。
博物館の中庭では、直人が小さなテントを立て、青いビニールシートの上に虫あみと図鑑、拡大鏡を並べていた。
「“動く教室”って、本当にやるんですか?」
新しく博物館に入った若いスタッフが、やや不安げに尋ねた。
「やるよ。外に出ないと見えないこともある。教室は建物の中だけじゃない」
直人の表情は、かつての少年そのものだった。
________________________________________
その週末、「移動昆虫教室」の初回が始まった。
行き先は、直人とだいちゃんが駆け回った、あの“ひみつの林”。
バスに揺られて集まったのは、小学生と保護者あわせて30名ほど。
春の新緑が光を反射し、葉の隙間から蝶やカミキリムシが顔を出す。
直人は子どもたちの先頭を歩きながら、笑い声のまじる林の中に、何度もふと立ち止まった。
「ここで昔、オオムラサキを見つけたんだ」
「この倒木の裏に、でっかいヒラタクワガタがいたんだぞ」
子どもたちは夢中で後に続き、保護者たちはどこか懐かしそうな顔をしていた。
________________________________________
午後になり、陽が少し傾き始めたころ。
子どもたちが捕まえた虫を並べて観察しながら、直人はひとりの男の子に声をかけた。
「きみ、虫とりどうだった?」
男の子は答えなかった。じっと、虫かごの中のコガネムシを見つめていた。
「……この虫、光ってるね」
「そうだね。ときどき、心の中の何かに似てると思わない?」
男の子は、顔を上げてポツリと言った。
「おじいちゃんが死んじゃってさ。でも、虫を見てたら、おじいちゃんの話を思い出したんだ」
直人は、その子の頭をそっとなでた。
「それは、すごく大事なことだ。きっと、おじいちゃんも、今ここにいるよ」
________________________________________
夕方。帰りのバスの中で、子どもたちが口々に「また来たい!」「あの虫の名前、覚えたよ!」とはしゃぐ声が響いていた。
そして、直人は誰にも言わずに、最後にもう一度だけ林に戻った。
静まり返った林の奥。空気は昼間よりひんやりしていて、木々の間から、茜色の光が差し込んでいた。
直人は、あの標識の前に立ち、スタンプ帳を開く。
そして、最後のページに小さく書き込んだ。
「202X年 初夏:ひみつの林、開放」
________________________________________
その夜、博物館の展示室では、新しいコーナーが準備されていた。
タイトルはこうだ。
「未来の林へ――“好き”がつなぐ虫と記憶の旅」
展示の入り口には、誰でも記入できるノートが置かれていた。
「虫を好きになった日」
「だれかと虫とりをした思い出」
「これからの“ひみつの林”」
ページは毎日、少しずつ埋まっていった。
________________________________________
ある晩。閉館後の静かな展示室にて、直人はひとりノートをめくっていた。
すると、どこにも署名のない、けれど見覚えのある文字があった。
「なおとへ
お前が“好き”を届けた子は、もう次の子に渡してるみたいだぞ。
虫とり、終わらせるなよ?
――だいちゃん」
思わず笑いながら、直人は展示室の天井を見上げた。
風も、声もない夜なのに──確かにそこには、夏のはじまりの気配があった。
________________________________________
“好き”は命と似ている。目に見えなくても、誰かに残る。
そして、それを受け取った子がまた、自分だけの林を歩きはじめる。
直人の旅も、まだ続いている。
【5】
それは、ひとつの夏の終わりと、もうひとつの夏のはじまりだった。
新学期がはじまり、博物館にはいつも以上にたくさんの子どもたちが訪れていた。校外学習の定番になった直人の「動く昆虫教室」は、今や年齢も地域も超えて広がりを見せていた。
ある日、直人のもとに、ふたりの男の子がやってきた。
背の高い子が虫かごを手に持ち、小柄な子は小さなノートをぎゅっと胸に抱えていた。
「先生、こいつ、虫は好きなんだけど触れないんだって!」
「うるさい! でも……先生、見てるのは好きなんです」
直人は笑ってしゃがみ込むと、ふたりに言った。
「虫は、さわれなくてもいい。まずは“見たい”って気持ちがあるだけで、それはもう仲間だよ」
「仲間?」
「うん。虫のこと、ちゃんと見てる人は、虫にとっても“見られてる”ってことだよ。だから、きっと向こうも安心してくれる」
男の子は、少し黙ってから言った。
「……じゃあ、ぼく、仲間になれるように、毎日ノート書く」
