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レイズの過去を知る
リアノの物語
しおりを挟む――再び目を覚ますと、天井の木目がぼんやりと揺れていた。乾いた香草の匂い。遠くで小鳥が二声だけ鳴く。
(……結局、またここからかよ)
レイズは苦笑を胸の奥で転がし、首だけを横に向ける。視界の端に、控えめな影――。
リアノがいた。
目が合った瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねる。昨日のことが脳裏を過ったのだろう、リアノは慌てて裾をつまみ、深々とお辞儀をして踵を返した。瞳のふちには、こぼれきらない涙の光。
レイズは思う。ウラトスのことで頭はいっぱいだ。だが――いま、この子を行かせてはいけない。
「……まてぃ!!」
喉より先に声が飛び出した。リアノが振り返る。揺れた瞳の奥に、恐れが、そしてすぐに温い喜びが灯る。
「……はい。レイズ様、なんでしょうか」
いつになく柔らかな声音。レイズは頬をかき、視線を泳がせながら言葉を探す。
「その……初日も、二日目も。俺が干からびてる時、いつも助けてくれただろ。ちゃんと礼、言えてなかったなって」
呼吸を一つ挟み、正面から。
「リアノ。いつも支えてくれて、ありがとう」
――堰が切れた。
ぽろ、ぽろ、と綺麗に零れた涙はすぐに形を失い、頬を滑って顎から落ちる。嗚咽が喉の奥でほどけ、堰き止めようとするほど崩れていく。リアノは口元を手で覆い、声にならない声で泣いた。
◇◆ リアノだけの物語 ◆◇
誰にも語らなかった記憶が、胸の底で静かに目を覚ます。
あの頃――メルェが「いた」頃。ほんの一瞬、季節にすれば指で数えられるほどの短さ。それでも確かに、わたしたちはレイズに救われた。誰かにとっては取るに足らない出来事でも、リアノにとっては世界の色がひっくり返るほどの出来事だった。
けれど、今のレイズはそれを何も覚えていない。覚えていなくていい。むしろ、思い出してはいけないことだ。だから彼は、まるで最初から何もなかったみたいに、普通に接してくる。
その優しさが、ときどき胸を刺す。忘れられてしまったのなら、わたしの想いは。メルェの想いは。あの瞬間は――。
それでも、いい。
恩は、返す側が覚えていれば十分だ。彼が覚えていないなら、わたしが覚えていればいい。
『……だから私は、あの方を支える』
ただそれだけを生きる芯にして、リアノは涙を見せないことを選んだ。誰よりも静かに、誰よりも近いところで、彼の歩幅に合わせて寄り添うことを選んだ。
なのに最近のレイズは、イザベルに、リアナに、たくさんの手に支えられて、まるで陽の当たる広場に出たみたいにいきいきとしている。それが嬉しくて、同じだけ、辛い。胸に渦巻くこれは恋なのか、恩なのか。答えの名前は知らない。ただ、彼から「ありがとう」と言われることが、彼女には歓びであり、同時に重たく響く罰のようでもあった。
◇◆ ◆◇
「お、おい!! なんで泣くんだよ……!」
事情を知らないレイズは、ベッドから半身を起こして慌てるしかない。慰めの言葉はどれも薄く、空回りする。リアノは肩を震わせながら首を振るばかりで、涙は止まらない。
理由はわからない。けれど――この涙が“本物”だということだけは、痛いほど伝わる。
レイズは戸惑いながらも、名前を呼び続けた。
「リアノ……リアノ」
小さく、確かに呼ぶたび、彼女の震えは少しずつ穏やかになっていく。泣き疲れたリアノは、やがてレイズの横たわるベッドに身を預けるようにして眠りについた。瞼に影が落ち、呼吸が整う。安らかな寝顔は、何かが報われた人の顔をしている。
レイズはそっと視線を落とし、ためらいがちに手を伸ばした。指先が、光をすくうように空で止まる。
(頭、撫でてやったほうが――)
「……いやいや、ここで少女の頭に触れるとか、俺きもちわるっ!」
自分で自分にツッコミを入れて、慌てて手を引っ込める。心の形は拙く、ぎこちない。けれど、そのためらいの奥にある温度が、彼女をどれだけ救うのか――レイズはまだ知らない。
静けさを裂かないよう、扉が控えめに開いた。顔をのぞかせたのはリアナだ。
「こら……リアノ!」
当主の傍らで眠る妹を見つけ、咄嗟に鋭い声が喉まで上がる。だが一歩、二歩――近づいて、その顔を見てしまえばわかってしまう。これは不敬でも怠慢でもない。胸の底から何かを渡し切って、力が抜けて眠ったのだ。
一方のレイズは、両手をぶんぶん振って全力否定。
「お、お、お、俺なにもしてないからね!? 本当だぞ!?」
リアナはこらえた笑みを口角にだけ乗せ、丁寧に一礼した。
「承知しています。当主様」
彼女はリアノをそっと抱き上げる。細い体は羽のように軽く、泣いたあとの体温だけが腕の中に残った。
「それでは……鍛練に励まれる当主様を、また楽しみにしております」
扉口で振り返り、かすかに目を細める。その目は、妹を守る姉のそれであり、当主を見極める騎士のそれでもあった。
扉が閉まる直前、レイズは小さく漏らす。
「……やだ、あの娘、たくましい……」
室内に静けさが戻る。枕元の水面に差す光が揺れ、天井の木目が波紋のように広がった。
レイズは深く息を吐き、まぶたを落とす。さきほど掴んだ小さな事実――リアノの涙の重み、言葉一つで世界が変わる瞬間――を、頭の中でそっと並べていく。
(ウラトス。クリス。……そして、リアノ)
強さの形は一つじゃない。剣の速さだけが答えじゃない。そう思えた今朝の一件は、たぶん自分にとって大事な“稽古”だった。
窓の外で、昼風が草を撫でる。レイズは横向きに寝返りを打ち、額に手を当ててぽつりと笑う。
(――少しずつでいい。人のことも、自分のことも)
そう呟いた声は、誰にも聞かれないまま、柔らかな午後の光に溶けていった。
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