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酒場の片隅で

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「なんだそりゃあ」
 幸宏は言った。
 夜。小さな飲み屋の片隅。
 数日にわたる探索の末やっと見つけた、酒の飲める店。路地裏でひっそりと営業するその店でちびちびとぬる燗を啜っていた幸宏に、見知らぬ男が話しかけたのだ。
 薄い白髪混じりの頭はバサバサに乱れ、異様に大きな目が目立つ。薄暗い照明の元でははっきり見て取れないが、茶色に近い薄い瞳の色をしているようだ、肌は荒れ、顔のあちこちに粉を噴いたような湿疹がある。
「ちょっといいかい。耳寄りな話があるんだがね」
 連れがいるでもない。毎日足を運んではいるものの、友人たちは感染症を恐れてほとんど付き合ってはくれないし、たまについてきても、頑なに黙食を守る相手との会話はどこかよそよそしい。つまりは人恋しさを募らせていた幸宏は、何やら怪しいその男の話にも、酒の肴にでもなれば見つけものだとばかりに、素直に耳を傾けた。
 だがしかし。
「Wi-Fiワクチンって、聞いたことあるかい」
 のっけからそんな得体の知れない言葉を口に出され、思わず大声を出したのが、最初のセリフ。
「はは。あんたがそう思うのも無理はねえやな」
 男は自嘲するように笑う。
「なにせ世間にはおかしなデマが乱れ飛んでやがる。ウィルスが特定の電波によってくるだの、薬で電波を受信できるようになるだの。だがね、こいつはそういった話とはちょっと違うんだ」
「どう違うっていうんだ」
「ふむ。あんた、Wi-Fiってなんだか知ってるかね」
「無線LANの規格だろ? 対応端末を無線で結び付けてインターネットに接続するための」
「まあ、だいたいそんなとこだな。こいつがあれば携帯端末が安定して大容量のデータをやり取りできるわけだ」
「それがワクチンとどういう関係が」
「まあ落ち着きなよ。大量のデータってのはさ、詰まるところ、現物と変わらないものなんじゃないかね」
「データはデータだろ。概念がものでないのと一緒で」
「まあそりゃね、概念にしろデータにしろ、それが即座に現物と同じだとは言えないだろうさ。だがね、3Dプリンタってあるだろ? あれなんかは、データをもとに、データ通りのものを出力する仕組みなわけだ。つまり、適切な行動だとか、材料、装置、プロトコル、そういうものがあれば、十分に精度の高いデータは、現物と互換性を持つと言えるんじゃないかね」
「………それは、そうなのかも知れないが」
「そもそもコンピュータってものが、ただのデータを、我々の理解しやすい画像や文字、言語、音声に変換する仕組みだろ?」
「つまり何か、3Dプリンタのようなもので自宅でワクチンを製造できる仕組みがあると?」
「さあそこだ」
 男は身を乗り出した。
「ワクチンってのは結局のところ人の免疫システムを働かせるためのなものだろ。だったら大仰な機械など使わなくとも、生成することのできる”機械”が、ありうるんじゃないかね」
「なんのことだ?」
「身体だよ。あんたや俺の体」
「何を馬鹿なことを。そりゃ身体を思うように働かせて免疫を活性化できればワクチンと同じ効果は得られるだろうが、身体に直接データを流し込むわけにはいかないだろ。それにそんなに都合よく身体を操作できるような技術なんて」
「そっち方向の精度はいらないのさ。免疫ってのは結局異物に反応してそれを排除する物質を作り出すシステムだ。ワクチンは様々な形で、有害な病原体に似た物質、時には無害化した病原体そのものをつかって、そのシステムを起動する。だったら、それがデータでいけない理由があるかい? それに電波は物理現象だ。身体に働きかけることだって理屈の上じゃ不可能じゃない。もちろん、電波を受信する仕組みとしては、いささか心許ないんでね、そこで、これの出番さ」
 男は懐から黒い板状のものを取り出した。ワイズはスマートフォンと同じくらい。側面にインジケーターらしい小さな丸いものと、コネクタらしい穴が開いている。
「こいつを起動して数時間身につけておくと、身体状態をスキャンして、電波の状態を調整してくれる。あとは専用アプリを入れて、Wi-Fi環境下で必要なデータを受け取ったスマホとこいつをBlue toothで接続すればOKさ」
 幸宏はその黒い板を眺めた。
「信じられないな。大体それが本当なら、なんでもっと大々的に宣伝されてないんだ? 本当に効果があるっていうなら、国だって企業だってほっとかないだろう。なんでこんな場末の飲み屋なんかで個別販売みたいな真似してるんだ?」
「誰が売るって言ったね? やるよ、ただで。あんたはただこれを持ち帰って、スマホに専用アプリを入れたらいいんだ」
「ますます怪しい。なんのためにそんな。まさか何か危険が」
「信じないなら無理にとは言わねえよ。まあね、そりゃこっちだって全く慈善でやってるわけじゃねえんだがね」
「?」
「いやなに、あんたの身体データをね、スキャンしたときに、俺のとこに送信してくるようになってるのさ」
「それは……」
「気味が悪いかい? 気持ちはわかるよ。だがね、何も他の個人情報と紐づけてるわけじゃないんだ。こっちはただ、世界のどこかにこういう体の人間がいる、ってデータをいただくだけでいいのさ」
「データだけ、か」
「そうさ。ま、これが最初の疑問への答えでもあるんだがね。つまり、詳しいことは言えないが、おおっぴらに宣伝しても受けるよりもね、こういうやり方で、人間の体のデータを集めた方が得だと思ってる奴がいるってことさ」
「うーん……」
 なおも信じられない、というふうに首を捻る幸宏の前に、黒い板を軽く叩きつけるように置いた。
「まあ好きにすりゃいいさ。持って帰るのも、このままにしとくのもいいし、持って帰ってやっぱり使いたくないってことならそれでも構わない。充電はスマホの充電器が使える。インジケータが赤から青に変わったら充電終了。送信準備終了は緑色。アプリの名前は裏に書いてある。普通にダウンロードできる。何も難しいことはありゃしないんだ。俺なら気休めにでも、使っておくがね」
 言い終わると、男は立ち上がって会計を済ませ、そのまま店を出て行った。

 あれから一年。あのあと、幸宏は結局決断するにはいたらず、あの板を置いたまま店を出た。家に着くまでの間、何度か戻って回収したいという衝動に駆られ、その後も何度かは持ち帰らなかったことへの後悔を覚えたものだが、一度も感染しないままパンデミックを乗り越えた今では、あれでよかったのだと素直に思える。
 時々、考える。結局彼は、何が目的だったのだろう、と。
 あれに本当にワクチンとしての効力があったにせよなかったにせよ、彼の、或いは彼らの側には、何かの目的があったに違いないのだ。
 自分の他に声をかけられた者はどの程度いたのだろう。そしてそのうちどの程度の人数があれを使ってみたのだろう。
 疫病が治まるのと前後して、謎の失踪が増えているという噂がある。頻繁に目撃されるようになった、空を横ぎる謎の光とそれを関連づけて考えるものもいる。
 見上げた空を、また点滅する光点が通り過ぎていった。
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