「いいね。それ、きっと君だけの“図鑑”になるよ」
________________________________________
その夜、直人は久しぶりにスタンプ帳を開いた。
ページの間から、1枚の古い写真がひらりと落ちた。
だいちゃんとふたり、満面の笑顔で虫あみを振りかざしている、あの夏の一枚だった。
写真の裏には、鉛筆でこう書かれていた。
「202X年にまたここで会おうな」
──未来の約束を、過去の少年が残していた。
(202X年……今じゃないか)
心の奥が、静かにざわめいた。
________________________________________
秋の気配が混じる風の中、直人は“ひみつの林”にひとり足を運んだ。
陽が傾きかけた時間、あの標識の前に立ち止まる。
「……来るわけないか。いや、もしかしたら──」
そう思って、ふと目をこらすと、林の奥に、ひとつだけ小さな光が瞬いていた。
一匹の蛍だった。
季節外れのその光は、まるでだいちゃんの「また来たぞ」と言っているようだった。
直人はその場に腰を下ろし、静かに語りかける。
「なあ、だいちゃん……
お前の“好き”はさ、今、いろんな子どもたちの中で生きてる。
泣き虫の子も、虫がこわい子も、いつかみんな、好きになるって信じてる。
だから、俺、もう少しこっちでやるよ」
蛍は、ゆらりと一度だけ羽を震わせて、空へと消えていった。
________________________________________
博物館に戻った直人は、展示室の片隅に、小さな木箱を置いた。
その中には、スタンプ帳の複製と、子どもたちの“好き”を集めたノートが収められている。
箱のふたには、こう彫られていた。
「君だけの“ひみつの林”を探しに行こう。」
来館者が気まぐれにふたを開けて、そっと思い出を書き留める。
それはもう、ひとつの標本箱ではなく、記憶が育つ森の入口だった。
________________________________________
そして、ある晴れた午後。
直人は展示室で、新しくやってきた少女に話しかけられた。
「先生……虫って、どこまで飛んでいけるの?」
直人は答えた。
「どこまでも。心の中に“好き”があれば、きっと、どこまでも飛んでいけるよ」
少女はうなずき、虫かごを手に、出口の方へと走っていった。
その背中を見送った直人の耳に、かすかに声が聞こえた気がした。
──なおと。お前、ほんとに、終わらせないんだな。
直人はうなずく。
「まだ、旅の途中だよ。だいちゃん」
そして今日もまた、“誰かの夏”がはじまっていく。
夏が終わりかけた頃、直人のもとに、一本の電話がかかってきた。
それは、かつて自分が勤めていた大学の、昆虫学研究室からだった。
「榊原先生、今度の公開講座で特別講演をお願いできませんか? “昆虫と記憶の関係”というテーマなんですが……先生の話を聞きたいという声が多くて」
一瞬、戸惑いが胸をよぎった。
あの頃の自分は、どこか冷めていた。昆虫を“対象”として見ていたにすぎなかった。
だが今の自分は──虫の中に、自分や他人の人生を見ている。
「……喜んで、お受けします」
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講演当日。大学の大講義室は、学生だけでなく、地域の親子連れも招かれ、思いのほか賑やかだった。
直人は、壇上に立つと、まず一枚のスライドを映し出した。
それは、一匹のオオムラサキの写真だった。
「このチョウは、ぼくの“人生を変えた昆虫”です。見た人にとってはただの標本かもしれない。けれど、ぼくにはこの羽の一枚一枚に、匂いがあり、声があり、誰かの笑い声が聞こえるんです」
静まり返る会場に、遠くで蝉の声が重なって聞こえた気がした。
「虫は、人の記憶をつなぎます。とくに子ども時代に出会った昆虫は、一生残る“記憶の標本”になることがあるんです」
スライドが切り替わり、子どもたちが夢中で虫を追いかけている写真が映る。
「ぼくは、いま“昆虫教室”を通して、未来のだれかの記憶を作るお手伝いをしています。もしかすると、それは学問としては不完全かもしれません。でも、心に残る“何か”はきっとある。それを信じています」
最後に、スタンプ帳の画像を映した。
「これは、ぼくの“生きている標本箱”です。出会った子どもたちの記録が、ここに全部ある。中には、昔亡くなった友だちと再会した記憶まであるんです。信じてもらえるかわかりませんが……」
その瞬間、スライドの端に、なぜか“もう一冊のスタンプ帳”の影が映ったように見えた。
(……だいちゃん?)
