奇説二天記

奇水

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六ノ段 夕、宵闇の中で小次郎と出逢、伊織とたつぞうはそこに駆けつける事。

(二)

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 ゆうがその若者に出会ったのは、まだ夕日が大地の上に残ってた時刻である。
 いつものように野太刀を抱えるようにして宮本家への道を歩いていた彼女の前に、立ち塞がったのである。

 前髪を残した、背の高い若衆であった。

 一見して元服前と思しき様相だったが、体格と物腰がそれに反している。
 恐るべき武者のものとも一流の兵法者のものとも感じた。
 彼女は初めて会うが、この若者こそが姫路近辺で名を売っている岩流の兵法者、津田小次郎であった。
 当然、そのことを知らないので。
「――どなたですか?」
 ゆうがそう言うと、小次郎は「ふーん」と呟いた。
「今時珍しい野太刀なんか抱えたのがいるから、どんな武者かと思ったが」
「こちらの言ったことが聞こえなかったのです? どなたですか」
 眼差しに力を籠め、言葉に棘を入れ、ゆうは肩から力を抜いた。
 抱えているように持っていた野太刀の柄を胸元へと寄せ、右手を添えた。
 いつでも抜ける態勢だった。それを見て若者が微かに笑ったが、ほどなくしてそれを消し、右手を背中の野太刀の柄へと伸ばしながら後ろに飛び退いた。
「驚いた。……その長さの得物が抜けるのか」
 野太刀とは、だいたい三尺以上の戦場仕様の刀のことをさす。
 この時代でもまだ日常で背負ったりしている人間は幾らかいた。
 戦国時代の遺風が残っているこの頃では、刀は平均して長い。
 戦場では長柄の得物の方が有利である。しかし野太刀や長巻のような長い得物は、どうしても戦いが日常から遠ざかると出番は少なくなる。実戦を重んじるものは長い刀を好んだが、それでも三尺が限度であった。
 携帯しづらいというのもあるが、とにかく抜きにくいのである。
 すぐさま抜くことができなければ、刀などただの棒にも劣るものだ。
 それゆえに抜刀術という、世界でも稀な武術が考案されたのである。抜刀術の開祖として知られる林崎甚助は三尺三寸の刀を使用していた。つまり、それが人間が実践で抜刀できる限界であったと考えてもいい。
 小次郎はゆうが何者かも知らず、ただその刀を抜けるのだと察したようだった。
「非礼は侘びるが、俺は女子と斬り合うつもりはない」
 柄に伸ばしていた手を、ゆっくりとおろしながら言う。
 ゆうはその言葉を聞いてなお、構えを変えなかった。
 むしろ、静かな眼差しを尖らせるように細める。
「三度、言わせますか。非礼を侘びると言うのなら、まず名乗ってからです――どなたですか?」 
「うん………」
 小次郎は、どういっていいのかがわからなくなったように、顔に困惑の表情を浮かべた。特に用事もなく、野太刀を持っているというだけで面白がって姿を出したのが、想いもかけない展開になってしまったという風である。
「……名乗ってもいいが、どうにもここで得体の知れぬのはお互い様だ。女が男を警戒するのは世の常だが、それにしても、あんたは過敏にすぎる。――いや、俺を見逃すなんてまるで考えてもいないだろう。名乗ろうと名乗るまいと、同じく」
「……………」
 その指摘が正しかったのか、ゆうは黙り込んだ。黙ったままで爪一つ分、前に出していた右足を進めた。上体が微かに前屈した。
 小次郎もまた敏感にそれを察し、先ほど下ろしたばかりの右腕を上げようとしとする。
 その手が止まったのは、ゆうの右手を見たからであろうか。
「……………抜けるのか、俺よりも」
 速く、と言いかけたのか。
 呟きとも問いとも言えぬ言葉にゆうは頷きも返さず、ただ足を進めた。爪一つ分。
 それだけでどれほどの圧力を若者が受けているのか、一瞬ごとにその顔に険しさが刻まれていくようだった。
 ……二人の対峙はそれからどれほど続いたのか、ふいに世界が突然、翳った。
 太陽が沈んだのだ。
 何かを決意したように、小次郎の手がしっかりと柄を握った。
 と。