だれかが、そっとページをめくった音がした気がした。
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講演が終わったあと、ひとりの学生がそっと近づいてきた。
「先生……ぼく、小さいころ虫が怖かったんです。でも今日、初めて、虫が“誰かの記憶を運んでる”って知って……。なんか、少しだけ好きになれそうです」
直人は、にっこりと笑った。
「それで十分。きっと、君にも“好き”の芽がある。育てるかどうかは、自分次第だよ」
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その晩。帰りの電車の窓に映った自分の顔は、どこか子どものころに似ていた。
「なあ、だいちゃん……聞こえるか? 俺さ、あのときのお前との約束、まだ続けてるよ」
耳を澄ませたその瞬間、電車の窓に、小さな手のひらが触れたように見えた。
反射か、記憶か、それとも奇跡か──
直人は静かに目を閉じた。
記憶の標本箱には、今日もまた、新しい“羽音”が加えられていく。
そして、それを誰かがまた、未来で開く日が来るだろう。
【2】
季節は巡り、山の木々が赤や黄色に染まり始めたころ。
直人はふとした思いつきで、幼い頃過ごした故郷の町を再び訪れてみることにした。
駅前の商店街は静まり返っていたが、どこか懐かしいぬくもりがあった。自転車で走った道、だいちゃんと虫網を持って駆けた坂道、どこも少しずつ姿を変えながら、今もそこにあった。
そして、例の“ひみつの林”の入り口に立ったとき、直人の胸が音を立てて高鳴った。
(ここは……変わってない)
風に揺れる葉の音、乾いた土の匂い。全身に蘇る、あの夏の記憶。
ゆっくりと足を踏み入れると、林の奥にぽっかりと陽の差す小さな空間があった。かつて、ふたりが昆虫を追いかけ、夢を語り合った“約束の場所”。
その中心に、なぜか古びた木の標識が立っていた。
風化して読みにくくなっていたが、そこにはこう彫られていた。
「だいちゃんと、なおとの ひみつのばしょ」
直人はしゃがみこみ、思わず笑った。
本当に……あのときのままだ。
ポケットから、いつも持ち歩いていたスタンプ帳を取り出し、そっと開いた。最終ページの空白に、鉛筆でゆっくり書き加える。
「202X年 秋――約束の林にて」
その瞬間、どこかで枝が揺れ、小さな羽音が聞こえた。
ふと見上げると、木の枝に止まった一匹のオオムラサキが、夕日に透けて羽を広げていた。
(……来てくれたのか)
直人はそっと立ち上がり、帽子をとって微笑む。
「だいちゃん。ありがとうな。お前がいてくれたから、今の俺がいる」
風が吹き、落ち葉が舞った。その中に、どこか懐かしい声が混じっていた気がした。
「なおと。まだ虫とり、終わってないだろ?」
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帰り道、直人は何度も振り返った。
けれど林は、もう静かに沈み、元の静寂を取り戻していた。
それでも、彼の中には確かにあの時間が刻まれていた。
少年だったころの心と、虫たちと過ごした奇跡の季節。
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その冬。直人の博物館では、新しい特別展が開催された。
タイトルは――
「ひみつの林の標本箱 ― 昆虫と、記憶と、約束と。」
展示の最奥には、小さな木の標識が再現されていた。
その隣には、スタンプ帳のレプリカ。
そして一枚の写真。満面の笑顔で網をかまえる二人の少年。
その展示を見たある来館者が、そっとノートにこう記した。
「ぼくも、だれかとこんな夏をすごしたい。
大人になっても、きっと忘れたくないです。」
直人はその文字を読み、目を閉じた。
そうしてまた、次の教室の準備に取りかかった。
彼の“虫とり”は、まだ終わらない。
【3】
春。
山桜が咲きはじめ、街全体が淡い色に包まれる頃。直人のもとに、ある一通の封書が届いた。差出人は、小学5年生の頃からずっと彼の昆虫教室に参加していた少女・水城遥(みずき はるか)だった。
彼女はかつて「図鑑をつくる人になりたい」と言った少女だ。
封筒の中には、一枚の手紙と、手づくりの昆虫図鑑の試作ページが入っていた。
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直人先生へ
わたし、今春から東京の大学に行きます。
昆虫の研究ができる学部に合格しました。
最初に先生の教室でオオムラサキを見たときのこと、今でも覚えています。
あの光が、わたしの中の“最初の夏”でした。
先生みたいに、誰かの心に残る虫の先生になります。
だから見ていてくださいね。
ひみつの林、いつか案内してください。
水城遥
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読み終わった直人は、手紙をそっと胸にしまい、しばらく動けなかった。
胸の奥で何かがじんわりと広がっていく。
これは誇りなのか、寂しさなのか、それとも──かつての自分に対する返歌のようなものか。
「……見てるよ、遥」
呟く声は静かで、けれど確かな響きをもっていた。
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数日後、直人は博物館の地下保管室で、ひとつの標本箱を開けていた。
それは、かつて自分とだいちゃんが初めて一緒に作った、記念すべき箱。
中には古びたオオムラサキと、ふたりの名前が小さく記されたカードが添えられていた。
彼はそこに、そっと小さなラベルを加えた。
「202X年 春:第一の教え子、旅立ち」
これでいい。
だいちゃんとの夏が、誰かの未来になった証。
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春の展示が始まり、来館者が再びにぎわう博物館の片隅に、小さな案内板が新しく設けられた。
《あなたの“ひみつの林”を探そう。》
その案内に誘われるように、今日もまた小さな子どもたちが虫かごを抱えてやってくる。
中には、何かを思い出したように涙ぐむ大人の姿もある。
記憶はめぐり、命は受け継がれ、“好き”はつながっていく。
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直人は、その日も教室の準備をしていた。
新しく届いた虫あみを整えながら、心の中でつぶやく。
「だいちゃん……あのときの“約束”、俺はまだ守ってるよ。
きっとこれからも、ずっと──」
窓の外に、ふわりと一匹の蝶が舞った。
淡い光のような羽音を残して、春風に乗って消えていった。
【4】
ゴールデンウィーク明けのある朝。
博物館の中庭では、直人が小さなテントを立て、青いビニールシートの上に虫あみと図鑑、拡大鏡を並べていた。
「“動く教室”って、本当にやるんですか?」
新しく博物館に入った若いスタッフが、やや不安げに尋ねた。
「やるよ。外に出ないと見えないこともある。教室は建物の中だけじゃない」
直人の表情は、かつての少年そのものだった。
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その週末、「移動昆虫教室」の初回が始まった。
行き先は、直人とだいちゃんが駆け回った、あの“ひみつの林”。
バスに揺られて集まったのは、小学生と保護者あわせて30名ほど。
春の新緑が光を反射し、葉の隙間から蝶やカミキリムシが顔を出す。
直人は子どもたちの先頭を歩きながら、笑い声のまじる林の中に、何度もふと立ち止まった。
「ここで昔、オオムラサキを見つけたんだ」
「この倒木の裏に、でっかいヒラタクワガタがいたんだぞ」
子どもたちは夢中で後に続き、保護者たちはどこか懐かしそうな顔をしていた。
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午後になり、陽が少し傾き始めたころ。
子どもたちが捕まえた虫を並べて観察しながら、直人はひとりの男の子に声をかけた。
「きみ、虫とりどうだった?」
男の子は答えなかった。じっと、虫かごの中のコガネムシを見つめていた。
「……この虫、光ってるね」
「そうだね。ときどき、心の中の何かに似てると思わない?」
男の子は、顔を上げてポツリと言った。
「おじいちゃんが死んじゃってさ。でも、虫を見てたら、おじいちゃんの話を思い出したんだ」
直人は、その子の頭をそっとなでた。
「それは、すごく大事なことだ。きっと、おじいちゃんも、今ここにいるよ」
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夕方。帰りのバスの中で、子どもたちが口々に「また来たい!」「あの虫の名前、覚えたよ!」とはしゃぐ声が響いていた。
そして、直人は誰にも言わずに、最後にもう一度だけ林に戻った。
静まり返った林の奥。空気は昼間よりひんやりしていて、木々の間から、茜色の光が差し込んでいた。
直人は、あの標識の前に立ち、スタンプ帳を開く。
そして、最後のページに小さく書き込んだ。
「202X年 初夏:ひみつの林、開放」
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その夜、博物館の展示室では、新しいコーナーが準備されていた。
タイトルはこうだ。
「未来の林へ――“好き”がつなぐ虫と記憶の旅」
展示の入り口には、誰でも記入できるノートが置かれていた。
「虫を好きになった日」
「だれかと虫とりをした思い出」
「これからの“ひみつの林”」
ページは毎日、少しずつ埋まっていった。
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ある晩。閉館後の静かな展示室にて、直人はひとりノートをめくっていた。
すると、どこにも署名のない、けれど見覚えのある文字があった。
「なおとへ
お前が“好き”を届けた子は、もう次の子に渡してるみたいだぞ。
虫とり、終わらせるなよ?