「おゆうさん」

 声がかかった。
 たつぞうだった。
 二人はその途端に双方共に飛び退いた。
 構えは変わらず、しかし二人の位置は離れ……小次郎の顔に驚愕が刻まれていた。
「ゆう――ゆうだと!?」
 怒声にも思えるその叫び声は、永年ご隠居様に仕えて数多くの兵法上手を見聞きしているという自負があるたつぞうをして、思わず身をすくませるほどの激しさがあった。
 ようやく、ゆうの顔に微笑が浮かんだ。
「見つけました」
 果たしてその言葉にどのような意味があったのか。
 小次郎は一度目を閉じたかと思うと、再び瞼を上げたときには表情が一変していた。そこには困惑はなかった。ただ純然たる怒りがあった。憎悪と呼んでよかったのかも知れない。そのまま、目の前のゆうを見据えたままでゆっくりと野太刀を抜いた。
 ゆうは構えを変えぬまま、ただ上体を前へと屈めて膝を落とした。
 二人の距離はおおよそ二間(360センチ)。 
 三尺の野太刀を持つ者同士ならば、一足一刀の間である。
「うぬ……」
 たつぞうが唸り、その場に立ち尽くしたのは、二人の間に貼り詰めた空気に押されたからだ。
 手を出すどころか口、を挟むことすら憚られた。
 そしてまたもやはじまった対峙の時間は、ほどなくして途切れる。
 上段に構えられた小次郎の剣が流星の如く落下し、待ち構えられたゆうの太刀は鞘から迸ってそれを弾き返す。
 二人のそれからの太刀の交差は四度か、五度。
 たつぞうの老いた目では見極めることすら困難な剣の舞いは、ほどなくして駆けつけた足音が聞こえた時、どちらともなく中断した。
 小次郎は「ふー」と今まで呼吸していなかったように息を吐き出し。
 ゆうは野太刀を担ぎ、「こないでください」と言った。
「若!」
 たつぞうは、自分の声を悲鳴のように聞いた。
 やってきたのは、宮本家の若き当主、宮本伊織だったのだ。

 
 ◆ ◆ ◆ 


「伊織様、お下がりください」
「若、お引きなされ」
 ゆうとたつぞうの二人に言われるまでもなく、伊織は足を止めていた。そこから引きもせずにまじまじとゆうの前にて野太刀を持つ若衆を見た。
(大きい)
 まだ前髪が残っている若衆であるのに、その体躯は細身ながらも伊織の養父である武蔵と見劣りしていない。およそ六尺ゆたか(180弱)というところか。
 元服前だとしたら十四か十三のはずだが堂々としたものだ。
 三尺を超える野太刀を下段に落とし、ゆうと自分たちを油断なく見ている。
 そして若衆は舌打ちした。
「伊織――あんたが、話に聞く宮本伊織か」
 ここで答える義理もないのだが。
「いかにも」
 と胸を張って答えた。武士たる者ならば堂々と名乗るべきである――と考えてた訳ではない。そういう気持ちもないではないのだが、気圧されないようにと無意識にしていた。対峙する時は真直ぐの身で立ち向かえ、と養父に言われたこともあった。
「貴様は何者か」
 誰何の声は腹の底から出した。乱舞の時と一緒だった。気合をこめた声を出す時、下腹から搾り出すように発するのである。
 その声に何を感じたものか、若者は「ふん」と眉をひそめ。