――だいちゃん」
思わず笑いながら、直人は展示室の天井を見上げた。
風も、声もない夜なのに──確かにそこには、夏のはじまりの気配があった。
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“好き”は命と似ている。目に見えなくても、誰かに残る。
そして、それを受け取った子がまた、自分だけの林を歩きはじめる。
直人の旅も、まだ続いている。
【5】
それは、ひとつの夏の終わりと、もうひとつの夏のはじまりだった。
新学期がはじまり、博物館にはいつも以上にたくさんの子どもたちが訪れていた。校外学習の定番になった直人の「動く昆虫教室」は、今や年齢も地域も超えて広がりを見せていた。
ある日、直人のもとに、ふたりの男の子がやってきた。
背の高い子が虫かごを手に持ち、小柄な子は小さなノートをぎゅっと胸に抱えていた。
「先生、こいつ、虫は好きなんだけど触れないんだって!」
「うるさい! でも……先生、見てるのは好きなんです」
直人は笑ってしゃがみ込むと、ふたりに言った。
「虫は、さわれなくてもいい。まずは“見たい”って気持ちがあるだけで、それはもう仲間だよ」
「仲間?」
「うん。虫のこと、ちゃんと見てる人は、虫にとっても“見られてる”ってことだよ。だから、きっと向こうも安心してくれる」
男の子は、少し黙ってから言った。
「……じゃあ、ぼく、仲間になれるように、毎日ノート書く」
「いいね。それ、きっと君だけの“図鑑”になるよ」
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その夜、直人は久しぶりにスタンプ帳を開いた。
ページの間から、1枚の古い写真がひらりと落ちた。
だいちゃんとふたり、満面の笑顔で虫あみを振りかざしている、あの夏の一枚だった。
写真の裏には、鉛筆でこう書かれていた。
「202X年にまたここで会おうな」
──未来の約束を、過去の少年が残していた。
(202X年……今じゃないか)
心の奥が、静かにざわめいた。
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秋の気配が混じる風の中、直人は“ひみつの林”にひとり足を運んだ。
陽が傾きかけた時間、あの標識の前に立ち止まる。
「……来るわけないか。いや、もしかしたら──」
そう思って、ふと目をこらすと、林の奥に、ひとつだけ小さな光が瞬いていた。
一匹の蛍だった。
季節外れのその光は、まるでだいちゃんの「また来たぞ」と言っているようだった。
直人はその場に腰を下ろし、静かに語りかける。
「なあ、だいちゃん……
お前の“好き”はさ、今、いろんな子どもたちの中で生きてる。
泣き虫の子も、虫がこわい子も、いつかみんな、好きになるって信じてる。
だから、俺、もう少しこっちでやるよ」
蛍は、ゆらりと一度だけ羽を震わせて、空へと消えていった。
________________________________________
博物館に戻った直人は、展示室の片隅に、小さな木箱を置いた。
その中には、スタンプ帳の複製と、子どもたちの“好き”を集めたノートが収められている。
箱のふたには、こう彫られていた。
「君だけの“ひみつの林”を探しに行こう。」
来館者が気まぐれにふたを開けて、そっと思い出を書き留める。
それはもう、ひとつの標本箱ではなく、記憶が育つ森の入口だった。
________________________________________
そして、ある晴れた午後。
直人は展示室で、新しくやってきた少女に話しかけられた。
「先生……虫って、どこまで飛んでいけるの?」
直人は答えた。
「どこまでも。心の中に“好き”があれば、きっと、どこまでも飛んでいけるよ」
少女はうなずき、虫かごを手に、出口の方へと走っていった。
その背中を見送った直人の耳に、かすかに声が聞こえた気がした。
──なおと。お前、ほんとに、終わらせないんだな。
直人はうなずく。
「まだ、旅の途中だよ。だいちゃん」
そして今日もまた、“誰かの夏”がはじまっていく。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
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