「岩流、津田小次郎」

 そう、名乗った。
「ガンリュウ――」
 伊織は唇の隙間から漏らすようにそう呟き、小次郎という若者と、そして険しい顔で立ち尽くすゆうへと交互に視線を向けた。
「ゆう殿と同門の者か?」
「――――はッ」
 思わず聞いた言葉に、小次郎は即座にはき捨てた。
「そこの女が岩流を名乗るか!」
「名乗っておりません」
 今度は、ゆうが言葉を挟んだ。
「何?」
 と小次郎がゆうの顔をまじまじと見て、伊織も「そうだったかな」とゆうを見た。
(そういえば――別に彼女は岩流を名乗っていた訳ではなかったか)
 ―――多田岩流の縁者
 という風にしか、そういえば彼女は言っていなかった。
 紛らわしい名乗りではあったが、思い出す限りでは彼女自身が何処の所属であるとかそういうことは言っていない。
 こちらが勘違いしていただけだ。
 小次郎は「ふん……」となにやら思案するように眉ねを寄せたが、
「まあいい」
 と再び伊織へと目をやった。
「その女のことは後でいい……あんたが宮本伊織か。かの新免武蔵の養子で、尻一つで近習まで成り上がったという播磨の土侍だと聞くがな」
 よく聞く挑発の言葉だった。
 後年に井原西鶴の男色大観に描かれているが、小笠原家では男色が盛んであるとされている。
 伊織の出世についても近習に取り立てられた頃からそういうことはよく囁かれていた。この時代は衆道はむしろ普通のことであった。念友を近習に取り立てるということは当然のこととされる。
 それでも。
 槍でもなく尻の功での出世などということは、あまり外聞がいい話ではない。
 伊織は「ふん」とわざと鼻を鳴らして黙殺した。よく聞く挑発であるということは、つまりは聞きなれていたということでもある。
 一々相手になどしていられなかったし、そういう相手を実力を見せ付けることで黙らせてきた。
 所詮は子供か、と嘲りを顔に作ってみせた。城中での陰湿な嫌がらせなどに比して、兵法者の、しかも子供のやることなどたかが知れていると思った。
 とはいえ、伊織は慣れていたのだが、その家臣はそれほどでもなかった。
「貴様ッ」
 と堀部がいきりたつ。
 前に出て、腰の刀に手を当てた。
「伊織様を侮辱するかッ」
「堀部」
 と黙らせるために名前を呼んだ伊織であるが。
 堀部の体はそれが引き金になったかのように弾けた。
 が。
「待たれよ」
 ひょいと足を出し、たつぞうが堀部をひっかけた。
 勢いはついていたものの、さすがに竹内流を修めただけはあった。無様に転ぶなどというみっともないまねをさらすことはなく、たたらをふんでから待ち構える小次郎を見て、たつぞうを見て、「くっ」と歯を食いしばりながら無念の面持ちで飛びのいた。
「何をするか!?」
 とたつぞうに食って掛かったが、年長の同僚は落ち着いていた。
「若さまが呼んだのだぞ。―――それに、あやつはかなり使う」
「しかし――」
 そこで歯噛みしつつも押し黙ったのは、たつぞうを年長としてたてたというのもあるが、やはり小次郎の方へと一瞥をくれたところを見ると「使う」ということを重く受け止めていたからだろう。
 それでも唸るような声で「前髪相手に、引き下がるのは……」と言ってしまった。よほどに彼らの主を侮辱されたということが腹立たしいようだった。
「歳で油断するもんじゃない。ご隠居様が初めて決闘したのは十三歳の頃だというぞ」
「その通りだ。下がれ、堀部」
 伊織の言葉に、たつぞうは渋い顔で頷いた。
 その様子を芝居でも眺めるようににやついた顔で見ていた小次郎であるが。
「さすがに、部下の手綱は引けるか。それとも尻をくれてやったか? いやいや、武辺として見習うべき主従だな」
「つまらんものいいは、自分の格を落とすぞ」
 小次郎の挑発を軽く切り捨てた伊織は、視線をやってゆうを自分たちの後ろへとつくように促す。
 ゆうがその伊織の指図に対して躊躇したのは一瞬である。抜き落としていた鞘を拾い上げ、小走りに伊織の傍らについた。
 その時。
「もうしわけございません」
 と小さく呟くのが耳に届いた。
 伊織は頷いた。
「小次郎と言ったか。前髪の分際で武士を愚弄するだけの覚悟、持ち合わせているのだろうな」
「生きるも死ぬも覚悟の上よ。それが武士たる者だろうが」
「ぬかしたな」
 二人の間に緊張が張り詰めた。
 そこにいるだけで喉が渇くような灼けるような時間は、しかしそれほど長くは続かなかった。
「おい」「何事か」「狼藉者か」と声と足音が幾つも聞こえてきたのである。
 いかに日暮れ時であるとはいえ、往来での剣戟などをしていれば当然のことであった。むしろ伊織たち以外の人間がまだここにきていないというのが不思議なほどだ。
 そして、ここで捕縛されるのは間違いなく小次郎である。伊織のような近習の者と前髪を残した若衆の兵法使いとが道端で刃傷沙汰を起こしたとして、まず喧嘩両成敗の原則があるにしても伊織の証言の方がものをいうに決まっている。
 にも関わらず、小次郎は落ち着き払った様子で。
「千載一遇だが、三対一では流石に分が悪い」
 とだけ言って、背中の鞘にゆっくりと納刀する。
 そしてゆっくりと前を向いたままで二歩三歩と後ずさった。
「待て、このまま逃げるつもりか」
 伊織の詰問に。
 小次郎は歯を剥いて笑って見せた。
「逃げるものか! 新免武蔵に伝えろ。多田岩流の無念は一門の者が必ず晴らすと! 首を洗って待っていろと!」
 そういうと、小次郎は素早く振り返り、そのまま走ってゆく。
 深まりつつある薄闇の中に、あっさりとその姿は消えていった。

 ……その様子を見ていた影が幾つかあったのだが、それに伊織たちは気づくことはなかった。 
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